新・南大東島・沖縄の旅情・離島での生活・絶海の孤島では 2023年

2023年、11年振りに南大東島を再訪しました。その間、島の社会・生活がどのように変わっていったかを観察しました。

外国人労働者と季節労働者

2023-08-01 19:59:55 | 旅行

  県道を走行していると機械を使って除草している人を見かけた。聞いてみると、フィリピンから来島した技能実習生であった。島内には10人ほどのフィリピン労働者が居住している、とのことであった。しかし、夜間に飲み屋街で彼らと出会うことはなかったので、在所集落から離れた農家で集団生活をしているようである。この他に、ベトナム人、インドネシア人の労働者も島内で働いていると聞いたが、私は確認できなかった。沖縄の離島でも労働力を補充するため外国人を導入しなければならくなった、という日本の現実に驚かされた。
 昼間、島内の砂糖きび畑を観察していると、日本人が働いているのを見かけることは無かった。仕事をさぼっているのではなく、農家の人達は午前4時頃の日の出前から畑で作業を始め、暑くなってくる午前10時頃には戻ってくるからである。このため、午後2時頃の暑い盛りに農家の前を通ると、テレビの音や人声が聞こえてきた。
 現在の南大東島にフィリピン人の労働者がいることは別に驚かされることではなく、島外からの労働力の導入は戦前からの歴史があった。砂糖きび栽培で一番忙しいのは12月から翌3月までの収穫期である。この時期には、農家の人手では砂糖きびを刈り取ることはできず、島外からの季節労働者を受け入れていた。砂糖きびから粗糖を生産する製糖工場も、この時期は24時間操業となり季節労働者を採用していた。戦前から1970年頃までは、沖縄本島や宮古島から季節労働者を導入していた。しかし、沖縄から内地に就職する人が増え、沖縄本島や宮古島からは労働力を導入するのは困難となってきた。同時に、南大東島の人口も減少し始めていて、島内だけでの労働力確保も難しくなった。
 このため、1966年には台湾からの労働者を招聘することになった。国内で実質的に外国人の単純労働者を採用できるようになったのは、「技能実習制度」が法制化された1993年からで、沖縄での外国人労働者の招聘は内地より早かった。これは当時の沖縄が米軍により統治されていて、外国労働力の導入は琉球政府が許可していたためであった。当時の内地では考えられない制度であった。台湾人は主に台湾彰化県の20歳前後の女性であり、毎年数百人が来島していた。40人前後の男性の台湾人も採用されていた。女性は砂糖きびの刈り取り作業に従事し、男性は砂糖工場で働いていた。台湾人にとって人件費の高い南大東島で働くことは収入が多くなり、農家にとっては大量の労働者を日本人より安く雇用できるので、両者にとってウインウインの関係であった。しかし、この良好な関係は1972年の日中国交回復により、日本と台湾とは断交し、台湾労働者の導入は断ち切られた。
 台湾人の労働力に頼っていた島の砂糖きび産業はたちまち行き詰まった。このため、韓国から労働者を招聘することになり、1974年には259名が、1975年には351名が来島した。しかし、台湾労働者に比べ韓国労働者は、募集費用がかかる割りには生産性が伴わず、韓国人の招聘は2年間で終了したようだ。
 前述した台湾女性による出稼ぎについては、台湾の南華大学の邱シュクブン氏(シュクは王偏に叔、ブンは雨かんむりに文)により聞き取り調査が行われ、2021年に「1960~70年代沖縄的台湾女工」とタイトルして出版された。しかし、日本語訳本が出版されていないので残念である。この邱氏による台湾労働者の研究成果については、2021年4月18日発行の琉球新報に詳しく掲載されている。また、戦後の外国人労働者については、下関市立大学名誉教授の平岡昭利氏が1975年に地質学会で発表した論文、琉球大学大学院に在籍していた呉俐君氏が2018年に琉球大学学術リポジトリに発表した論文が詳しい。
 その後に労働力不足はどのように解消したかと言えば、大型機械の導入であった。1972年以降、島では大型の刈取機の利用が盛んとなり、砂糖きびを刈り取るために大量の人員を動員する必要が無くなってきた。それでも、刈取機の操作や刈り取った砂糖きびを工場まで運搬する大型トラックの運転は、やはり季節労働者に頼らなければならない。現在、季節労働者は北海道の農業経験者が多く採用されているという。砂糖きびの刈り取りの時期は北海道では農閑期であり、北海道の農業従事者は大型農業機械の取り扱いに慣れていて、南大東島の農家にとって都合が良い。しかし、砂糖きびを栽培する他の離島も同じように、収穫期には労働力が不足していて、他県から人材を募集している。離島同士で労働力の奪い合いがあるようで、どの島でも季節労働者の労働条件を良くすることに力をいれているという。

 


下水・中水処理施設

2023-07-30 19:25:26 | 旅行

  前述したように、逆浸透膜による高度な上水施設は1990年に完成し、島内の全ての家庭に供給されるようになった。しかし、下水処理は未発達であった。家庭で蛇口を捻るとそのまま飲料できる水は供給されたが、トイレは相変わらず汲み取りか独立浄化槽による処理に頼っていた。農業集落から排出される生活排水を集めて処理し、処理の終わった水を農業用水や河川に放出して農村の生活環境を良好にする農業集落排水事業が1983年に始まった。この農林水産省による事業により、南大東島では1995年より下水の整備に着手し、2000年に下水処理施設が竣工した。この年以来、島でも都会と同じ水洗トイレが使用でき、快適な生活ができるようになった。
 一段目の写真は下水処理場で、施設の運営には特殊技術が必要なため、民間企業に委託しているようである。二段目の写真は、下水処理場にお馴染みの汚泥槽で、ここだけは特有の匂いがした。小学校にあるプールの半分位の大きさで、東京の下水処理場(現在は、「水再生センター」と名称が変わった)の処理槽に比べると極めて小さい。しかし、人口が1千人強の島ではこの容量の汚泥槽で十分なようである。三段目の写真は、反応タンクと思われ、手前には汚泥槽から回収された汚泥を収納したフレコンが積まれていた。
 この2つの写真から判るように、下水処理場は池之沢集落から少し離れた小高い位置に設置されていて、下水は集落からポンプアップされていた。通常なら下水処理場は下流に設置し、高低差により下水を流下させている。下水をポンプアップするのはこの島独特の理由があるようだ。人口が集中している在所集落と沼水の水面とはあまり高低差が無く、下水を自然流下させ難いようだ。また、島の中央は砂糖きび畑であり、下水処理場を設置すると農作業に不便であるなどの理由でこの場所が決まったのではないかと推測された。
 また、下水処理施設が完成した翌年の2001年には中水処理場が竣工した。四段目の写真は中水処理場である。ここでは、下水処理場で濾過、殺菌した再生水を家庭の便所に中水として供給していた。前述したように、南大東島での上水は海水を逆浸透膜方式で生産しているため供給量が限られ、料金も極めて高いものである。このため、貴重な上水を無駄にせず、下水から中水に再生し、循環させて再利用することになった。本州のほぼ全てのホテルは温水洗浄便座が設置されているが、島のどのホテルにもこの便座は設置されていない。それは、島のホテルのトイレでは中水が利用されているのが原因である。下水から再生された中水には雑菌が混入していることも想定され、衛生面からして各ホテルでは温水洗浄便座を設置できないのである。
 さて、下水処理施設が2000年に完成したが、その恩恵を受けている島の住民は半分程度と思われた。2021年3月における上水と下水の利用者数を比較すると次のようになる。
          利用人口    給水戸数
   上水利用  1261人    640戸
   下水利用   669人    360戸
 つまり、水道は島の全戸に供給され、住民の全員が利用できるのに対して、下水を利用できるのはほぼ半分の家屋と住民なのある。在所集落の人口は636人で、戸数は363戸であることから、下水を利用できるのは在所集落に居住している住人に限られているようである。これは致し方ないことで、島では在所集落に人口、家屋が集中していて、この範囲にしか下水道管を配管できなかった。砂糖きび畑に農家が点在する新東集落では、住人は41人、住戸は22戸しかいない。家屋が散在する新東地域から下水処理場のある池之沢まで、延々と下水管を配管するのは設置の予算や運営費用などから現実的ではない。このため、在所集落以外の集落の家屋では合併処理浄化槽か単独浄化槽が利用されているようである。

 

 


ケンチャンストア

2023-07-28 19:32:16 | 旅行

 在所集落には、衣料品以外の日常生活に必要な各種商品を販売する3軒の小さな雑貨店があります。品数が多いのはJAのスーパーなのですが、住宅街からは少し離れているので、小さな商品を購入する場合は近所の雑貨店が便利です。これらの雑貨店では弁当、パンなどの食料品も販売して、深夜まで営業しているので島のコンビニといったところです。ホテルよしざとの反対側には「ケンチャンストア」という雑貨店があります。本業は養鶏場なのだそうで、新鮮な生卵を販売しています。なお、種子島には「けんちゃんストア」という雑貨店があるのですが、姉妹店ではありません。
 今回の旅行でもこの店は営業していて、壁面には南大東島と店主らしき人物のイラストが描かれていました。前回の旅行の時に見た店舗は二段目の写真で、その壁面は真っ白でピカピカでした。前回の旅行にでかける前、私は現地の状況を把握するためネットで各種の情報を集めていました。その時に、私よりも前に島にでかけた旅行者が立ち上げた複数のブログを見つけ、それらのブログには店舗の壁面に「アンパンマン」のイラストが描かれた写真が投稿されていました。しかし、現地に出掛けてみるとイラストは無く、店舗の壁面は塗り返されて真っ白でした。私は、雑貨店の経営者が変わったので壁面をきれいにしたのだろうか、と想像しました。実は、アンパンマンが描かれた店舗の写真が何かの雑誌に掲載され、それを見つけたプロダクションから店側に著作権侵害の苦情が来たようでした。警告が来たのが私が訪問した2012年の前年だったようで、急遽壁面を全面的に塗り直したのです。これが、前回の旅行の時に店舗全体が新築のように奇麗だった理由でした。なお、ネットで「ケンチャンストア」と検索すると、古いブログにはアンパンマンのイラストが描かれた店舗の写真が出てくることがあります。お試ししてみてはいかがでしょうか。

 


島の公園

2023-07-26 19:02:51 | 旅行

  島のあちこちには公園があります。村役場が認定している公園は7か所ですが、その中には星野洞やキャンプ場も含まれているので、公園という概念の線引きが不明瞭です。都会に住んでいる者からすれば島全体が公園のようなものなので、わざわざ公園を設営する必要は無いのでは、と思うのですが。公認の公園が島内にあるはずなのですが、これらを探すのが非常に難しかった。観光案内にも記載されておらず、村役場のホームページにも掲載されていないためです。一番詳しかったのは「沖縄離島ブログ」というブログでした。このブログでは公園の名称と場所が特定されていましたが、役場が公表している名称と違っていました。どうも、役場が指定した名称と島に居住している人達の通称とが違っているのが原因のようでした。この「沖縄離島ブログ」では各公園の写真に解説が付記されていましたが、その内容が非常に辛辣でした。「何もないではないか」「利用者が少ないのではないか」「無駄である」などの批判がありました。現地を見学してきた私もこれには賛同するところがあります。緑の多い農村なので、わざわざ都会風の公園を整備することもないのではないかと思われました。もしかすると、農村なので近代的?な公園を設置しなければならない、という地方自治体の先入観からなのかもしれません。
 一段目と二段目の写真は瓢箪池の近くにある「月見橋公園」で、2000年に村道の改修工事の際、月見橋の架け替えと同時に設置されました。軽い運動ができるようにランニングコースと運動器具が設置されていました。近くにはトイレも設置されていて、都会では良く見かける公園のスタイルです。しかし、設置場所が在所集落から遠く離れていることから、ここで運動する住人はまれでしょう。
 三段目と四段目は「ひかり公園」と呼ばれ、1993年に竣工しています。広さは8千平米ある広大な公園で、元は病院の跡地であったようです。この公園は農村総合整備モデル事業の助成金で整備され、投下した費用は1億2千2百万円となっています。しかし、園内に入ると草がボウボウで、公園というより草原に近いものでした。このような状況では利用する人はいないでしょう。公園を設置したが、その後の管理費用を予算化することができなかったのではないかと思われました。
 五段目の写真は在所集落の南端にある「在所交通公園」という公園でした。バスケットボールのポールが倒されていて、芝生が敷かれていました。「交通公園」というのですから交通ルールを学習するために設営されたのでしょうか。何れにせよ使用目的が全く不明でした。離島のための助成金が支給されるため、その消化のために設置されたのかもしれません。

 


島の発電所

2023-07-24 19:14:32 | 旅行

 

  戦前の島ではどのように電力が供給されていたか、は明瞭な記録が無い。戦前に島で製糖産業を独占していた東洋製糖株式会社は、業務に必要なため1917年に無線電信所を設置した。島からは、ラサ島経由で那覇まで電信通信を行っていた。このことから、無線電信所を開設した時には、島には発電機が設置されていたと考えられる。また、同年には島内での連絡のための電話回線が敷設されていることから、この年から島での電化が始まった。しかし、この時の発電機の能力については不明であり、無線電信所や電話局だけを照明する小さな電灯が使用されていたのではなかろうか。
 製糖業が東洋製糖から大日本製糖に譲渡された後の1923年には、無線通信所の設備は増強されて発電能力も高まったようであったが、発電量は不明である。南大東村誌の344ページには、当時の設備として「50Kwの無線電話器、1Kwの無線電信機等が設置されていた」と記載されている。しかし、この能力には疑問がある。1925年に東京の愛宕山で開局したラジオ放送局(後のNHK)の出力は1Kwであった。沖縄の離島であるからと言って、これだけ高出力の無線設備が必要であったとは思われない。
 何れにせよ、戦前の島での発電所の能力は小さいものと考えられ、在所集落にある住宅にだけ電灯を灯すための電力が供給されていたらしい。その発電設備も米軍の空襲により焼失し、戦後の一時期は全く電力が供給されなかった。1948年には農業組合が発電事業に乗り出してきてから電化が始まった。1950年になると発電事業は農業組合から大東糖業株式会社に移され、電力供給が増強された。しかし、この頃でも電気による文化生活を楽しめるのは在所集落の住人だけであり、在所集落から離れた農家では蝋燭や灯明による灯で生活しなければならなかった。しかし、内地でも1955年頃までは山間部には給電されず、ランプ生活している住宅も多かった。電化が進まなかったのは離島というだけの理由ではなかった。
 さて、大東糖業が発電事業を承継したが、給電は夕方から5時間程度で、在所集落周辺のみであった。その後、1970年に発電能力を200Kwに増力することで全島の住宅に給電できるようになり、さらに1971年には24時間給電することができるようになった。各家庭での電化には役に立ったが、民間企業による発電であったことから電気料金は沖縄本島に比べると高かった。本島と離島での料金格差を解消するため、大東糖業は発電設備一式を沖縄電力の譲渡し、それ以降の電気料金は本島と同じとなった。
 沖縄電力は、本島と離島とで電気料金を差別をしておらず、沖縄県内ではどこでも同じである。しかし、離島では当然のように発電にかかる経費は本島のそれより高額となる。本島と離島の全ての発電経費を集合し、単位当たりの電気料金を算出すれば、当然のように東京電力、関西電力などの電気料金よりも高くなるはずである。実際に、沖縄での電気料金は高い。
 東京電力では、20A契約の基本料金は623円で、従量料金は120Kwhまでは29.8円である(それ以上消費すると従量料金は段階的に増加する)。
 沖縄電力では、基本料金は10Kwhまでが640円で、それ以降の従量料金は1Kwhについて40円である(それ以上消費すると従量料金は段階的に増加する。2023年度)。
 全国の一世帯当たり1カ月の平均消費電力は348Kwhである(2021年度)。すると、東京電力の電気料金は一世帯当たり月12695円であるが、沖縄電力では月15534円となる。東京電力の電気料金より2割以上高いことになる。
 一段目の写真は沖縄電力南大東電業所の入口、二段目は同事務所の玄関である。ここには出力3千Kwhの発電機が3基設置され、全島に電力を供給していた。発電機はディーゼルエンジンで駆動されているのだが、工場に近づいても静かであった。30年以上前のことであるが、或る離島に出掛けたことがあった。その島でもディーゼルエンジンを利用した発電所が設置されていたが、非常にうるさかったことを記憶している。南大東島の発電所が静かであるのは、工場にある消音設備が優れているのか、エンジンが騒音の少ないものに改良されたのかは不明である。
 三段目の写真は発電所内に設置されている燃料タンクである。490KLを収容できるタンクが2基設置されていて、これで2、3か月は発電を継続できるそうである。燃料となる重油は那覇から船で搬送されているのだが、2百L入りのドラム缶で搬送されていた。ドラム缶の重油を一本づつ燃料タンクに移し替えていくのであり、大変な手間がかかっている。これなら発電所と港の間にパイプラインを設営し、那覇からタンカーで重油を搬送し、タンカーからパイプラインで重油を燃料タンクに移送すれば簡単ではないかと思われる。しかし、内航タンカーの多くは一度に搬送できる能力は5千KL以上であり、この島にある燃料タンクの容量の10倍以上ある。つまり、タンカーの積載能力に比べて南大東島の発電所で収容できる容量が小さすぎるのであり、タンカーを利用して搬送するとなれば船賃が高くなってしまう。このような理由により、現在でも燃料はドラム缶による搬送がされていた。