日本の史実と世界史

日本人に大切な史実の理解。

日清戦争・日露戦争の原因は、現代の朝鮮騒動と同根。

2019-01-22 | 日記
李氏朝鮮の王族、大院君(親父)/高宗(息子)/閔妃(妃)の三者が、権力争いをするために、露・清・日を代わる変わる騒動に引き込んだことが端緒となり日清戰争・日露戰争は起こる。

日清戦争の場合は、治世の能力もなく、気位ばかり高く、近代化の意義が理解できない朝鮮の為政者は、満足な近代国軍を持たず、新興宗教・東学党の反乱鎮圧を他国に乞う。

それ故、清と日本は暴徒鎮圧のために派兵をする事になり結果的に両国は衝突する。

当地の半島地域は、市民を賎民(搾取領民)/奴婢(奴隷)と、両班(特権的役人)や王族に分かれた階級社会で、多くの民は染色もできない生成りの麻装束を纏い、馬屋同然の掘建小屋に住み、近代上下水道もなく泥道に糞尿がまみれる不潔で過酷な國であった。

日・清の両国は、共に朝鮮を防衛ラインと考えていた。

そして、事あるごとに半島域の暴動に駆り出されるゆえに、天津条約(1885)を日清の間で締び互いに牽制し合う。
(朝鮮半島に派兵するときは、互いが事前通告を行う条約)

日本の勝利で終わった日清戦争は、下関条約(1895年)で下記の賠償を受ける。

 1. 李氏朝鮮の独立を認め、冊封を廃止する。

 2. 台湾・遼東半島・澎湖諸島の3地域を日本へ割譲。

 3. 賠償金2億テール(約3億円)を日本へ支払う。



しかし、日本は他の周辺国から賠償に対して干渉されることになる。


賠償を受けた権益へ「露・仏・独」3ケ国が返還を主張する。

この「三国干渉」(1895年)により遼東半島は清に戻るはずが、

 ロシアが清に遼東半島と満州への権益を主張し租借占領した。
 フランスは広州湾を、ドイツは膠州湾を租借した。

難癖をつけた暴漢を追い払ったヤクザの如き周辺国によって、清は列強に植民地化されて版図を毟り取られていく。
清は近代化に出遅れた国状を世界の衆目に曝し足元を見透かされ、欧列強国に国防力の低さを付け込まれる。

毛外と蔑む日本に割譲した「遼東半島」を摘まみ取られて、おまけに「広州湾」「膠州湾」も、列強国によって版図を掠め取られた訳だ。

清王朝にとっては、朝鮮に助けを乞われた挙句、日本と戦端を開くことになり、

一敗血にまみれ、露・仏・独にも蚕食された形だ。







李氏朝鮮の閔妃は、清が衰えたと見るとロシアへ擦り寄りだす。大院君は、日本への接近を指向していたらしい。

「閔妃の殺害」により、高宗はロシア公使館に匿われる。(1896年)

(現在、閔妃と流布される写真は、朝鮮の「妓生/キーセン」と言われる。当時の李朝では王や妃に謁見できる者は限られ、
 満足な肖像写真がなかった時代であり、正確な要人把握に問題が指摘される。)

最早、弱みが露呈された清王朝の維新は地に落ち、「義和団事件」「北清事変」(1900年)が起こる。

治安を守る統治力が衰えた清朝の領地で、クリスチャンの親派である「白蓮教徒」などの勢力へ、「義和拳=梅花拳」と称する拳法集団が、「扶清滅洋/フシンメツヨウ」をスローガンに暴徒化して暴力に訴えた。

『清を扶(たす)け、洋(欧州)を滅する』の合言葉に、清の治安当局は拳法集団に好意的で、次第に在外領事館へも向けられる暴虐行為をも取り締らなかった。

業を煮やした周辺8ヶ国(露/英/仏/米/独/墺/伊/日)は、連合軍を第一次・第二次(日本は英国の要請で2次から参加)と編成し、各国の領事館の防護に介入する。

清朝は、列強の介入に対して宣戦布告を発する。

連合軍の義和団掃討作戦は78回を数え、清朝/西太后は戦火を逃れるため北京から西安に遁走。

義和団と清軍は連合国に鎮圧され、清朝全権の李鴻章と北京議定書(1901年)を調印。

この一件で、清朝の威信は益々衰える。

義和団のどさくさに紛れて、ロシアは満洲に侵攻した軍を引き上げずに居座り続けて占領する。

事大主義(強者に阿る)李王朝の内部分裂は、日本とロシアを朝鮮半島の混乱に引き込む。




日露戦争は、日本ロシアが朝鮮半島を境に対峙した戦役と視れる。

朝鮮の為政者は、事大の盟主を支持する中で分裂仲違いし、
其々が親日派・親露派の傾きから双方に助けを乞い常に紛争関係の中心にいる。

日露衝突の結果、「日英同盟」によるイギリスの側面支援を受けて日本が勝利する。

2つの戦役は、朝鮮半島を挟んだ防衛のライン争奪であり、
自国の民族を満足に養えない中世王朝の独立心の欠如が引き起こした惨事と言える。


○ 日露講和条約/ポーツマス条約(1905年9月)

○ 満洲に関する日清条約(1905年12月)


  日本はロシアからの賠償として、旅順港・大連を租借。
  満鉄の権益を移譲。南樺太の割譲。
  満州国と朝鮮半島の指導監督権を受ける。
  賠償金はなし。



日露戦争はロシア側から見れば、閔妃と大院君の政争に誘い込まれた挙句に、

日本と戦争することになったと考えられる。



朝鮮の権益は、 



1.「第一次日韓協約」(1904年)
  財務顧問と外交顧問を受け入れる条約。

上協約を批准した後、不満を持つ高宗は、ロシアへ密使を送り政治工作を試みる。


2.「第二次日韓協約」(1905年)
  外交権の制限、総監の設置、総監が皇帝を内謁すること締結。  

二次協約の締結後も、高宗は周辺国に条約の無効を主張したが、列強諸国から相手にされなくなる。


事実上、1905年以降の朝鮮半島は日本の施政下に置かれる。

これを、欧州列強が行った植民地と伝える言説が跋扈しているが、

欧州基準の植民地の定義は、宗教や武力を複合的に使って他国を占領し、市民を奴隷として使役して、産品や労働力を搾取することである。

しかし、日本は朝鮮半島の自立を目標に近代化に取り組んだ。

発電所、道路、上下水道、学校、病院などあらゆる近代化を行い、李氏朝鮮の治世では、掘建小屋が
並び道に糞尿が塗れる村々を近代的な都市に変えていった。


ハングル語を普及させたのも当時の日本の教育方針であり、半島の民族文化を尊重した教育政策であった。

創氏改名は、日本が押し付けたのではなく、朝鮮人が進んで通名を望んだことに端を発する。
事大主義の彼らは、日本名を名乗り周辺の他民族に嵩にかかって威張り散らしだす始末であった。

1914年の第一次大戦から大東亜戦争まで、版図が広がった日本は列強の一国に位置付けられた。









大東亜戦争後の敗戦下の義務教育では、米GHQの国際条約に違反した占領政策の名残で、
今でも近現代の日本史を満足に教えない。

しかし、上述した歴史の事実を理解すれば、今の韓国と北朝鮮が中米日露に様々に擦り寄る様は、
往時の写し鏡であることが良く解る。

高宗や閔妃の振る舞いを知れば、現代の金正恩や文在虎の行動原理は見事に重なる。

常に混乱の種を周辺国に押し付け、為政者の私欲私闘に争い暮れる。関わることが百害にしかならない國である。


参考:日清・日露戦争 原田敬一/著 岩波新書
   日本国紀 百田尚樹/著 幻冬舎


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