宮城県の石巻市から岩手県まで
雨の夜道を飛ばして着いたのは
大船渡市越喜来(おきらい)。
嘉宝荘のおかみさんが「久しぶりだね」
と笑顔で出迎えてくれた。
最初に来たのは8年前。
3、11から1年半後だったそうだ。
ヒロシマをテーマにした歌は多いが
原爆投下で家族全員を亡くした
ある女性の歌を作ろうとしていた。
16才の少女がたった一人で生きるとは
どういうことかと咀嚼できないでいた時、
東日本大震災がおこった。
東日本の被災地から届くニュースの中に
2才のお嬢さんを津波で亡くした
若い女性の記事があった。
大泣きした後で鎮魂歌
「風の子守唄」が生まれた。
ヒロシマの平和関連コンサートで必ず歌う。
東日本のどこかの被災地で
歌いたいと思っていた。
友人の紹介で越喜来に繋がり、
コンサートをさせてもらった。
津波でたくさんの方が亡くなられた街。
たくさんの人が来て下さり
屋外でのコンサートとなった。
2回目に来た時は
近くのお寺でコンサートをさせてもらった。
瞬く間の9年だった。
そんなことを思いながら
おかみさん心づくしのご馳走を
満腹以上に頂いて、まだ午後7時。
今はやりの「無観客ライブ」を敢行。
歌う歌が尽きた頃、静香さんが来てくれた。
コンサート開催の折り、大変お世話になった。
おかみさんが連絡をして下さったからこそだ。
深夜までたくさんおしゃべりをした。
何の予定もなく、段取りもせずに来たというと
会わせたい人がいるとのことだった。
翌朝は東日本大震災の3月11日。
昨日とはうってかわって快晴。
「3月11日が命日の人がたくさんいる」
前夜そう言った静香さんの言葉の重みを感じた。
猛烈な強風だった。
入江をぐるりと防潮堤が囲み
街の中心部は少し高い場所に移動して
小学校を含む海岸辺りは更地になっていた。
そこに1本立つ「奇跡のポプラ」。
津波に耐えて青空にすっくと伸びていた。
「おきらいの歌~笑顔に会いに」を
以前作った。
レコーディングをして10枚ほどCDRにして
越喜来の方に手渡した。
その後は失念していたが歌詞が
ひょこり出て来た。
聞いてみたら案外良い歌だった。
地元の方に「越喜来の良いモノ」を聞いて
歌詞に入れたっけ。
ほぼほぼ食べ物です(笑)
その中に樹齢2000年の「大王杉」があった。
街を見下ろす高台の神社にある。
物凄く存在感がある巨木だった。
猛烈な風にあおられて枝が揺れる。
自分が飛ばされそうだった。
防潮堤に囲まれて姿を変えたであろう
越喜来の街を臨みながら
この猛烈な風に乗って
たくさんの龍が来ているのかもしれないと思った。
亡くなった御魂に
天上に駆けあがる龍の背につかまってと、
祈りを捧げながら歌う。
これまでも色々な場所で歌ってきた。
私にとって歌は最大の守りであり、
時には武器であり。
「歌は祈り」だと改めて思った。
紹介頂いた片山さんを訪ねた。
片山さんがプロデュースされたランドマーク。
子供たちのペイントが青空に映えて
力強かった。
越喜来との縁はヒロシマ鎮魂のコンサート
「地球ハーモニー」で初めて歌ったことからだ。
もう20年近く前だ。
写真家・宮角孝雄氏に声を掛けられて以来
お友達として交流がある。
奥さんのともちゃんの知りあいが
越喜来に住んでおられて繋がった。
縁ができるとはこうしたものだが
それ以外にも越喜来とは思いがけない
縁がある。
いとこが北里大学水産学部の卒業生だ。
それを後に知った。
北里大学の在学中に娘が津波に流されて、
「まだ見つからないんです」と
目の前の女性が言われた。
ご主人と関東から度々越喜来に
来られているそうだ。
片山さんほか地元の皆さんの
精神的な支えの存在も大きいだろう。
夕刻は碑の前に松明を掲げて
海岸線に沿ってろうそくがともされた。
13時に「どんな歌?」と聞かれて
初対面の人ばかりに聞いてもらった。
特に「おきらいの歌」は気に入って
下さった。
副題が「笑顔に会いに」。
最初に来た時皆さんが
「久しぶりに笑った」と喜ばれたのを
思いだしながら作った歌だ。
午後2時には近くの碑の前に
テレビカメラが来ていて
「風の子守唄」と「おきらいの歌」を
歌わせてもらった。
そこから一旦、龍昌寺さんへ。
以前ライブをさせて頂いた。
法要に参列させてもらう。
2時46分のサイレンで黙とう。
鐘撞堂の前で総代さんだけの
小さな法要だった。
遠方から来たと恐縮された。
夕刻は海岸線で鎮魂の夕べとなった。
あれよあれよという展開で
2回目のミニ・ライブの運びに私の気が済んだ。
前日立ち寄った場所では男性が
母が流されましたと言われた。
そこかしこで大切な人を亡くし
財産を失くした人が居て
それでもひたむきに生活をされている。
海にはたくさんの船が浮かび
丘には家が建ち、
花が植えられ、作物が育てられている。
何回も何回も災害に見舞われてなお
人は粛々と、たくましく生業を行なう。
そのことが私には深い感慨となった。
周りの人を活かし自分を活かす。
「一生懸命生きる」ことの厳粛さや大切さを
改めて思った。
人生の意義はそこからのみ知ることができる。
画像は帰り道に立ち寄った陸前高田市。
町全体がかさ上げされ、
そこかしこが工事中。
2泊の(ほぼ)単身ツアーから
無事に帰還できた。
「気がかり」をつぶしていくのが
あたしの人生というと妹が
「お母さんと一緒だ」と笑うが
反対されても仕方ない旅だった。
反対されたら
「妙な娘を生んだのはあなた」と
言うつもりだ。
母は案外すんなり「行って来い」
と言ったので
まだこのセリフを「発動」していない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます