3分の1は仕事人生
一生懸命仕事をしている人は正直です。裏も表もありません。そして、周りの事には敏感です。広くいえば国の政治経済、それから家のこと、自社の状況、良くも悪くも感度良好です。その感度を日々の仕事に生かせるならば、その人は仕合わせな人生を送れるでしょう。何故ならば社会人生の3分の1は仕事人生なのです。
仕事について考えてみましょう。仕事=「する事、働く事、職業、職務」という意味の他に理学的な意味合いとして「物体に力が働いて位置が変化する事云々」という意味もあります。ともあれ仕事とは「働く事」であり「働かされる事」ではないといえます。働きかける=Culture、文化文明なのです。しかしながら技術の進歩は分業を進め、働きかけるどころか追い回される事が「仕事」になってしまいました。そこには働く喜びも、生き甲斐も無くなってしまいました。あるのは疎外感のみです。その結果生み出されるものは。
子供は「親の鏡」といわれます、また子供は「親の背中を見て育つ」といいます。生まれたばかりの赤子は真っ白です。人間という生き物は他の動物と異なり学習することでのみ成長します。母親を主体に家族、周りの人達、そして学校、マスメデア。入って来る情報を全て吸収して成長していきます。その能力たるや素晴らしいものなのです。しかしながら現在の子供達は不幸なことが多すぎます。いじめ、不登校、自殺、障害殺人、交通事故、進学問題等々あらゆる不幸を押しつけられています。その源はどこにあるのでしょう。それは「政治の問題」ということにはなるのですが。その政治を決定付けているのは自分たちの主体性の無さでしかありません。日本の歴史は欧米よりもかなり遅れて現代の自由社会に発展しました、そして遅れたぶん民主主義も不十分なまま現在に至っています。そのうえ単一民族の社会です。封建的な意識も根強く残った状態での「自由競争」を繰り返しているのです。技術や生産能力の進歩に政治は大幅に遅れています。
政治はその辺にして、子供達に背中を見られている自分達の話しに戻しましょう。社会人生の3分の1の仕事人生をいかに活々と頑張れるか、それを子供達が見ています。『早く大人になってお父さんのように仕事をするぞ』と。そんな大人達を見ている子供達に不幸はやって来ないと思います。「仕事をする」ということの一番大切な部分はこの事なのです。カッコいいお父さん、素敵なお母さん、それを決めるのも仕事そのものなのです。自分自身を変革し周りを変え、より活々とした自分を創り出す事なのです。
企業の仕事
そして一番大切な事。それは、企業がその「仕事をする」場を保証することす。厳しい現状に於いて非常に難しいことなのですが、それが企業の仕事です。たいていの企業がその経営方針に地域性、社会性を謳っているのですが、自信を持って言える経営者はいません。何故でしょう。基本的に、原則的に経営者は従業員を信用することができません。当然です、利害は対立しているのですから。しかしそうでない経営者も数多くいます、どこが違うのかというと、同じテーブルの上で仕事をしているかそうでないかの違いです。最近、高級官僚と『大』企業との癒着が大きな社会問題となっています。この『人』達は本来の「仕事」そのものを忘れたか、知っていない人なのでしょうか。最近の子供達の問題と同期しているのは偶然ではありません。
春になると新入社員が入社してきます、残念ながら就職難で多くの新人というわけにもいかないのですが。彼等は自分の持っている就職情報値に基づきその企業を測定します。何の測定かというと、自分はこの企業に自身を賭けることが出来るかどうかという企業レベルです。十分な下見をしていても、中に入って見ないと分からない空気があります。その空気を、自己の持つ能力の全てを使って測定するのです。その測定値の結果で能力の何%の力で仕事をするのか判断しているのです。中途で入社した人はもっとシビアです。企業が入社希望の人を選別している以上にそのかけひきはシビアなのです。何故なら企業は動けません。しかし労働者は自由に動く事ができるのです。選ばれているのは個々の企業体の持っている性能、品質そのものなのです。そして、それらを決定付けるのはトップの意思決定能力のレベルなのです。
優越感独り占めタイプいろいろ
職務について考えてみると。班長、係長、課長、部長、といろいろあります。それなりの努力や才能が必要なわけです。そこまでに至る時間も必要でしょうし、上司からの信頼もいります。運も必要でしょう。がんばって手にした職務ですから、よりがんばって上を目指すか、少なくとも、下に落とされるようなことには、なりたく無いでしょう。そこで、ともするとその職務にしがみつきたくなります。特に管理職になるとそうです。しかし、そこまでになった努力の中身を忘れてしまいがちです。その中身は情報そのものです。情報といっても多岐にわたりますが、その全てを自身に取り入れ自分なりに整理整頓して使いこなしてきた筈です。その結果として今があるのです。上に行けば行くほどより重要な情報が手に入りより他の人との差別化が計れるわけです。それを武器に戦うわけですが、戦う相手を間違えて利益に結びつかない方向にいってしまう人があります。その多くは、情報の独り占めで『私が居なければ何も進まないだろう』のような優越感独り占めタイプの人です。このような人は百害あって一利無しです。また自分の中で情報の4Sができず情報がそこで止まってしまう人。もっとも悪質な、情報を横流しにして売買する最近多い官僚タイプの人等。情報とは、どんな仕事にも必要です。最近は情報開示の方向にどんどん進んでいます。どんな小さな企業でもパソコンの一つや二つは置いてあります。情報の独り占めもしにくくなっているのですが、いずれにしてもそのような人は、そこにしがみついている間は邪魔になっているのです。貴方の下に居る人は先に進めないから迷惑しているのです。
仕事には前後の関係があります。工程から工程へと流れていく前後関係です。しかし、上下はあまり必要としません。その必要としない条件はもちろんあります。仕事をしている人達の全部が、自分の仕事はなにか。どうするのか。次にどこへやるのか。そのような、きちんと手順を追った中身のある高度な情報です。そして、それを必要に応じて入手できる高度で精密なシステムです。それさえあれば、極端にいうとピラミッド構造そのものを必要としなくなります。言い換えれば、現在その様なシステムが無いからピラミッドが必要とされている訳です。
人が人を管理するなど無用です。今は、高度な教育を受けた素晴らしい人達ばかりなのです。ここでいう管理と職能教育とは別です。先輩が後輩に仕事を教えるのは当たり前のことです、この当たり前のことが上にあがると独り占めになってしまうのは困るのです。次の人にどんどん自分の持っている情報を開示し、自分は全体から見れば必要な人間ではあるが、自分がいなくても仕事は何の影響も無くスムーズに流れている。そのような管理職になってほしいとおもいます。過去の技術の蓄積は、新しい技術を生み出す重要な要素です。何も無いところからは、なんのひらめきも出てきません。実績を積み重ねてきたプロであるならば、いろいろなアイデアを生かして工程改善などに取り組むべきです。その繰り返しで技術は進歩してきたのです。
実績評価は難しい
賃金の事に触れてみましょう。能力主義でという形が定着しつつあります。しかし、昔ながらの年功序列的な賃金体系も根強く残っています。年俸制を採用している企業も多くなりつつあります。時間給、日給月給、月給、歩合制、出来高制等、支払い形態も色々です。基本的にはいかに実績に応じた賃金にするかと言う事だろうと思えます。個々人の賃金を決定していると思われる実績とはなんでしょうか。それは、過去の実績、現在の実績、そしてこれからの予想し得る実績の総合です。しかし、正確なデータに基づいた実績でなければ意味を成しません。管理体制の遅れている企業では、通常当たり前な人事評価も満足にできていません。トップあるいは上司の主観によって適当に決められている場合が多く、評価基準はそれなりにあったとしても抽象的で判断のしにくいものが多いようです。したがって、必然的に要領のいい人、悪い人で差が付いてしまい、実績による評価とは縁遠い結果となります。
PDCAの繰り返し
もう一度仕事について考えてみましょう。なぜ本来の「仕事」が愚痴と不満にしかならないのか。それは、根本的に自分の実績が表現できない現在の企業の仕組みに問題があるからです。よく「旗振り」と言う言葉を使います。これは『私はこういう仕事をするぞ。こういう方法でするぞ』と宣言し意思表示することです。自分で目標を立て、計画し、十分な検討をして実行する。その結果をみながら、さらに新しいやり方、仕事に挑戦していく。そのPDCAの繰り返しです。プロセス表現すると言う事は、短期にせよ長期にせよ、計画段階から、実行段階。そして、実績の収集。と、時系列的に自己管理できるということです。個人個人がPDCAを自己管理できれば、自分の実績に対する評価の不平等感もなくなります。プロジェクトの大小はあるとしても、個人が活躍できる生産システムにするべきです。公的な技術研究開発の場でも、もっと個人が見えるようにするべきだとの意見も出ています。『私がやった結果だ』ということを世に認めてほしいのです。評価を自分のものとしたいのです。それが明日の活力になるはずです。朝、職場にきて何をするのかではなく、計画的に自分の仕事を自己管理し、現在の自己の能力に応じた実績を残していく事。目標がいずれ手段となる繰り返しで、成長していく自分が確認できれば理想的です。
そうはいっても、そんな面倒なことはしたくない人もあります。落ちこぼれる人も出てくるかも知れません。しかし、生産の仕組みそのものが、そういう形で進んでいるのが普通となり、皆大なり小なりそういうやり方で仕事をしている中にいれば、それが当たり前となってしまいます。変革の導入期には、いろいろな問題も起きるでしょうが、私達はその心配は無用だと思っています。時代の曲がり角においては個人の自発的主体的な活躍が必要です。今までのやり方での不十分さを否定した、新しい飛躍を時代が要求しています。
ピラミッドの限界
組織でいうと、ピラミッドでは頂上にたどり着けるのはごく僅かの人達のみで、皆が皆登り詰めることは不可能です。かりに、実力のある人が、ピラミッド三角形の底辺の端に居るとします。その人は、いずれピラミッドからはみだします。はみださずに登ろうとすると、途中で折れてしまわざるを得ません。底辺の中央に居る人だけが上に登れる訳です。現在の、企業形態としてのピラミッドの必要性は、膨大な情報の量に対する処理能力の問題のみにあるといえます。情報とは上から下には比較的流れやすいものです。しかし、下から上には非常に流れにくいものです。上に行く途中で握りつぶされてみたり、歪曲されたり、忘れられたりで、正確な情報はトップへはおろか志なかばで消えていく運命にあるようです。また、情報は個々のというよりも層別的なものとして扱われる場合が多く、個人的に持っている、具体的有用的な情報は非常に伝わりにくいものです。そして、残念なのはその情報の内容です。これらは、直接負荷価値につながる情報がほとんどといえます。そのへんにピラミッドの限界があると思うのです。
新しい組織への考察
そこで、私達の提案する新しい組織形態は。底辺から垂直に上へとあがる長方形の様な形で、上辺は凸凹になります。底辺はスタートライン。垂線は個人の時間。高さは個人の実績です。車の販売実績グラフのように、一目で個人の実績状況が見て取れます。これがそのまま企業形態なのです。皆「旗振り」です。上位の人の旗振りは必要ありませんし、強要する必要もありません。自発的に旗を振り、主体的に実行に移す。グラフの垂線が高い人が高収入となれば良いのです。高収入にしようと思えばどんどん実績を積み上げればよい。実に簡単明解です。サバイバルゲームのように自由な個人の意思による自由競争ができればよいのです。そして、それが弱肉強食ではなく、全体がリンクのとれた食物連鎖となっていれば、組織的にもなんの不合理もありません。コツコツと積み上げるタイプの人もいれば一発勝負に出る人もいるでしょう。時には失敗することもあるでしょう。個人のゲインを明確にすることが本当の意味での「見える」事なのかも知れません。経営者は、大きなリスクを背負って業績アップに日々努力しています。従業員も当然リスクを負わなくてはフェアーではありません。自己の実績のレベルを率直に受け止めて努力すべきです。スタートのチャンスは誰もが平等です。実績の山を築いていきましょう。
自己実現という形で、個人個人の持つ能力の全てを仕事にぶつけることができるならば、企業にとっても個人にとっても素晴らしい結果を生み出す事ができます。そして、そのことが地域社会にも反映されるでしょうし、なによりも次世代の人達の仕事に対する希望となるでしょう。これが、私達の目指したい仕事であり基本理念なのです。
最近の動きは。
さてその後、現場ではどうしているでしょう。最初のころはシステム端末に1時間近く座っていました。しかし操作にも慣れてきました。そして、プロセスと実際の仕事とがイメージ的に合致し始めると、要点を要領よくプロセス操作できるようになります。そのためか、10分程度になり端末を触りにくる人の顔はだいぶ増えてきています。プロセスの形もきれいに整い機能美にあふれています。最初のころの形を思えばそうとうに整ってきました。そして、きちんと理詰めになっています。それはもう仕事の区切りというよりは品質区切りのプロセスとなってきたようです。近頃は、システムに対する注文よりも、自分たちのするべきことのほうに意識が強くなってきたのでしょうか。
CAD.CAM班では各人が端末を持っているということもあり、個々にプロセス操作や実績入力を随分以前から行っています。端末の数を増やして現場に出し全員で取り組もうとか、全体的にどのように工数を縮めるかとかの発言も出てきました。具体的には、設計でインターネットを導入しました。機械班では遊休中の機械を整備して稼動しようと動いています。全体的なスケジュールを見ながら工程のバランスを考え主体的に動いています。人の動きも、スケジュールに沿って自発的に移動します。まさに全体がリンクの取れた「勝手仕事」が成り立ち始めたといえるでしょう。
営業Mさんの話。
営業のMさんに話を聞くことができました。「私が、このシステムを使い始めて7ヶ月くらいになるが、まだこれを読みきっていないなと思っている。仕事は埋まっているのに空いているという現象がクリアできていない。予定工数が多いのではと思うのだが。予定工数は、現時点での完璧に近い標準プロセスを、営業管番へ読み込むようにしている。金額の決定している仕事についてはそれを入力し、各工程に自動振り分けする。金額から予定工数が決まるようになっているため、山積みの状態を見るのはそれで十分と思う。目前の仕事については個々にチューニングをしている。」
「外注から入ってくるものについては、受け取った人が処理していかないと画面上に残ったままになってしまう。管理部門の人が自分の仕事をきっちりと責任もって入力してくれないと、金の動きが読み取れない。したがって、工数的には合ってきたが金額の絡みが整理しきれない。資材は良く見えるようになって来た。しかし、設計、鋳物、検収の動きが入力不足で読めない部分がまだある。プロセス全体としてみると、未完のプロセスと、完成しているものとが混在して流れている状態だ。」
「営業活動としては、今まで負荷が分からないために勘で仕事をとっていた。しかし、負荷が見えるようになった今このシステムが無いと不安だ。客先にはっきりとした納期が言える。交渉の中身も主導権をもてるため作戦が具体的に組める。それらのことで何よりも心理的に負担が少なくなった。
また、日程の進渉立会いはあらかじめプロセスを先方に送る。これには、各仕事の通過予定日が記されてあり、前もって先方担当者に見てもらっておくため話がしやすい。立会いトライや、パネル取りも、現物の出来上がり品質を確認しながら先方に連絡する。突貫工事はしない。営業に出ても以前は口からでまかせをしていたが、きちんとした裏付けがあるため嘘をつかなくてもよくなった。」
「短納期に対応するため、在庫管理もできるようになった。在庫管番から発注したようにして消しこむスタイルにしている。不必要な在庫を持つ必要がなくなってきている。客先の反応としては、プロセス上の日程と現場の進行状態が一致しているため、安心してもらっている。電話での客先の対応も変わってきた。
「社内の状態は、同じ土俵の上に上がってきたな、と感じる。ミーティングでも、技術的な内容がほとんどを占め、同じ方向で仕事を見るためセクショナリズムが無くなった。今はもうこのシステムに頼り切っている状態だ。仕事の量が多くても少なくても見ている範囲は同じなのだから、仕事のペースは変わらないように思う。目前の仕事が切れたとしても、山積み状態は見えているのだから現場は安心しているようだ。」
「私は、以前から手書きによる原価リストを作ってきた。このシステムで今は全部の量ができるようになった。そのためいろいろな角度で検討し易くなる。もっともっとシステムが日常の仕事に溶け込まなくては正確なところが見えてこない。情報が入った時点で常に入力するという習慣を個々が身につけてしまわないとだめだ。問題に対する着眼点を何処におくか。たとえば機械の送りをあげる。そのための減速データをどう作るか。そのような前向きな考えをどんどん出す。いろいろな管理の幅を広げていけば金型作りも変わっていくと思う。」
精神論では解決できない
意識というものは場所によって変わるものです。そして、変えるものはその場の環境を取り巻いている技術レベルです。よく「社員の意識を変えて云々」といわれる意識改革はいつも失敗に終わります。それは「なぜ思うほど意識改革が進まないのか」に対する洞察が不足しているからです。今までは、たいていの場合結果的に精神論を振りかざして「やる気を云々」と頑張ってきました。しかし、精神論では物を作る、生産するというような能動的で活力の出てくる方向の意識は生まれてきません。「どうするのか、どうなるのか、どうなったのか、なぜそうなのか」対象の見えないままに振り回されて、具体的な目に見える結果が手に入らず。「そう思うから、こう思えば」的な発想は、結局のところ上からの押し付けとなり、受動的、内向的になるばかりで、意識改革の前進とはなりえなかったのです。しかし、たとえば機械加工でのCAD、CAMの開発、導入は大きな革命です。長時間の無人切削を可能にしました。今では当たり前となった、DNC無人運転。数年前まで、人は機械から離れられずいたのを、段取りが終わったら、さっさと機械から離してしまうようになりました。切削工具も大きく変わりました。最近では、超硬コーティングの刃物が主流となり、切削速度はそれ以前とは比べものにならないほど速くなっています。そして、そういう目に見える変化は時間を追って常識化します。また、このような常識とは、その技術レベルを背景にどんどん変わっていくものです。しかも、それは、個人意識の有無とは別のところに存在しているもののようです。したがって「人の意識を変えなければ云々」ではなく。必要なのは、やり方を変えていかざるを得ない道具を、どのように選び出すか、創り出すかなのです。私たちは、このことを「下駄を履かせる」といっています。そして、これらのことが「社風を変えたい=生産管理システムの構築」に結びついていくのだと思います。
一生懸命仕事をしている人は正直です。裏も表もありません。そして、周りの事には敏感です。広くいえば国の政治経済、それから家のこと、自社の状況、良くも悪くも感度良好です。その感度を日々の仕事に生かせるならば、その人は仕合わせな人生を送れるでしょう。何故ならば社会人生の3分の1は仕事人生なのです。
仕事について考えてみましょう。仕事=「する事、働く事、職業、職務」という意味の他に理学的な意味合いとして「物体に力が働いて位置が変化する事云々」という意味もあります。ともあれ仕事とは「働く事」であり「働かされる事」ではないといえます。働きかける=Culture、文化文明なのです。しかしながら技術の進歩は分業を進め、働きかけるどころか追い回される事が「仕事」になってしまいました。そこには働く喜びも、生き甲斐も無くなってしまいました。あるのは疎外感のみです。その結果生み出されるものは。
子供は「親の鏡」といわれます、また子供は「親の背中を見て育つ」といいます。生まれたばかりの赤子は真っ白です。人間という生き物は他の動物と異なり学習することでのみ成長します。母親を主体に家族、周りの人達、そして学校、マスメデア。入って来る情報を全て吸収して成長していきます。その能力たるや素晴らしいものなのです。しかしながら現在の子供達は不幸なことが多すぎます。いじめ、不登校、自殺、障害殺人、交通事故、進学問題等々あらゆる不幸を押しつけられています。その源はどこにあるのでしょう。それは「政治の問題」ということにはなるのですが。その政治を決定付けているのは自分たちの主体性の無さでしかありません。日本の歴史は欧米よりもかなり遅れて現代の自由社会に発展しました、そして遅れたぶん民主主義も不十分なまま現在に至っています。そのうえ単一民族の社会です。封建的な意識も根強く残った状態での「自由競争」を繰り返しているのです。技術や生産能力の進歩に政治は大幅に遅れています。
政治はその辺にして、子供達に背中を見られている自分達の話しに戻しましょう。社会人生の3分の1の仕事人生をいかに活々と頑張れるか、それを子供達が見ています。『早く大人になってお父さんのように仕事をするぞ』と。そんな大人達を見ている子供達に不幸はやって来ないと思います。「仕事をする」ということの一番大切な部分はこの事なのです。カッコいいお父さん、素敵なお母さん、それを決めるのも仕事そのものなのです。自分自身を変革し周りを変え、より活々とした自分を創り出す事なのです。
企業の仕事
そして一番大切な事。それは、企業がその「仕事をする」場を保証することす。厳しい現状に於いて非常に難しいことなのですが、それが企業の仕事です。たいていの企業がその経営方針に地域性、社会性を謳っているのですが、自信を持って言える経営者はいません。何故でしょう。基本的に、原則的に経営者は従業員を信用することができません。当然です、利害は対立しているのですから。しかしそうでない経営者も数多くいます、どこが違うのかというと、同じテーブルの上で仕事をしているかそうでないかの違いです。最近、高級官僚と『大』企業との癒着が大きな社会問題となっています。この『人』達は本来の「仕事」そのものを忘れたか、知っていない人なのでしょうか。最近の子供達の問題と同期しているのは偶然ではありません。
春になると新入社員が入社してきます、残念ながら就職難で多くの新人というわけにもいかないのですが。彼等は自分の持っている就職情報値に基づきその企業を測定します。何の測定かというと、自分はこの企業に自身を賭けることが出来るかどうかという企業レベルです。十分な下見をしていても、中に入って見ないと分からない空気があります。その空気を、自己の持つ能力の全てを使って測定するのです。その測定値の結果で能力の何%の力で仕事をするのか判断しているのです。中途で入社した人はもっとシビアです。企業が入社希望の人を選別している以上にそのかけひきはシビアなのです。何故なら企業は動けません。しかし労働者は自由に動く事ができるのです。選ばれているのは個々の企業体の持っている性能、品質そのものなのです。そして、それらを決定付けるのはトップの意思決定能力のレベルなのです。
優越感独り占めタイプいろいろ
職務について考えてみると。班長、係長、課長、部長、といろいろあります。それなりの努力や才能が必要なわけです。そこまでに至る時間も必要でしょうし、上司からの信頼もいります。運も必要でしょう。がんばって手にした職務ですから、よりがんばって上を目指すか、少なくとも、下に落とされるようなことには、なりたく無いでしょう。そこで、ともするとその職務にしがみつきたくなります。特に管理職になるとそうです。しかし、そこまでになった努力の中身を忘れてしまいがちです。その中身は情報そのものです。情報といっても多岐にわたりますが、その全てを自身に取り入れ自分なりに整理整頓して使いこなしてきた筈です。その結果として今があるのです。上に行けば行くほどより重要な情報が手に入りより他の人との差別化が計れるわけです。それを武器に戦うわけですが、戦う相手を間違えて利益に結びつかない方向にいってしまう人があります。その多くは、情報の独り占めで『私が居なければ何も進まないだろう』のような優越感独り占めタイプの人です。このような人は百害あって一利無しです。また自分の中で情報の4Sができず情報がそこで止まってしまう人。もっとも悪質な、情報を横流しにして売買する最近多い官僚タイプの人等。情報とは、どんな仕事にも必要です。最近は情報開示の方向にどんどん進んでいます。どんな小さな企業でもパソコンの一つや二つは置いてあります。情報の独り占めもしにくくなっているのですが、いずれにしてもそのような人は、そこにしがみついている間は邪魔になっているのです。貴方の下に居る人は先に進めないから迷惑しているのです。
仕事には前後の関係があります。工程から工程へと流れていく前後関係です。しかし、上下はあまり必要としません。その必要としない条件はもちろんあります。仕事をしている人達の全部が、自分の仕事はなにか。どうするのか。次にどこへやるのか。そのような、きちんと手順を追った中身のある高度な情報です。そして、それを必要に応じて入手できる高度で精密なシステムです。それさえあれば、極端にいうとピラミッド構造そのものを必要としなくなります。言い換えれば、現在その様なシステムが無いからピラミッドが必要とされている訳です。
人が人を管理するなど無用です。今は、高度な教育を受けた素晴らしい人達ばかりなのです。ここでいう管理と職能教育とは別です。先輩が後輩に仕事を教えるのは当たり前のことです、この当たり前のことが上にあがると独り占めになってしまうのは困るのです。次の人にどんどん自分の持っている情報を開示し、自分は全体から見れば必要な人間ではあるが、自分がいなくても仕事は何の影響も無くスムーズに流れている。そのような管理職になってほしいとおもいます。過去の技術の蓄積は、新しい技術を生み出す重要な要素です。何も無いところからは、なんのひらめきも出てきません。実績を積み重ねてきたプロであるならば、いろいろなアイデアを生かして工程改善などに取り組むべきです。その繰り返しで技術は進歩してきたのです。
実績評価は難しい
賃金の事に触れてみましょう。能力主義でという形が定着しつつあります。しかし、昔ながらの年功序列的な賃金体系も根強く残っています。年俸制を採用している企業も多くなりつつあります。時間給、日給月給、月給、歩合制、出来高制等、支払い形態も色々です。基本的にはいかに実績に応じた賃金にするかと言う事だろうと思えます。個々人の賃金を決定していると思われる実績とはなんでしょうか。それは、過去の実績、現在の実績、そしてこれからの予想し得る実績の総合です。しかし、正確なデータに基づいた実績でなければ意味を成しません。管理体制の遅れている企業では、通常当たり前な人事評価も満足にできていません。トップあるいは上司の主観によって適当に決められている場合が多く、評価基準はそれなりにあったとしても抽象的で判断のしにくいものが多いようです。したがって、必然的に要領のいい人、悪い人で差が付いてしまい、実績による評価とは縁遠い結果となります。
PDCAの繰り返し
もう一度仕事について考えてみましょう。なぜ本来の「仕事」が愚痴と不満にしかならないのか。それは、根本的に自分の実績が表現できない現在の企業の仕組みに問題があるからです。よく「旗振り」と言う言葉を使います。これは『私はこういう仕事をするぞ。こういう方法でするぞ』と宣言し意思表示することです。自分で目標を立て、計画し、十分な検討をして実行する。その結果をみながら、さらに新しいやり方、仕事に挑戦していく。そのPDCAの繰り返しです。プロセス表現すると言う事は、短期にせよ長期にせよ、計画段階から、実行段階。そして、実績の収集。と、時系列的に自己管理できるということです。個人個人がPDCAを自己管理できれば、自分の実績に対する評価の不平等感もなくなります。プロジェクトの大小はあるとしても、個人が活躍できる生産システムにするべきです。公的な技術研究開発の場でも、もっと個人が見えるようにするべきだとの意見も出ています。『私がやった結果だ』ということを世に認めてほしいのです。評価を自分のものとしたいのです。それが明日の活力になるはずです。朝、職場にきて何をするのかではなく、計画的に自分の仕事を自己管理し、現在の自己の能力に応じた実績を残していく事。目標がいずれ手段となる繰り返しで、成長していく自分が確認できれば理想的です。
そうはいっても、そんな面倒なことはしたくない人もあります。落ちこぼれる人も出てくるかも知れません。しかし、生産の仕組みそのものが、そういう形で進んでいるのが普通となり、皆大なり小なりそういうやり方で仕事をしている中にいれば、それが当たり前となってしまいます。変革の導入期には、いろいろな問題も起きるでしょうが、私達はその心配は無用だと思っています。時代の曲がり角においては個人の自発的主体的な活躍が必要です。今までのやり方での不十分さを否定した、新しい飛躍を時代が要求しています。
ピラミッドの限界
組織でいうと、ピラミッドでは頂上にたどり着けるのはごく僅かの人達のみで、皆が皆登り詰めることは不可能です。かりに、実力のある人が、ピラミッド三角形の底辺の端に居るとします。その人は、いずれピラミッドからはみだします。はみださずに登ろうとすると、途中で折れてしまわざるを得ません。底辺の中央に居る人だけが上に登れる訳です。現在の、企業形態としてのピラミッドの必要性は、膨大な情報の量に対する処理能力の問題のみにあるといえます。情報とは上から下には比較的流れやすいものです。しかし、下から上には非常に流れにくいものです。上に行く途中で握りつぶされてみたり、歪曲されたり、忘れられたりで、正確な情報はトップへはおろか志なかばで消えていく運命にあるようです。また、情報は個々のというよりも層別的なものとして扱われる場合が多く、個人的に持っている、具体的有用的な情報は非常に伝わりにくいものです。そして、残念なのはその情報の内容です。これらは、直接負荷価値につながる情報がほとんどといえます。そのへんにピラミッドの限界があると思うのです。
新しい組織への考察
そこで、私達の提案する新しい組織形態は。底辺から垂直に上へとあがる長方形の様な形で、上辺は凸凹になります。底辺はスタートライン。垂線は個人の時間。高さは個人の実績です。車の販売実績グラフのように、一目で個人の実績状況が見て取れます。これがそのまま企業形態なのです。皆「旗振り」です。上位の人の旗振りは必要ありませんし、強要する必要もありません。自発的に旗を振り、主体的に実行に移す。グラフの垂線が高い人が高収入となれば良いのです。高収入にしようと思えばどんどん実績を積み上げればよい。実に簡単明解です。サバイバルゲームのように自由な個人の意思による自由競争ができればよいのです。そして、それが弱肉強食ではなく、全体がリンクのとれた食物連鎖となっていれば、組織的にもなんの不合理もありません。コツコツと積み上げるタイプの人もいれば一発勝負に出る人もいるでしょう。時には失敗することもあるでしょう。個人のゲインを明確にすることが本当の意味での「見える」事なのかも知れません。経営者は、大きなリスクを背負って業績アップに日々努力しています。従業員も当然リスクを負わなくてはフェアーではありません。自己の実績のレベルを率直に受け止めて努力すべきです。スタートのチャンスは誰もが平等です。実績の山を築いていきましょう。
自己実現という形で、個人個人の持つ能力の全てを仕事にぶつけることができるならば、企業にとっても個人にとっても素晴らしい結果を生み出す事ができます。そして、そのことが地域社会にも反映されるでしょうし、なによりも次世代の人達の仕事に対する希望となるでしょう。これが、私達の目指したい仕事であり基本理念なのです。
最近の動きは。
さてその後、現場ではどうしているでしょう。最初のころはシステム端末に1時間近く座っていました。しかし操作にも慣れてきました。そして、プロセスと実際の仕事とがイメージ的に合致し始めると、要点を要領よくプロセス操作できるようになります。そのためか、10分程度になり端末を触りにくる人の顔はだいぶ増えてきています。プロセスの形もきれいに整い機能美にあふれています。最初のころの形を思えばそうとうに整ってきました。そして、きちんと理詰めになっています。それはもう仕事の区切りというよりは品質区切りのプロセスとなってきたようです。近頃は、システムに対する注文よりも、自分たちのするべきことのほうに意識が強くなってきたのでしょうか。
CAD.CAM班では各人が端末を持っているということもあり、個々にプロセス操作や実績入力を随分以前から行っています。端末の数を増やして現場に出し全員で取り組もうとか、全体的にどのように工数を縮めるかとかの発言も出てきました。具体的には、設計でインターネットを導入しました。機械班では遊休中の機械を整備して稼動しようと動いています。全体的なスケジュールを見ながら工程のバランスを考え主体的に動いています。人の動きも、スケジュールに沿って自発的に移動します。まさに全体がリンクの取れた「勝手仕事」が成り立ち始めたといえるでしょう。
営業Mさんの話。
営業のMさんに話を聞くことができました。「私が、このシステムを使い始めて7ヶ月くらいになるが、まだこれを読みきっていないなと思っている。仕事は埋まっているのに空いているという現象がクリアできていない。予定工数が多いのではと思うのだが。予定工数は、現時点での完璧に近い標準プロセスを、営業管番へ読み込むようにしている。金額の決定している仕事についてはそれを入力し、各工程に自動振り分けする。金額から予定工数が決まるようになっているため、山積みの状態を見るのはそれで十分と思う。目前の仕事については個々にチューニングをしている。」
「外注から入ってくるものについては、受け取った人が処理していかないと画面上に残ったままになってしまう。管理部門の人が自分の仕事をきっちりと責任もって入力してくれないと、金の動きが読み取れない。したがって、工数的には合ってきたが金額の絡みが整理しきれない。資材は良く見えるようになって来た。しかし、設計、鋳物、検収の動きが入力不足で読めない部分がまだある。プロセス全体としてみると、未完のプロセスと、完成しているものとが混在して流れている状態だ。」
「営業活動としては、今まで負荷が分からないために勘で仕事をとっていた。しかし、負荷が見えるようになった今このシステムが無いと不安だ。客先にはっきりとした納期が言える。交渉の中身も主導権をもてるため作戦が具体的に組める。それらのことで何よりも心理的に負担が少なくなった。
また、日程の進渉立会いはあらかじめプロセスを先方に送る。これには、各仕事の通過予定日が記されてあり、前もって先方担当者に見てもらっておくため話がしやすい。立会いトライや、パネル取りも、現物の出来上がり品質を確認しながら先方に連絡する。突貫工事はしない。営業に出ても以前は口からでまかせをしていたが、きちんとした裏付けがあるため嘘をつかなくてもよくなった。」
「短納期に対応するため、在庫管理もできるようになった。在庫管番から発注したようにして消しこむスタイルにしている。不必要な在庫を持つ必要がなくなってきている。客先の反応としては、プロセス上の日程と現場の進行状態が一致しているため、安心してもらっている。電話での客先の対応も変わってきた。
「社内の状態は、同じ土俵の上に上がってきたな、と感じる。ミーティングでも、技術的な内容がほとんどを占め、同じ方向で仕事を見るためセクショナリズムが無くなった。今はもうこのシステムに頼り切っている状態だ。仕事の量が多くても少なくても見ている範囲は同じなのだから、仕事のペースは変わらないように思う。目前の仕事が切れたとしても、山積み状態は見えているのだから現場は安心しているようだ。」
「私は、以前から手書きによる原価リストを作ってきた。このシステムで今は全部の量ができるようになった。そのためいろいろな角度で検討し易くなる。もっともっとシステムが日常の仕事に溶け込まなくては正確なところが見えてこない。情報が入った時点で常に入力するという習慣を個々が身につけてしまわないとだめだ。問題に対する着眼点を何処におくか。たとえば機械の送りをあげる。そのための減速データをどう作るか。そのような前向きな考えをどんどん出す。いろいろな管理の幅を広げていけば金型作りも変わっていくと思う。」
精神論では解決できない
意識というものは場所によって変わるものです。そして、変えるものはその場の環境を取り巻いている技術レベルです。よく「社員の意識を変えて云々」といわれる意識改革はいつも失敗に終わります。それは「なぜ思うほど意識改革が進まないのか」に対する洞察が不足しているからです。今までは、たいていの場合結果的に精神論を振りかざして「やる気を云々」と頑張ってきました。しかし、精神論では物を作る、生産するというような能動的で活力の出てくる方向の意識は生まれてきません。「どうするのか、どうなるのか、どうなったのか、なぜそうなのか」対象の見えないままに振り回されて、具体的な目に見える結果が手に入らず。「そう思うから、こう思えば」的な発想は、結局のところ上からの押し付けとなり、受動的、内向的になるばかりで、意識改革の前進とはなりえなかったのです。しかし、たとえば機械加工でのCAD、CAMの開発、導入は大きな革命です。長時間の無人切削を可能にしました。今では当たり前となった、DNC無人運転。数年前まで、人は機械から離れられずいたのを、段取りが終わったら、さっさと機械から離してしまうようになりました。切削工具も大きく変わりました。最近では、超硬コーティングの刃物が主流となり、切削速度はそれ以前とは比べものにならないほど速くなっています。そして、そういう目に見える変化は時間を追って常識化します。また、このような常識とは、その技術レベルを背景にどんどん変わっていくものです。しかも、それは、個人意識の有無とは別のところに存在しているもののようです。したがって「人の意識を変えなければ云々」ではなく。必要なのは、やり方を変えていかざるを得ない道具を、どのように選び出すか、創り出すかなのです。私たちは、このことを「下駄を履かせる」といっています。そして、これらのことが「社風を変えたい=生産管理システムの構築」に結びついていくのだと思います。
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