It Becomes Happy

幸せになるために。。思うこと。感じること。考えること。

生きているということについて考えてみました。追伸追加。

2008-01-23 22:43:02 | ひとりごと。

新しい年があけ、また心新たに1年を過ごすわけですが。
今年はねずみ年ですね。
私の父と主人はねずみ年です。

ねずみ年のねずみといえば、一番ずるがしこく牛の頭にちょこんと乗っかっていて
一等になったというお話がありますよね。。
父や主人がずるがしこいかはおいといて、頭の良い人であることは確かに思います。

一昨年の年末に実家へ帰省したときに告げられた事がありました。

父親が癌であるということ。

私の父は、私が小学5年生の頃に肝臓を悪くして入院をしたことがありました。
血圧が高く、よくもまぁ普通に生活しているものだと主治医に驚かれたという話は良く覚えています。
入院の初日に、家の電話がなりました。

「誰かよこしてくれんかのぉ」

いつも不機嫌そうな顔で、子供にはとても厳しく仕事にはとても頑固でこだわりを持って頑なに商売をしていた父は、他の誰よりも寂しがり屋で心の優しい人でした。

次の日から、私が父の病室のベッドの横にビニールシートを引いて布団を敷き、寝泊りをする生活が始まりました。
約1ヶ月ぐらいでしたでしょうか、毎朝そこから学校へ通っていた私は無邪気なもんだったと思います。
その頃、確かイラク戦争があり毎日毎日その映像を父さんのベッドに一緒に横になって見ていたものです。

入院する前に、父は耳鳴りがするだとかなんだとか言って耳鼻科を受診してきたことがありました。
子供の前でなど泣いた事の無い父親が、病院から帰ってきて店のドアを開けて入ってきて母親と私の顔をみるやいなや座りこんで号泣した事があります。

寂しがり屋で、怖がりで、でも人には厳しく子供にも厳しく、不器用な人でした。

 

 

2007年12月8日に、父は59歳の誕生日を迎えました。

 

 

 

2007年12月28日に、父は死にました。

 

 


私や私の家族にとって、一生のうちで最も辛い出来事といったのは、父の死だったのです。
父が他界したのです。

一昨年の年末に癌と知らされ、1年後に他界しました。
一昨年の年末には、誰しも父の死が1年後に控えているなど想像もしていませんでした。
でも、確かに、明らかに、父は病気に侵されていました。
明らかに、2年前、3年前の父とは違いましたから。

一昨年前の年末に癌と知らされ、そこから我が家のどんよりとぬぐいきれない空気が張り詰めた生活が続きました。

最後まで、父には癌の初期段階というところまでしか告知はしていませんでした。

本当は、父は「肝不全」となり、肝臓の機能が破綻した状態でした。

今年の4月の母の誕生日の日に、「誕生日やし電話しとくかぁ」という安易な気持ちで電話を鳴らし
電話に出た母の声に何も感じず「今日誕生日やろ~~。おめでとさーん」と話を進めようとした矢先に母が泣き出したのでした。

「あみ。父さんが倒れたけぇ。もう覚悟せんといけんって先生に言われたけぇ。
 父さん、もう長くは生きられんのんて」

と、泣きながら言いました。
癌だと知っていたし、腹水や黄疸が出ていることも知っていたし、自分の知る限りで調べつくしたので、薄々は気付いていました。
母や姉の言う言葉よりも、インターネットで調べる事柄のほうが私には真実に思えていましたから。

倒れた後、特別な治療は無く予後を好きなように過ごさせてあげることしか選択肢としてなかったので
父はこれまでと変わりなく仕事をしていました。
でもすぐに疲れて、身体に痛みが走るので横になり休憩しながら・・・。いわば、身体を奮い起こしながら・・・といったところだったのかもしれません。

母や、同居している兄家族、そして姉は、父に病気を悟られまいとひたすら普通に過ごしました。
そして本当にごくわずかな人にしか父のことは話していませんでした。
本人の耳に入ることを避けたかったからです。

末期の病気に侵された家族を持つ親族は、それはとても辛い気持ちです。
周りに気付かれまいとする配慮や、本人を気遣いながらも普通を装う事の辛さ。
私は新幹線で2時間の距離とはいえ、遠方に住んでおり仕事もあり家庭もあるため
電話で母に様子を伺うことでしか父への思いを消化できませんでした。
というよりも、消化不良でしたね何をしても。。

母や姉はいつも「大丈夫」といいました。
マメに帰りたいと言う私に「帰らなくていい」といいました。

思えば、父に悟られまいとする気持ちからであり、私のことを思っての言葉だと思います。
でも、いつも「何が大丈夫なん?」ってそればかりが私の頭を埋め尽くし素直になれませんでした。

私の中の時計と、父の周りにいる家族の時計は確実にスピードが違いました。
目で見ていることの現実と、電話で聞くことの現実。
あたり前ですけどね。

私はいつもいつも、父さんの状態を電話で聞きその都度その変化についていけませんでした。
気持ちがついていかないんです。

たまに電話の向こうに出てくれる父は、とりわけ元気な声でいたような気がします。
確実に病気に蝕まれ、日に日に身体の不調の変化に戸惑いを感じ、不安で怖かったでしょうに・・・。
何も心配いらないと言いたいかのように、電話の声はとても明るいのでした。

5月のGWに長期連休があったため、実家に帰省しました。
父は検査入院という形で病院にいました。
すっかり白髪が増えて、食事制限や水分制限があるため顔も痩せていました。
どこかの数日だけまた実家へ一時退院ということで帰ってきてたときには、ナナを抱っこしてくれたり
相変わらずの憎まれ口を叩いてみせたりしてくれました。
果物が食べたいという父に果物を買ってきて剥いてあげたり、肩をもんでくれという父の肩をもんであげたり、
私は私の出来る事の限りで父との時間を大切に過ごしました。

体重の減少をとても気にしていた父は、毎日毎日体重計へ乗り、昨日からどれだけ減っただの増えただのとブツブツ言っていました。
私はその父に、かけてあげる言葉は「良かったじゃん。身体軽くなったら動きやすいし。」などと言ってあげるだけでした。

父の存在を肌で感じ、空気で感じ、自分を取り巻く全ての環境で感じながら、後ろ髪引かれる思いで再び大阪へと戻りました。
そして3ヵ月後の夏、ちょうどお盆に父は母と一緒に大阪へ遊びに来ました。
はっきりいって、無茶な旅でしたでしょうし、本当に普段ならありえない父の決断でした。
何かを感じていたのか、何がそうさせたのか分かりません。

もちろん基本は普通に起きてご飯を食べてお風呂へ入り寝る生活でしたので、本人も普通に旅をしたいつもりだったに違いないのですが。

道中、大阪の一つ前の新神戸で父の容態が悪くなり母が新幹線から父を引きづり下ろしたそうです。
母は父の容態を誰よりも分かっているので、救急車を呼び神戸のどっかで緊急入院にでもなるのかと思っていたそうですが
父が「大丈夫。休んでいたら大丈夫だから」というのでそのまま様子をみたそうです。

父母が遊びに来たのは平日の金曜日で、ちょうど私も仕事を終えナナを園まで迎えにいって家についた頃に
私の家まで到着するという予定でした。

先に私が家につき、荷解きをしてから家のすぐそばまでお迎えにナナを連れて(自転車)向かいました。

曲がり角をまがったところで父と母が目に入りました。

父は、炎天下の中駅から歩いてきたので汗だくで、腰に手を当てしかめ面。
母は父に手を差し伸べる格好で歩きながら、歩いていました。

そして、父が私を見つけました。
しかめ面が、はにかみ顔に変わりました。
良く覚えています。
今でも本当によく覚えています。

どんな思いで来てくれたのか、今思い出しても涙が止まりません。
そんなにしんどい身体で、しんどいことを隠して平気な顔して私に会いに来てくれたその父の思い。

きっと父は、先が長くない事を分かっていたので動けるうちに色々な事を目で見て確認したかったのでしょう。

わずか2泊3日の旅でしたが、連日私の大阪でのお友達と一緒に夕飯を食べ、ワイワイとした夜を過ごしました。
もちろん父はすぐに横になっていましたが、その場を離れず目を閉じてみんなの笑い声を聞いて楽しんでいたのだと思います。

そして、父母が帰るときに新大阪まで見送りました。
駅の喫茶店で軽くお昼を食べてから、父と母は少し早めにホームに上がりました。

父と母が並んで歩く後姿なんて、どれぐらいに見ただろう?
そうそう、この二人の距離。適度に離れて歩くんだ。
父さんがのっぽさんで、母さんが太っちょさんで、この二人の後姿がこんなに愛しいと思うなんて。
二人の並ぶ後姿を見送りながら、私はナナを抱きしめ涙をこらえて笑顔で手を振り続けました。
ずっとずっと見えなくなるまで見送りました。
父と母は何度か振り返り、まだおるんか!みたいな呆れ顔で手をふり返してくれましたっけ。

 


生きている父の姿は、このときが最後になりました。


お盆の後、年末の帰省まで長期連休が無かった事もあり、その間は電話で様子を伺うのみとなりました。


12月8日。父の誕生日に、かねてから父が温泉へ行こう!といっていたこともあったので
私以外の家族と父母の友人数名と温泉へ出かけ誕生日を祝ってもらったそうです。

誕生日の日、私は電話で父と話ししました。

「父さん?どう?大丈夫?良かったね。ええ誕生日になったやろ?」

「あぁ。そうじゃね。でも還暦にはまだ1年早いんよ。来年60じゃからの」

「そうやったね。来年の誕生日は、亜美も一緒に御祝いするからね」

「はいはい。ありがとうね。楽しみにしとこう」

そんなわずかな会話でしたが、いつもと変わらず、いや、いつも以上に父の声は穏やかだった気がしました。

 

私は12月28日に仕事納めで、29日に実家へ帰省することになっていました。
誕生日から何度か母に電話をして父のことを聞いていましたが、ちょうど27日の夕方に別の用事があって電話をしました。

「父さんどう?」

「んー・・・ だいぶバテてきとるね。早く帰ってきてあげなさいね」

「早くっていったって、明日仕事おわって明後日には帰るのが最短なんやけど」

「ハハ、そうじゃね」

母と交わした会話です。


主治医より、この年末を乗り切ればあと数ヶ月は生きていられるといわれていました。
ただ、この年末の無理がたたればどうなるかはわからないとも言われていました。

でも、誰もがしんどいながらに仕事をやってのけて一緒に年越しして、お正月を迎えると思っていたのです。
誰もが。


翌日、28日は私は特別仕事もなく暇な時間を掃除しながら過ごしつつも
父のことを思っては明日会える、明日会えると言い聞かせていました。

お昼も食べて、定時後の納会準備まで数時間あるし何しよかな~~~なんて思っていました。

実は、28日は朝から雨。最終日に雨って嫌な感じーー・・・って思いながら出社し、朝のお仕事を片付け
社内用の封筒を私送便ボックスに入れる際に、飛び出していたホッチキスの芯が指に引っかかって出血しました。

「なんか、今日は嫌な感じ。不吉やわ~」

って、独り言を言いました。
誰に聞こえるわけでもなく、本当に独り言。ぼそっと、聞こえるか聞こえないかぐらいだったと思います。


お昼14時半過ぎに、母からの着信に気がつきました。
んー??何やろう?なんか、明日の事でききたいんかなぁ?あ、頼みごとのことかなぁ?など思いながらも
言表わせませんが、胸騒ぎを覚えながら再度母に電話をしました。


「あみ!!父さんが倒れた!!!!」


泣きながら、パニックになった母の声。

私は、トクントクン!!高鳴る鼓動を抑えながら、
「母さん!落ち着いて。落ち着いて。何?何があった?」

聞けば、救急車で搬送されたそう。

母と並んで肉をさばいていたら、「痛い!!!!!!!」という声と共に倒れたのだとか。

その時、お客様がいらっしゃったので、とにかく母は救急車で病院へ父をつれていった後に
一度店に帰り、注文をつくったそうです。


商売人のサガです。

こんな時に、そばにいてあげずに、帰る母。

泣けました。あきれました。バカ野郎です。
でも、そんな父や母が最高に誇らしく思えます。

なんて商売気質の人らなんだろう。到底かないません。
この二人には一生勝てません。

 

搬送されてわずか30分ののちに、父の心臓は止まったそうです。

 


急いで会社を出て、ナナを迎えにいき、笑顔で出てきたナナを力いっぱい抱きしめて
荷物を持って園を出たときに、母から電話が鳴りました。

 

「父さんがしんだぁぁ・・・・・・・・・」


泣き崩れる母の声。
声にならない私。わけがわかりません。

しばらくしてから、母に「もうゆっくりでいいから。落ち着いて帰ってきなさい」
と言われ、「うん。」とだけいい、家に自転車をこぎながら帰りました。


フワフワフワフワ。
頭がぼーーーっとしました。
妙に吐き気がしていました。


家についてからも、ただふわふわと、タンタンと、
「連日家を空けるのだから、洗濯の山は片付けていかないと。荷造りもしなきゃな」
なんて、考え、涙も出ず、たんたんと洗濯を干し、荷造りをしたのだと思います。


あんまり覚えていません。

 

最終間際の新幹線に親子3人で乗り、父のいる家まで帰りました。
明日の指定席の切符を、当日の自由席に変更して。

明日、会えるんじゃなかったっけ?
明日帰るんじゃなかったっけ???


新幹線の駅までのお迎えは、父の車できてくれました。

車に乗り込んだときの、匂い。
父さんの匂い。
父さんの匂い。

私が帰省するとき、いつも父がきてくれていましたから。。

父の匂いはあるのに、父がいない。
匂いで胸が張り裂けそうになりました。
こみ上げてくる思いにおかしくなりそうでした。


家について、店や家の中が目に入るのに、父がいないことが「現実」で、
震えました。

リビングにいくと、父さんが寝ていました。

 

冷たい。

 

もう、死後数時間たっていたから冷たくなっていました。

 

ありえないんです。
言表わせませんが、ありえないんです、本当に。

身体があって、父が寝ているのに、魂が無い。動かない。息をしない。目を開けない。名前を呼ばない。
すっかり血の気が引いて、白い顔になっていて。

意味がわからないし、わかりたくもないのに、真実が目の前にあって、受け入れろ!といわれているのです。


お通夜。告別式は翌日、翌々日に執り行われました。
素晴らしい葬儀でした。
父が生きてきた中で築き上げたものを、私達家族は確実に感じました。
人からの信頼。人への思い。地域への思い。
形にはなくとも、目には見えなくても、確実にそれはその場にあり、それを讃えてくれる人が大勢集まってくれた事。
何も言わずとも、分かるもの。
そこにはありました。


父は、家族に対して厳しく、他人に対しても厳しい人間でした。
人のお世話が大好きで、お世話をするけれど、間違っていると思う事は見過ごす事が出来ずに
言葉も選ばず真っ直ぐに感情的になって意見したりする人でした。
本当に、真っ直ぐに。ただ純粋に、良いものは良い。悪いものは悪い。そう思う信念のもと。。。

そのくせ、誰よりも寂しがりやで強がりで。素直じゃないし、照れ屋な人でした。

周りに敵も多くいましたが、父の信念、父の思いを理解してくれる方も大勢いました。
支えてくれる人がたくさんいました。


家族よりも、他人。

そんな人でしたから、母や私達子供は寂しい思いや大変な思いもたくさんしてきました。
むかつく事もいっぱいあったし、衝突することだってしばしばありました。

考えたら考えた分、色々あります。


父がこの世からいなくなった日。
雪が降りました。

私が実家に滞在していたときに雪がふったのは父が亡くなってから、お通夜会場へ移動した日と白い骨になった日の2日だけでした。


父のいなくなった現実は、まだまだ実感としては薄いです。
どこかにいそうな気がしてならないのです。
そして、いてくれてるならいてほしいと思ったりしています。
もちろん、7日ごとの法要をしゆっくりとあちらの世界へ送ってあげなければならないのですが。。

私は、私の生活があるのでしばらくしてから家族と大阪へ戻ってきました。

普通に生活しているときに、ふっと思い出す父の死。

今までに味わった事の無い空虚感。
なんともいえません。
胸がぐーーーーって痛くなるし、ドキドキします。

二度と会えないって意味。
言葉や文字で耳にしたり、口にしたり、今ままで生きてきた中で何度も何度も考えた事があります。
でも、父の死をもって初めてその本当の意味と本当の現実というものを分かる事が出来ました。

いなくなって気づくもの。
失って気づくもの。

なんて大きなものなんでしょうか。


私は父さんに何か親孝行できたのだろうか。。
何か一つでも恩返しできたんだろうか。。。

後悔したくないと思って過ごしてきた1年間。
後悔してばかりです。

自分が情けなく思います。
泣き言言っても、父には二度と会えない。

そしたら、前向いてしっかり生きていくしか出来ないんです。

母さんに、父さんの分まで親孝行するしか出来ないんです。

しっかり、しっかりと、親の存在に感謝しつつ、生きている事に感謝しつつ、
死ぬまで生き続ける人生に、家族の誰もが悔い無いように、まずは自分が精一杯頑張るんです。


父さんに言いたくても言えなかった言葉。
・ ・・いいえ、言えたのに言わなかった言葉。


ありがとう。


こんな5文字の言葉が素直に言えないなんて。


何度も何度も、何度でも。私は父に言いたいと思います。
空に向かって。

そして、これからは父に見守られている事を忘れずに、しっかりと生きていきます。


まだまだ精神的には不安定だし、ふとしたときに涙が止まらないこともあります。
でも、大丈夫。

頑張ります。


ここがあるおかげで、自分の心の中を整理することができた。
吐き出すことができた。

これからも地道に更新していきますので、皆さまどうぞ宜しくお願いいたします。

 ***追伸****

メールを下さった皆さまへ。。
お返事もしないまま、ご無沙汰してしまってすみませんでした。
温かいお言葉の数々、本当に感謝しています。
そうやって私は人に支えられてきて、そんな私の幸せがあるから父も私のことを安心して遠い土地で
暮らすことを許してくれていたのだと思います。
本当にみんなのおかげで、父も幸せだったんだと思っています。

遅くなってごめんなさい。。
そして、本当にありがとうございました。

私は元気にやってます♪


 


2008年。

2008-01-04 21:51:14 | 妊娠
気がついたら1月も4日ですね。皆様いかがお過ごしでしょうか。
年末には地元で雪が降りました。とても寒い年末でした。

そして、今まで生きてきた一生のうちで最も辛い事もありました。
また改めてPCから気持ちの整理がてら、投稿します。


今年もよろしくお願いします。

菜夏はめちゃめちゃ元気です。言葉も増えて、めちゃめちゃ可愛くて仕方ないです。