トリプル7と景色やゆかいな仲間たち

日常生活を豊かに楽しく成長していく

待つという時間の使い方。

2018-02-17 13:15:19 | この世を揺るがす
人は待っているという待つ時間を大切にしていかなければならない。

そんな時期がどうしてかあるあるのだ。

例えば見守るとという待つ時間、人と待ち合わせをしているドキドキする時間しかり、

何かを達成する為に黙々と何か単純作業をして待っている時間、

時には何もしてないかのようでその時間が後から気づくととても有効で有意義な時間であっり

り、バスや電車を待っている時間にスマホをポチポチと動かしたりしている待つ時間で

あったり、はたまた大事な商談であったり、仕事をする為に行く通勤時間も一つの

待っている時間に入るかもしれない。

間の隙間時間というものはぽか~んと何も考えなく無心であったとしても時間は

平等に時には残酷に過ぎていくものなのだ。

そういう有限の限られた時間いかに有効に使うかによって人の人生は好転したり

あるいは真逆に方向を変えたりしてしまうのである。

何も時間を有効に使わなければ、幸せはやって来ないとか掴み損なうというような

心配、恐怖を感じるなどはないのだ。

いつ花開くのかと待っている時間というものは実に長いものである。

それはそわそわしたり、ワクワクしていたり、心配していたり、何かの準備の最中

であったりとさまざまな時間を過ごすことがある。

待つというのは忍耐力であったり、イライラしてしまったりするかもしれない。

でもじっと待つのだ。

待つということは確かに無駄であったり、緊張していたり、そういう感情が

沸き出し何かしないとという焦りだって生まれて来たりするものなのだ。


ゆったりとゆっくりとした時間をとそう癒されるような時間を瞬間を求める

癒しなどを求めてしまうそういうせせこましい世の中を生きていく上で

待つ力というものが一つのキーとなるように思える。


こんな事を考えたりする。

2018-02-17 10:30:14 | この世を揺るがす
極論のような話でつまらないと思うがこの人にはまだ生きていて欲しいとそう思う

事はないだろうか?

この人がいなくなると世界が滅びてしまうとまでも行かないが世界がつまらなくなって

生きがいが無くなってしまうような人物が少なからずいないだろうか?

そのような人も生活というものがあり、その為にはそれを営む為の生活費というもの

が必要なのである。

その際に活動費として私が活動費としてこれだけ費用を出します!とかいう

そういうシステム言わば価値を認めるシステムを簡単にしてその活動を応援して

行けるシステムなどが構築されたら生きづらい世の中で生きてゆくことが

可能となるのではないだろうか?

それにはそれなりの価値観は必要になるわけだがあくまでそれをきめるのは

他者という不特定多数の人という感情を持った何かを求めている人が判断する

というわけだがそのようなシンプルかつ自分、相手、そして世間に対して

還元できているようなシステム言わばクラウドファウンディングのさらなる

向上したシステムのようなものが出来たら人は生きやすくなる可能性は十分

考えられるのでなかろうかとそういう考えがふと雑なアイディアだが

そんなことがふと頭に思い描いた。

どうだろう?


ふと空を眺め、電柱を観ながらもの想いにふけってみる。

2018-02-17 10:17:10 | この世を揺るがす
ゆったりと時間が流れる。

そんな時間を感じていると何もかも全ては今巻き起こっている事は幻想なのではないかと

そんな気持ちを感じてとても気持ちが穏やかになる時がある。

そういう穏やかな気持ちを感じれる時はなんて幸せな時代や国に生まれたんだろうかと

感謝の気持ちなどで悩みなどちっぽけなものだとか感じることがある。

現代社会で生きているは事実でそれは本当であって夢ではないのだ。

平和な世の中になって戦争などという爆弾など核などは日本という国では脅威では

あるものの飛んではきてそれによって人は傷つかずに済んでいるのは事実だ。

ただそれが果たして平和というものなのだろうか?

なんて気がしてしまったりするのだ。

平和という概念はあくまで国家間同士の争いが状態を指しているわけではないのではないのでは

ないかと。

幸せなことにこの国では平和な世の中になって早70年以上が経過しようとしている。

そういう中で世界の平和を願えるまで心が回復してきたのは大きな成長の証であろう。

一人の力はたかが一人されど一人。

一人の力の結集が現在の平和な世の中を作り上げてきたのだ。

誰もが皆一番を目指しているわけではなく何かしらの努力や信念などを少なからず本能に

刻み込まれ何かに突き動かされながらいろいろなプロセスを踏みながら結果がたまたま

一番になってしまうという事がある。

そもそも資本主義のような自由競争社会の中ではその一番であったり、2番、3番

というものは別に1番にこだわる必要などどこにも関係のないことなのだ。

ただ1番ということで注目が集まり、ちょっとした信用のようなものが手に入れられる

自信ややっていることに対してあまり間違った方向へは進んではいないのだ。

という幻想を手に入れられるような感触を持つ事が出来るというわけだ。

自分の思惑とは裏腹に他者間の間ではそういうものがもてはやされ途中からは自分の考えとは

違っているような想いであっても評価が高まったりしてどこからかそれは自然と一人歩き

して世間で広まってしまったりするような現象が起こってしまうのも事実で

いつも狙った通りの結果が出せるわけではないのだ

一円を笑うものは一円で泣く。

2018-02-17 10:07:27 | この世を揺るがす
一円というその価値にどれほどの人が価値を創造、想像出来るか?!!

世界には70億人以上の人が存在している。

そう考えると70億人がその一人に対して1円の価値がある!

と認めたとする。

するとそうなると70億円というとてつもない金額になるわけだが

人とは出会い、縁という存在があるわけで一度も出会わず一生その人の事を知らない

まま一生を過ごしてしまうというそれが現実なのだ。

そう考えるとどういう縁であろうと繋がりを持てたというのは奇跡的な

ある意味天文学的数字のような奇跡となり、一度の一期一会という出会いも

それには意味のようなものが存在するということになる。

一人の命を軽んじてはならないとそのように教育されてきたわけだが、

果たしてそれは現代社会の中で成り立っているのだろうか?

教育というのはいうものは現代社会までは中学までは義務教育ということで

それまでは無償として日本の皆が受けられるシステムとなっているわけだが

昨今ではその教育に対していろいろな問題点が浮彫とされてきては

それを解消しようと右往左往して体罰の問題を始め、ゆとり教育でぁったり

何かとその問題を解決しようと躍起になっている。

少子高齢化が進む世の中で教育を受ける子供数も当然ながら減ってきているわけ

だがだからこそその少ない子供にどれだけの教育を注げるかという

問題提起は大切な局面を迎えていると考えるのだ。

3歳の魂百までという言葉もある程子供頃の教育は非常に重たい比重の

割合が高いとされている。

だからといって3歳いや10代までに詰め込めるだけ詰め込むという

いろんな教育や経験を積ませればいいというものでも無いとそう思うのだ。

子供の頃に大切なのはどれ程、考えて遊ぶことが出来るかや運動で体を

動かして脳を活発に機能させることが出来るかということが重要な項目

だと考えている。

興味を持ち何かを考えて行動に移すことがどれほど出来るかというのは

問題を創ることが出来るかという事も一つの大きなスキルなのだ。

どれだけ疑問を持ち、それをいかようにしていろんな視点から物事を見る事が

出来ることが出来るかということは大切で問題解決は一つとは限らない

のだということで正解は無数有るのだということを教えることは現代社会

の情報化の社会を生きる上で非常に重要な位置を占めているのではあるまいか

とそう感じているのだ。