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世界はやがてジャパネスクの時代を迎える(非公式)

カザフスタン・・・・実に秘境でした★

2014-04-20 | 民間外交・論調・出張報告

皆様、おはようございます! 原田武夫です。

今朝は、カザフスタン・アルマトイから直行便がないため、アシアナ航空のトランジットで韓国・ソウルからスタートです。
現在、金浦空港におります。

カザフスタン・・・・実に秘境でした★
が、明らかに我が国に対する強烈な賞賛の念を抱いている人々の国でした。
そして「平和を旨とする通商」をベースとしたシルクロードの精神の中心でもある国。

堀田善衛は言いました。「インドで考えたこと」
椎名誠も言いました。「俺もインドで考えた」
そして2014年。
私・原田武夫は言います。「今度はカザフで考えた」

是非お読みください!!
グローバル・シーンでの役割が徐々に増えてきています。これから何が起きるのか?誰と出会い、何を創り上げていくのか??

楽しみでたまりません★
(※今回は英語で太陽活動の異変が全ての問題の根源なのだという議論を紹介しましたが、会合直後にロシア系のカザフスタン人の出席者よりすぐに反応があり ました。「そうなんだよ、私もそう確信しているのだけれども、どうしてもまだ皆、自分には関係ないっていうのだよ」・・・思考の壁をどう突き崩し、真実をベースに未来を切り開くのか。深く考えさせられた次第です)

では。佳き週末を!

http://takeoharada.com/2014/04/19/dream-of-eurasia-and-rolle-of-japan/

 

https://www.facebook.com/iisia.jp/posts/646975562040335?stream_ref=10


 

 


 

続々と表明される日本への賞賛 ユーラシアの新たな胎動をカザフスタンで感じた

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/386e135f06c51753d136923297a40b38


後編:外務省での経験を経て、自らの使命感を感じ、日本人のグローバル人材教育の道へ。

2014-04-20 | メディア

#003 原田武夫氏

 

株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 代表取締役(CEO)

              (ホームページはコチラ

 

東京大学法学部在学中に外交官試験に合格、外務省に外務公務員Ⅰ種職員として入省。12年間奉職し、アジア大洋州局北東アジア課課長補佐(北朝鮮班長)を最後に自主退職。現在、株式会社原田武夫国際戦略情報研究所(IISIA)の代表取締役(CEO)を務める。

 

「すべての日本人に“情報リテラシー”を!」という想いの下、情報リテラシー教育を多方面に展開。自ら調査・分析レポートを執筆すると共に、国内大手企業等に対するグローバル人財研修事業を全国で展開する。また学生を対象に次世代人材の育成を目的とする「グローバル人財プレップ・スクール」を無償で開講するなど、精力的に全国を飛び回っている。

 
 

”代わりの父親”から受けた影響と、磨かれた人間力。

藤井:外務省でのキャリアの中で影響を受けた人はおられますか?

 

原田:そうですね、私がドイツ大使館におりました頃、研修が終わって勤務に入った時に『代わりの父親』をつとめて下さった方がいらっしゃいました。それが有馬龍夫大使という方でして、今は中東調査会の理事長をされていますが、彼は北海道の牧師さんの息子さんで、とても優秀な方でして、成蹊高校在学中に、米国の名門校・セント・ポールズ・スクールへ留学。1957年、ハーバード大学政治学部を卒業され、1962年、ハーバードの准教授をされているときに、ボストン総領事から「外務省に来てください」ということで外務省に入ったという珍しい経歴の方でした。

 

私はベルリン留学中に、カール・シュミット(ドイツの法学者・政治学者)の研究をしていました。ワイマール政権の混乱した状況、経済危機の中で、憲法の役割とは何か、人々をインテグレートしていくにはどうしたらよいのか、単なる民主主義が役に立たない状況の時に、ある意味合法的な独裁というのはどのようにやるのかという事を考えたのがカール・シュミットなのですが、このカール・シュミット論を僕はドイツ語で学んでいたのですが、有馬大使は、ハーバード時代にカール・シュミットを英語で読んでいらしたんです。 

 

そんな話ができるのは大使館の中では他にはおらず、凄く話も弾み、大変かわいがってくださったんです。

 

彼は非常に知的な人であったのと同時に、人間的に非常に温かい方でして、現地職員やノンキャリアの会計や電信をやっているような人達をものすごく大切にしていました。何かあると彼らを呼んでパーティをやったり、小さなことでも声をかけたりしていました。

 

その姿を見て学んだのは、組織というのはボトムアップであって、一番下の人と、一番上の人で真ん中を挟むというやり方があるんだということを秘書官をやりながら見て学ばせていただきました。

 

また、彼は、”礼状に対して礼状を返すような人”で、何かをしてもらった時にはすぐに返すというようなことをされておりました。実は有馬大使は以前、宮沢外務大臣の秘書官をやっておられて、その方も非常にそういう細かいところがありましたが、宮沢外務大臣は、池田勇人大蔵大臣の秘書官をやっておられた、この池田勇人さんも非常に細かいということで有名なのですが、その直系で私が受け継いでいるものですから、私にもそれが今でも染みついていますね。だから今私の秘書は大変なんですよね。

 

私は今も手紙を凄い量出します。同じような関係性、同じようなマインドで付き合いたいと思ってくれる人は必ず返してきますので、それが無い人とは付き合わないというのをくっきりと区別するというのも、その時に有馬大使から学んだことですね。

 

大使からだけでなく、この時の経験は非常に役立ちました。外務省がもっと国内に基盤をつくらなくてはいけないということや、経済界ともっと接点を持っていかなくてはいけないのではいかということなど、様々な経験の中で、気づくことが多かった時期でしたね。

不祥事調査に関わって気づいた、お金を生み出す力の重要性。

藤井:何年くらいドイツにおられたのですか?

 

原田:在外研修が2年、大使館勤務が2年で本省に戻ってきました。1998年でした。それで戻ってきた時に驚いたことがありまして、ひとつは、ちょうどi-modeが始まった頃で、みんながすごい携帯電話を使っていたことです。それも含めてITが急速に進化していたことに驚きました。

 

そしてもう一つが、私と同じ世代の人達が「MBA」を取り始めているんですよね。「日経ビジネス」なんかでも毎週のように書いてあるんですね、『これを取らなきゃダメだ!』『時価総額経営だ!』と煽り立てているわけですよね。今までやってきたことを否定して、生き方まで否定して、なんなんだろうこの人たちはと思ったのを鮮明に覚えていますね。

 

まあ、そういうタイミングで帰ってきて配属になったのが、G8のカナダとロシアとアメリカ以外のヨーロッパ諸国を全部みている部署でした。皇室外交、首脳外交、沖縄サミット等をとことんやらせていただきました。

 

そして、一通りやらせていただいた中で、「次のポストどこがいい?」と言われ、役所の中では政治と関係のあるところが面白いと聞いておりまして、秘書官とプレス担当というのは、頼んででもさせてもらえと言われていましたので、「秘書官をやりたい」という話をしました。

 

当時総理官邸に、総理秘書官の補佐をやるというポストがありまして、そこに内々定していたんですね、「こんな若さでラッキーじゃない」なんて言われていましたし、私も喜んでいたんです。ところが、内々定をしていたのに、内定が無いんですね。当時小泉政権が発足した中で、「何で外務省にこんなにたくさんポストがあるんだ?何だ、この若造は?」ということになり、外されてしまったんです。

 

それで、政治をやりたいのなら、ということで大臣官房総務課に行きました。言ってしまえば何でも屋です。赴任したのは2001年の1月7日で、1月11日に総務課長に呼び出されまして、「1月3日に読売新聞がスクープ記事を書いたのを知っているよね?」と言われました。いわゆる松尾事件といわれる外務省機密費流用事件のことです。こちらの案件に国会答弁チーム及び調査チームとして約2年半携わることになります、それらの活動を通じて、お金というものが人間を如何に惑わせるかということを強く感じたのと同時に、公会計という形でありましたが、組織の中のお金の流れと、それを受けて人事がどの様に動いているのかということを徹底してやってきました。

 

この経験を通じて痛感したのは、お金を自分で生み出せる人にならなくてはダメだなということです。外務省に居ながらにして、お金とはどういうものなのかをもっと勉強しなくてはいけないということと同時に、もっと世の中の事を知らなくてはいけないと思いました。

外務省での仕事から多くを学び気づき、そして次のステップへ。

原田:内部調査担当の時は、自分自身の中に何か鬱屈したものがあったのは確かなので、外との会合を持ちたいなと思いまして、同世代の集まりをやろうと、その時同じ内部調査のメンバーでそれぞれ人材を持ち寄ってやり始めたんです。できる男を集めるには、まずはカワイイ女の子を集めなきゃいけないと思って、先ずはできるキャリアウーマンで独身の子たちを集めました。 だいたいそういう子たちは「お食事会」だと来るわけです。それを聞きつけて、男も集まってくるんです。お医者さんから、外資系から、弁護士から、いろんな省庁の人も集めて、どんどん集まってきました。

 

プレスの人や出版の人が、外務省の人がそういうことをやっているということで来るわけです。金融だとかメディアだとかの人脈も全部その会合で作りました。その会合がなければ今の私もありませんし、妻から言わせると、「あなたはあの会合から変わった」と言うんです。 

 

藤井:変わったとはどういう意味でしょう?

 

原田:単純な勤め人ではなくなったということですね。家族を顧みなくなったということでは全くないのですが、もう一つのアクティビティがあると、普段家にいませんから。

 

藤井:外務省を辞めたのは何年でした?

 

原田:2005年ですね、2003年から辞める直前まで北朝鮮の担当をやっていまして、この時31歳でしたが、外務省の中でのキャリア、大使館、北朝鮮、官房業務、を一通りやっていたということもあって、じゃあどうするかという時に思ったのが、私がやりたい外交は、今外務省がやっているような外交ではなく、本当の意味で官民全体を合わせた日米関係あるいは、世界との関係なんだということでした。

 

外務省が嫌いになったわけではないのですが、金融資本主義、お金のこと、その他にもいろいろあったタイミングでもありましたので、次のステップに向かう時なのではないかなと。

半分本気で、半分冗談ですが、いろいろ経験した後に、もし外務省に戻るとしたら、外務大臣かなと(笑)。

新しいステップへと突き動かす原田氏の想い。

藤井:素晴らしいですね、期待しています。

現在、株式会社原田武夫国際戦略情報研究所を立ち上げてご活躍をされていると思いますが、外務省をお辞めになった後にどういう経緯でこういうことを始められたのでしょうか?

 

原田:はい、私が今やっているのは、『グローバル人財教育』という名前で、情報リテラシー、要するにお金も含めて世界はどちらを向いているのか、それに合った形で事業展開をしていなくてはいけないでしょうし、事業展開を考えられる人、経営戦略論ということではなくて、前提としての大きな世界の流れがわかる人を育てましょうという人財教育を主にやらせていただいています。

 

私は「情報リテラシー」ということをしきりに言っています。以前『北朝鮮外交の真実』という本を出しているのですが、北朝鮮問題について言えば、外交の中で起きていることと、メディアで言っていることと、人々が信じていること、これらに大きな乖離があるんですよね、実際にその拉致被害者の問題はあるのはあるのですが、それに立ち往生している間に世界はどんどん進んでいってしまっている。そしてそれを言うこと自体がタブー視されてしまっている。それはおかしいのではないかと。

 

実は日本こそが封じ込められているのではないかと思っていまして、そのことについて知って欲しいというのが、外務省を辞めて一番最初にやり始めた言論活動でした。

 

北朝鮮というのはあくまでも一つの例であって、金融資本主義ですね、金融資本主義の大きな波の中で、日本人が生きていけなくなってしまっているのではないか、という発想が私にはありました。2005年~2007年位でしたか、不動産証券化バブルでドンドン株が上がり始めていたんですよ、それで、多くの人達がヘッジファンドとか日本じゃない金融商品に投資したりだとか、あるいは海外から来ている投資銀行が作っている金融商品にドンドン投資をしていたりする。

 

そうであれば、もっと外国の事を勉強しなくてはいけません。投資銀行というのは何なのか、投資銀行が実はいろいろ政府と関係があったとか、そういうことも含めて、まとまった形で学ぶことはできないか。ということで、金融資本主義の実態というか、その中における日本ということを研究して、それをレポートやセミナーの形で、ある種啓蒙教育を始めたわけです。

 

マーケットにおいてはひと株を巡ってそれの取り合いですので、個人も機関投資家もみんな同じですからね。私のお客様にとってはその知識を持ってすれば戦えるというメリットがあります。投資顧問とかではなくて、情報リテラシー教材、つまり教育であるということでやったらどうかと。それで私が出している分析が全部間違いであれば、私自身の会社が無くなる、私も路頭に迷うという形で責任を取っているという状態にしたほうがいいなということで、2007年4月2日に現在の会社を作ったわけなんです。

出会いを大切にするがゆえに、恵まれる人との縁。

藤井:会社は最初から順調に進んでいったのでしょうか?

 

原田:いいえ、そもそも、最初は会社ってどうやって作ればいいのか、ということすらわからないわけですよね。本を見ると登記の仕方とかは書いてあるのですが、どうやって人を集めるかなんてことは一切書いてないわけです。私は辞めてからもお蔭さまで人との出会いに恵まれておりまして、『北朝鮮外交の真実』という本を出したら、ある人からメールが来たんですね。私と同じ年位で私は聞いたこともない人だったのですが、とにかく会ってみたんです。

 

そうしたら、有名なアセット・マネージャーの方で、村上ファンドの村上さんや、元ライブドアの堀江さんなんかも知っている幅の広い方でして、その彼と月に1回位会うよううになって、最前線の考え方や情報などを教えてもらっていた。そこで学んだことと、外交の知識を合わせ、更に私自身がもっと日本を知らなくてはいけないということで、全国でセミナーを開催するようになりました。

 

外務省の不祥事を調査したときの経験で、私は直感的にビジネスをやるのであれば、お金に近いところでやらなくてはいけないという感覚がありました。出来る限り水源地に近いところでやるべきで、霞を食っていたらダメだと思っていたんです。

 

そういう感覚と、自分が出来ることを組み合わせていくと、またソリューションが出てくるわけなんです。そこで、情報リテラシーというものを投資として役立ててくれる人が多くいるのではないかと思ったんです。当時は、「外交官を辞めてこいつは株の世界に入りたかったのか?」なんて言われましたけれども(笑)。

 

そのアセット・マネージャーの方が「原田さん、会社なんて簡単ですよ、いろいろな人にやりたい事を話をして、一人でもついて来たら大丈夫です。3か月経っても誰もついてこないようであれば、やめた方がいい。」というアドバイスをくれたんです。その言葉を励みにやっていたらようやく、初代の秘書を務めてくれる人を見つけることができたんです。

 

先ほどお話したかとも思いますが、「人を動かすこと」ということに元々興味がありまして、ある時、自分が関心があるのはヒューマン・リソースなんだなと気づいたこともあったのですが、当事者意識がついたのは自分で会社作ってからでしたね。

経営者として向き合った業績不振とリストラという試練。

会社をつくる直前に、兄の高校の先輩がUSENで番組を持っていたんです。そういうご縁もあって、番組に呼ばれまして、いろいろと喋っていたんです。そしたら「君ずいぶん喋れるねぇ、君が国際情勢について思ったことを喋って、それを販売しよう。」ということを言われまして。そして売るのには導線が必要だからということで、Yahooのファイナンス・カテゴリーに有名人のコラムみたいなものがありまして、それを書くことになったんです。

 

そこでコラムを2週間に1回書いて、「もっと詳しい情報はコチラ」ということで音声CDの販売をしていたのですが、これがすごく好評で。毎回記事を上げると1万円のCDが400枚位売れるわけですよ。1カ月で800万円、1年で9600万円の売上になる。もちろんこの時はその先輩の会社を通してやらせてもらっていたのですが、その経験を通じてWEBでモノを売るためのやり方を覚えたわけです。

 

それで会社を作って独自でやる様になったということです。その後の出版不況にもなりましたし、その先輩との出会いが無かったら、きっと路頭に迷っていたと思います。その後またいろいろと教えてくれる方が出てきまして、今のやり方が確立されていきました。

 

藤井:なるほど、その後は順風満帆という感じでしたか?

 

原田:その後リーマン・ショックが起こるわけですが、音声教材をリリースした瞬間に売れていく。10分に1本、3万円の教材が売れていくんですよね。本当にこの時は凄かったですね。

 

ですが、順風満帆というわけにもいかなかったわけです。そしてこれは経営者としては間違っていたのかもしれませんが、外務省を辞めて、日本の名だたる企業の企業戦士の方に情報リテラシーを教えるという、国を辞めて出てきた以上、その位のことはやりたいという想いがありましたので、2008年の12月頃に私は「BtoBがやりたい」と言い始めたんです。

 

ここでお恥ずかしながら社内で論争が起こるわけです。「儲かっているのに何でそんなことやるんですか?」というわけですよ。実はこの時役員構成も変わりましてゴタゴタしていまして。それでも、これからはBtoBだということで、2009年4月採用で人数を一気に増やしたんです。この時は総勢23人にまで増えました。

 

ところが2009年の9月頃からガクっと売上も落ちまして、結果、リストラをすることになってしまうんですよね。本当に大変でしたね。どうやってやるかということもありますし、労務というものが、いかに大変かということがよくわかりました。結果的に労務としては問題なかったのですが、やはり人の気持ちをまとめていくというのは大変なんだなということと、従業員との関係というのは、うまくいっている時は良いですが、うまくいかない時は本当にシビアなんだなと痛感しました。経営者と従業員というのは、きっちり分けなくてはいけないと感じましたね。 

 

経営者としての一つの大きな試練だったと思っていますし、非常に学ぶことの多かった出来事でしたね。

日本バブルが来ている今こそ、日本がコンセプトを打ち出す時。

そしてなんとか2009年、2010年と苦しかったですけれども、何とか乗り切って2012年頃から徐々に大手企業の研修のお話をいただくようになりまして、幹部研修からマネージャ―研修、もしくは海外の拠点長を集めてのグローバル人財育成という切り口からやらせていただいています。

 

私の研修は、異文化コミュニケーションや、経営戦略論というようなことではなく、その前提として、今世界の大きな動きがどうなっているのか、どこに行こうとしているのかということを読み取り活かす力ですよね、中国がいいから中国に行こうではなく、円高だから海外に拠点を移そうということだけではなく、今自分達の周りにある情報からどの様に今と未来を読み解いて、それを事業に活かしていける人財の育成を心がけています。

 

私がやっているのは”日本人の”グローバル人財教育ですが、「グローバル人財」という英語は無いわけです。ですから、これはスタンダライゼーションの話であって、世界のスタンダードにビジネスとして乗るのか乗らないのかという話なのです。

 

ですから2013年の今、「日本バブル」が来ているのであれば、日本がスタンダードを設定していいという時期になっているのですから、皆さんがコンセプトを打ち出す時なんですよということ、そしてそんな良いタイミングが20年ぶりにやってきたのだから、皆さんやってくださいよ。ということを伝えています。

未来を着々と見据え、そのための一歩を踏み出す原田氏の目標。

藤井:最後に原田さんの将来の夢・目標を教えてください。

 

原田:そうですね、先ほど、冗談半分・本音半分と言いましたが、やはりこの2年の間に日本人全体が、このバブルの間に何をするかということにもよるとは思いますが、この結果如何によっては大変なことになると思うんですよね。すごく悪くなる可能性もあるだろうし、逆にものすごく良くもなる可能性もある。いずれにしても、私は最終的にはポリティカルな世界に戻っていくんだろうなというように思っています。

 

日本人のグローバル教育、そして、経済界やメディアの世界とのネットワーク、外交官としての経験、そして、日本全国を回っている経験と、それらを踏まえたうえで決断をしていける地位ですね。

 

やはり私が思うのは、今のデモクラシーというのはいつまで続くのかなと。「選んだ結果これかよ」ということになった時に、今まではエマージング・マーケットで高度経済成長の時に貯めたものがありましたから、まあそれでも良かったのかもしれませんが、これからは、この国が一丸となって海外から富を取っていかなくてはいけない。当然、グローバルマクロのルールも知らなくてはいけないし、全部取ったらいけないよ、みんなに分けて、4割位取ればいいんだよというような国際的なルールも知ったうえで、みんなと一緒にやっていく。

 

できれば、日本が打ち出すルールは、最後景気が悪くなったから戦争をやって、需要を高めてサプライと一緒にするというやり方ではなくて、もっと違うやり方があるのではないかと。それは我々が平和憲法に基づいてきたやり方というのをもっと普及させていくべきだし、そういう意味での外交もやりたいと思っています。それをグローバライゼーションの波の中で広めていきたいと思っています。

 

バブルをやって、ドンと崩して、最後戦争で帳尻合わせをするとかでもない、清貧の時代が正しいんだと言ってみんなで慎ましく過ごしましょうということでもない、全く違うやり方があるのではないかと思っている。人々がある種の領域の中で、競争もあり、イノベーションもあり、文化も生まれてというようなやり方。そういう何かこう日本にもともとあるものに、もう一本筋を通した形で、日本も再建していきたいし、同時に、それを国際的にひとつのモデルとして、主張していくようなオピニョン・リーダーを世の中は求めてくるんじゃないかなと思っています。

 

私は、そういう人間を一つ目標にしながら、今足元にあることを、人との出会いを大切にしながら一歩一歩やっているのが今だということですね。

これからの日本を担う若い方へのメッセージ。

藤井:期待しています、最後に今の若い人に向けて、何かメッセージと言うかアドバイスがあれば是非ここでお伝えください。

 

原田:そうですね、今年初めて私の会社でも新卒の方を採用したのですが、彼女にもいつもいっていますが、社会人になるということは、まず自分自身で全部何でもいいからやっていいというのは、一旦終わる、ということなんです。 

 

巷では自身の専門性を高めて云々というような本が流行っていて、そういった本を熱心に読んでいる学生も少なくないと思うのですが、勘違いしがちなんです。会社に入って営業に配属されて、「私はPRを学んできたので、PRがやりたいんです。」なんて言っても通用しないわけです。 

そもそも専門性というのは、私自身のことを振り返ってみても、まず自分の中で漠然とでも何か持っているものと、世の中から自分に対して求められるものがだんだん一致してきてプロフェッショナルとして出来上がるようなものなんじゃないかなと。

 

社会人になった当初というのは、一旦真っ新になって、言われて入ってくるものは無条件で全部受け入れて、120%全部やるようにする。そうすると必ず見ている人がいるので、次にあれをやったら、これをやったら、となってきて、気づいたら自分で采配できるものが増えてくる。そういうことをやっていけば、あるとき自分で独り立ちするかどうかというタイミングが訪れて、それが本当に訪れるべきタイミングであれば必ずうまくいきますので、ふと見ると自分が好きな事をやっているのではなくて、他人様のために何か役に立つために自分の時間を使っている。本当に自分の使命感を持ってできることが必然的に見つかってくると、そういう価値観に移り変わっていきます。

 

例えば、大手企業に受からなくて、ベンチャー企業に入っただとか、大学院行ったが、公務員試験に受からなかったとか、まあいろいろあるわけですが、そういうのは全部運命なので、運命を宿命に変えていくのには、自分の意志、意志というのは、自分が好き勝手やるということではなくて、人様から求められることを一つ一つやっていく、それを楽しんでやっていくということ、そうすると必ず見ている人がいるので…という長いプロセスなんですよということを伝えたいですね。 

 

決して資格でもないですし、自分の見てくれでもない、あるいは、自分が生まれた家でもない。結局それを素直にやってきた人が、結果的に見ると自分の好きなことをやってきたなと思えるのではないかなと思うので、あまり若い人には焦らないで欲しいです。

グローバルに対しての当事者意識を持つために、マーケットとの距離を縮めることからはじめてみる。

藤井:なるほど、私と原田さんとでは、随分歳も離れていますが、20代の人に言いたいことは全く一緒ですね。20代の人の多くの人の特徴として内向き志向と言われたりしていますが、わりと世の中の変化を感じないで育ってきていると思います。そういう人がこれからもっと当事者意識を持たせていく、あるいは危機感を持っていくためには、原田さんはどの様なことが必要だと思いますか?

 

原田:そうですね、まず一つ言えることは、自分が追いつめられる状況に持っていくのが一番いいでしょうね。資本主義の国に暮らしていて、ファイナンシャル・キャピタリズムだと言っても、「個人投資家として投資をしていますか?」というと、やってない人のほうが多いんです。

 

例えば、投資信託とかではなくて、株を自分で選んで買って、その株が下がった時の恐怖感を感じるわけです。私はマーケットというのは、ある種汚い世界だとか言われることもありますけれども、今日本人が、当事者意識を持つためには、いい道場になると思うんです。

もちろん、全部つぎ込んでしまったら大変ですけれども、例えば損をしたときは、自分がいかに欲深い人間だったのかがわかるでしょうし、ちゃんと勉強して買った株が上がっていけば、それが一つの成果だとわかります。 

 

組織と違って、マーケットというのは全て自分の判断ですよね。そういう完全自己責任のところで危機感を持ちながらやるというのは、これからの日本人には必要なことだと思っています。

 

世界に対しての当事者意識をつけるという意味でも、会社を通してではなく、自分自身がマーケットとの距離を縮めていく。そうすれば世界に対して自然と目が開くと思います。

自分で買った株が円高になって下がったとしたら、何で円高になるんだ?ということに必然的に興味が湧きますし、勉強しますよね。そのマーケットの先にグローバルというものがあるということに当然気がついてくると思うんです。

 

危機感、当事者意識をつけるには、マーケットと自分自身が直接対峙するというのは一つの考え方かなと思っています。特に企業の中にいて守られた環境下にいると、社内で誰かが「もっと危機感持とうぜ」と突然言っても誰も相手にしないですよね。だからまずは自分でできる小さな範囲でマーケットと対峙してみること、そして、マーケットで起こっていること、そのバックにあるグローバルでの出来事に関心を持つということから始めていくのがいいのではないでしょうか。 

 

若い人というのは可能性の塊だと思っています。是非、何かを感じた人は一歩踏み出してみて欲しいと思います。

 
 

インタビューを終えて。藤井義彦

原田氏との最初の出会いは ブータンから帰化、日本でコンサルタントとして活躍している共通の友人からの紹介であった。会食させていただいたが、最初に感じたのは類稀なる地頭力の良さであった。頭の回転がいい。早口で良くしゃべる。事象を見るのに、空を飛ぶ鷹が地の獲物を狙うように、全体像を掴まえ分析していく。

 

留学時代の友人と話しているようで、楽しかった。外交官出身で、国際戦略情報研究所を経営、情報リテラシーと金融資本主義の立場から、「世界がどう動いているか?」を発信しているという。

 

最初は 単なる勉強家の元秀才官僚かと思ったが、別れる頃には 「なかなか味のある」人物と思うようになった。礼儀も正しい。ロジックだけではなく、正直さも暖かみもある。

欧米では時々見かけるが、若き日本人でこれほど聡明でバランスの取れている人物は珍しい。

 

このインタービューでその所以が明確になった。

小学校時代から発想が独創的で面白い。ドイツ語を学び始めた動機が秀逸だが、「人から習うのが嫌」と言うのが面白い。イジメにも会っているが、あまり悩むこともなくスリルと切り抜けていく。中学校時代にすでに、「どうやって人を動かすか?」に興味を以って政治に目覚め、「理」とともに「情」も理解していく。「政治」「外国」「つぶれない会社」の結論が外交官という職業とは。世代の集まりを企画、人脈を作り上げていくが、女性を絡ませる発想 等。

 

そして、経験をもとに 学んでいく力が凄い。外務省の不祥事調査にかかわって、お金を生み出す力の重要性に気付く。会社を立ち上げるときの実行力。経営者として向き合ったリストラという試練から感じ取った人間の気持ち 等。

 

出会いを大切にする義理堅さと生来の人間好きの一面。ロジック一辺倒ではなく、左脳と右脳が程良く同調しているようだ。

 

原田氏は 近い将来の日本にとって有為な人物だ。日本は少子高齢化を世界に先駆けて体験する。債務危機は国を崩壊する程の酷さだ。若人は 閉塞感で内向きになっている。国民に夢を与え、少子高齢化と債務危機―― この二つを解決すれば、日本は世界をリードする先駆的なモデルになる。

 

原田氏はその様な日本をつくるためのリーダーになっていくだろう。世界の超一流の政治家・啓蒙家になって欲しいものだ。一般大衆は馬鹿なようで、案外賢いものだ。原田氏がより「聞く力」を備え、今も彼がビジネスモデルに社会貢献事業を組み入れているように、他人に奉仕する心構えを持ち続けていくことで、道は自然に開けてくるだろう。

 

世界は広い。将来は 日本のリーダーとして、日本の外務大臣として、否、日本の首相として 日本を「小粒でもピリリと辛い」存在にしてほしい。それが原田氏に対する私の大いなる期待である。好漢よ、謙虚に我が信ずる道を進んでいってほしい。


http://www.glc-cs.com/2013/07/08/ketsui-haradatakeo-02/



前編:父の志を受け継ぎ、運命に導かれるように、外交官への道へ。

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/3016bfd57e60150be393328cfec6befc


外務省での経験を経て、自らの使命感を感じ、日本人のグローバル人材教育の道へ。

https://www.gl-coaching.com/haradatakeo02



前編:父の志を受け継ぎ、運命に導かれるように、外交官への道へ。

2014-04-20 | メディア

#003 原田武夫氏

 

株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 代表取締役(CEO)

              (ホームページはコチラ

 

東京大学法学部在学中に外交官試験に合格、外務省に外務公務員Ⅰ種職員として入省。12年間奉職し、アジア大洋州局北東アジア課課長補佐(北朝鮮班長)を最後に自主退職。現在、株式会社原田武夫国際戦略情報研究所(IISIA)の代表取締役(CEO)を務める。

 

「すべての日本人に“情報リテラシー”を!」という想いの下、情報リテラシー教育を多方面に展開。自ら調査・分析レポートを執筆すると共に、国内大手企業等に対するグローバル人財研修事業を全国で展開する。また学生を対象に次世代人材の育成を目的とする「グローバル人財プレップ・スクール」を無償で開講するなど、精力的に全国を飛び回っている。

 

父の影響で海外との仕事に興味を持つ。

藤井:本日はよろしくお願いします。最初はどこに生まれて、どの様にしてキャリアを作ってこられたのかをざっくばらんにお話をお伺いできればと思います。

 

原田:はい、よろしくお願いします。私は生まれは高松で、2歳までそこにいたのですが、私が外交官を目指した大きな理由のひとつに父親の影響があります。

 

私の父は福岡の生まれで、そこから単身出てきまして、東京大学法学部を出ました。大蔵省に行きたく、国家試験も8番の成績で受かっていたようなのですが、実は私の祖父、父にとってのお父さんが、父が小学校4年生の時に亡くなっておりまして。今では人権問題になってしまいますけれども、当時の大蔵省では「片親の人は採用できない」とはっきり言われたらしく、断念しました。通産省からは「是非来なさい」と言われたようなのですが、父はあまり興味がなかったようで。

 

それで父は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった、新日鉄と東京海上(現・東京海上日動火災保険株式会社)とで迷った挙句、東京海上の船舶損害部に入ることになったんです。船とは全く関係なかったのですが、当時、いわゆるエリート・コースといわれる、船舶損害保険をやることになり、結局父は最後までずっとその仕事をしてたわけです。

 

私は、そんな父親の仕事を見ていて、海外との付き合いというのが、面白そうだと思い、そういう仕事を将来やってみたいなという想いは幼少の頃から持っていました。父は大蔵省に行けなかったことに対しては、挫折感は無かったものの、役人になれなかったというどこか悔しさみたいなものが、なんとなく滲んでいるように感じましたので、私が父に替わってそういう方向に進んでいこうという想いもありましたね。

TVで見た「綺麗なポーランド人の女性」をキッカケに、ドイツ語を学び始める。小学生時代。

原田:父の仕事の関係で、2歳まで高松におりまして、70年代半ばに東京の練馬に引越してきました。その後、私が小学4年生の時に、父が家を買って小平に移ってきました。そして1982年、父は今のようにMBA留学というのは無い頃でしたので、単身でニューヨークの弁護士事務所に3か月、ロンドンの弁護士事務所に9か月と学びに行っています。

 

父は「大学に行くのなら東大に行ってくれ」という想いがありまして、3人兄妹で私は真ん中なのですが、東大に行くなら中学も進学校にということで、まず兄が桐朋に、そしてその2年後に私もそこに入ることになります。

 

桐朋というのは、音大の系列ということもあり音楽教育も盛んでして、私は吹奏楽部に入ったのですが、音楽というのは非常にインターナショナルなもので、マーラーとかその他諸々学ぶ時に必要になってくることもあって、その時にドイツ語を勉強したんです。

 

藤井:なるほど、音楽をキッカケにドイツ語を勉強し始めたんですか?

 

原田:そうですね、ただ、ドイツ語を勉強し始めたのは実は小学4年生の時でして、NHKでやっているドイツ語の講座番組を見て自分でやり始めていましてた。始めたキッカケは、当時愛川欽也さんが司会をやっていた『なるほど!ザ・ワールド』というクイズ番組がありましてね、その番組に非常に綺麗なポーランド人の女性が出ていまして…。

それで最初はポーランド語を学ぼうと思いましてね(笑) 

 

ですが、ポーランド語は言語の中でも最も難しい言語でもあって、小学4年生にはちょっと無理だと思ったんですね、それで次はロシア語をやろうと思ったのですが、ロシア語は、「トゥ ヨコハマ」が「フゥ ヨコマミ」になるんですね、格変化してしまうので、これもちょっと難しいなと。

それならば、今度はポーランドの西側だ!ということでドイツ語を学んでみたら、とても自分にマッチしたんですよね。それがキッカケです。それから中学・高校と吹奏楽の事もありまして一人でドイツ語を勉強しました。

 

藤井:面白いですね、小学生で語学を自発的にやり始めるというのもそうですが、普通最初は英語を学び始めますよね。

 

原田:そうですね、私は英語よりも先にドイツ語でしたね。そこがちょっと変なんですけどね(笑)。父親は東大法学部の3つあるコースのうちでもⅡ類の公務員のコースではなくて、Ⅰ類の弁護士などになるコースに入っていたこともあり、家に法律の本が並んでいまして、ドイツ系の本が多くて、本を開けばドイツ語が並んでいましたし、音楽に興味を持ったらそこにもドイツ語が出てきて、何かしら縁があるのではないかなと。

常にリーダー的ポジション。出来過ぎることで、他人からの疎外感を感じる。

藤井:小学校時代、中学校時代はどの様な子供だったんですか?

 

原田:そうですね、率直に言うと常に疎外感を感じていたように思いますね、いかなる集団に入ってもそういう感じがありました。誰よりも早くその集団が課せられたミッションというのを理解できるし、それをできてしまうのですが、『普通のメンバー』というのができないんです。要するにリーダーをやるか、みんながやっているのをベイフェリーから軌道修正するなりという役割かのどちらかなんです。どちらかしかやらないし、やる気もない。

 

人から習うのもすごく嫌だったんですよね。吹奏楽ではクラリネットをやったのですが、先輩には絶対に習わなかったですし、ドイツ語もそうですね。全部一人でやろうとしてしまう。

 

その辺はどうも父親も同じような感じだったみたいで、自分で磨き上げていってしまうので、より一層周りが引いてしまうというね。私はそういう父を見ていて、自分はそういう風になりたくはないなと思いつつも、結局そういう方向に行ってしまいまして。

 

父は類Ⅰを受けるか、理Ⅲを受けるか最後まで迷っていたくらい理系もできる人でしたが、私の兄が数学が苦手でして、父は兄がなぜできないのか最後まで理解できないようでしたね。当時私も一事が万事そうでしたね、吹奏楽をやっている時も部長をやっていたのですが、出来ない人がなぜできないのか全く理解できませんでした。リーダーをやっていても、できない人の分を私がカバーに入るわけですが、そこでまたどんどん成長してしまうので、周囲とどんどん乖離していくという感じでした。 

 

藤井:私も随分たってから出来ない人には出来ない理由があるんだということを理解するようになりましたね。鐘紡でバリバリやっていた時には、なぜできないのかは全く理解できませんでしたからよく気持ちはわかります。 

 

原田:あるとき非常にショックな出来事がありまして、中学2年生の1学期にすごく仲良かった友達が、2学期になったらいじめにかかってきたんですね。例えば、私が休み時間にテラスで教科書を開いていたら、上からつばを垂らされたりね、まあいじめといってもそういう可愛らしいもんなんですが(笑)。

 

どうしたものかなと思っていたら、中学3年生の時の数学の先生が声をかけてくれたのです。何を言うのかと思ったら、「あなたは弁証法というのを知っていますか?」と言われたんですよね。「何ですか?」と聞いたら、「お前はそれを勉強すべきだ、正があるから反があるんだ、お前がいるから、みんながいるんだよ」と言ったんですね。当時私は「何を言ってるんだこの人」と思ったわけですね。少しは慰めてくれるのかと思ったら全然慰めてもくれないで、全然別の事を言われたので。今振り返って思うと確かにそうだなと思うようになりましたけどね。

 

藤井:なるほど、外務省でもいろいろな人も見てきたと思いますし、今は経営者としてやっておられるわけですから、今は非常に良くわかるんじゃないですか?

 

原田:そうですね、ようやく(笑)

高校生までの経験や興味関心から導き出された「外交官」という進路。

藤井:当時の友達関係はどうでしたか?

 

原田:そうですね、吹奏楽部ということもあって集団行動なわけですが、私の学年は20名位いたんです。その中できっちり、原田派とそうでない派が分れていましたね。原田派だった人達はどちらかというとキッチリやっていくタイプの人が多かったですね、そうでない人達は、「まあ適当でいいじゃない」というような感じの人が多かったです。

 

ですから、曲ひとつ決めるのも大変でした。延々と会議をしてましたね。そういった経験の中で私は政治に興味を持ち始めたのです。どうやって人を動かしていけばいいのかと。

 

それである時、指揮者を決めるということがありまして、当然私もやりたかったので、立候補したわけですが、私を含めて3人立候補しまして、私以外の2人は後に音大に進むのですが、そのうちの一人に決まったんですね。まあ今思えば小さい話なのですが、不条理を感じまして。その時に思ったのは、私が指揮者になってやりたかったことは人を動かすということで、音楽に心酔することではないなということだったんです。

 

こういうことがキッカケで関心を持った「政治」と、元から関心のあった「外国」と、当時リッカーミシンが丁度倒産した時期だったのですが、本当に会社というのは取締役の判断一つであっという間に潰れてしまうんだなぁということを感じまして、それを見て私は「つぶれない会社」がいいなと思ったこと、その「政治」「外国」「潰れない会社」という3つを満たしていたのが「外交官」だったんですね、高校2・3年生の頃には「私は外交官になる」と決めていたんですね。

思わぬキッカケで大学3年生で外交官試験に合格。

藤井:なるほど、かなり、自分の興味や強み、社会の現状を把握して、未来を決めて実行していくタイプだったわけですね。

 

原田:そうですね、どの様な時でも、常にソリューションが出てくるというか、あまり悩むことが少ないですね。

 

藤井:そして東大に合格して、外交官を目指すわけですね。外交官試験に纏わるエピソードはありますか?

 

原田:外交官の試験は3年生の時に合格したのですが、本当は3年生で受けるつもりは無かったんですね。東大の場合は2年生の4学期に、文Ⅲから法学部に来る人とクラスが一緒になるんですね、その合流してきた文Ⅲから来た人達の中に1人かわいい子がいたんです。3年生になって本郷に行ったらその子が授業に出ていないんですよね。それで、「どこに行ったんだろう」と思って探してみたら図書館にいましてね、「何をしているの?」と聞いたら、「今年の外交官の試験を受けるから勉強しているの、3年生で受けられることを知っているでしょ?」と言ったんですよね。

 

それを聞いて、私は、”この子の後輩になりたくないな”と思い、それがキッカケで私も3年生で受けることにしまして、結果、僕が受かってその子は落ちてしまったんですよね。結局彼女は2期下で入って頑張っていますよ。

組織に尽くすことの意義を考えさせられた、父の死。

藤井:なるほど、原田さんらしいエピソードですね。原田さんは3人兄弟の真ん中ということですが、お兄さんも国に勤められているんでしたよね。

 

原田:そうですね、兄は本当は日本政治外交史で大学に残りたかったんですよね、ところが、外交史の先生で、後に法学部長になられる立派な教授なんですけれども、その教授に兄貴が「大学院に受かりました」と報告に行くと、「君は論文書いたことがあるのか?」と言われて、当時東大は総ゼミ制ではなかったこともあり、兄は論文を書いていなかったんですよね。すると「君は学者になるのに論文の一つも書いていないというのはどういうことなの?」と言われたようで、兄は、「俺はこんな世界で生きてはいけない」とその道をさっさと辞めてしまうんですね。

 

その時兄は、民間企業は全く受けていなかったのですが、親父がそんなこともあろうかと、「とにかく公務員1種試験は必ず受けなさいと。嫌でもいいから内定を一つとりなさい。」ということで、自治省に内定を取っていたのですね。ですが、最初は学者になろうと思っていた兄は断っていたんです。

 

父は自治省に何人か同級生がいましたから、頼んだんだとは思うのですが、1か月後位に自治省に行ったら、「君が来るのを待っていた」と言われ、今自治省にいるんです。ほんとふざけた兄貴なんですけどね(笑)。兄は一浪していて、私は3年生で試験に合格したこともあって、霞が関では兄と同期なんですよ。吹奏楽でも一緒でしたし、役所も一緒ですし、仲は良いですね。兄は国内を回る自治省、私は海外を回る外務省でしたので、いろいろと話も合いますしね。

 

藤井:そうなんですね、お父様にとっては誇りですね。

 

原田:そうなんですかね。兄が自治省、私が外務省に入った時に、父が「そうか、うちには大蔵省がいないってことなんだな。」と余計なことを言うんですよね。まあ今みたいな状況になると、財務省って重要だなと思うんですけど、当時は「何言っているんだろう、この人は。」と思いましたけどね(笑)。

 

藤井:お父さんはその後もずっと東京海上で勤め上げられて?

 

原田:いや実は、そうではありません。私が入省して1年経ってドイツのベルリンに在外研修に出まして、当時ドイツ・テレコムはとても高かったのですが、1万円位かけて日本に電話していたんですね、ところが毎週末父親が家に居ないんですよね。ゴルフだというのですが、それにしても夜の時間帯もいない。どうしたのかなと思っていたんです。

 

私は6月に赴任したのですが、その3か月後の9月に、当時群馬県庁に居た兄貴が、休みを取ってドイツまで来たんですよね。そして最初の晩に食事をしていたら、「実はお前に話があって来た。」と言うんですよ。私は「なに?結婚でもするの?」と言ったら「いや、そうじゃなくて、実は父が白血病なんだ。」と言うんです。

 

私が海外に出た直後に受けた検診で慢性白血病であるということが発覚したんです。私は2年研修があって、在外勤務になって1年目ですから、私が日本を出て3年目の時に亡くなってしまったんです。

 

当時1990年代前半というのは、海運自体の景気が下がっていた時期でしたので、船舶損害部というもの自体がいらないのでは?という話にもなっていたこともあり、94年の株主総会の時に父は取締役になれなかったんですね。今考えてみると、船舶損害部門はその当時は総売り上げの3%位まで落ち込んでいたようですので、そこから取締役なんていうのは普通に考えれば無理ですよね。父は生真面目な人でしたから、エリート部門とも言われた船舶損害部という冠がありながら、自分の代で初めて取締役になれなかったということに非常に責任を感じていたようでした。

 

父の亡くなった後も東京海上は非常に良くしてくれましたけれども、父が亡くなったことをキッカケに私は、「組織に尽くすとはどういうことなんだろうな。」と強く思ったわけです。これは私にとってその後の人生を考えるうえでも、非常に大きかったと思いますね。

 

外務省で12年のキャリア、そして独立し、新しいステップへ踏み出していく後編へ続く。

後編はこちら


http://www.glc-cs.com/2013/07/05/ketsui-harada-takeo-001/


 

後編:外務省での経験を経て、自らの使命感を感じ、日本人のグローバル人材教育の道へ。

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/ae01f2320a1bb186650f4dede2c67e36

 

外務省での経験を経て、自らの使命感を感じ、日本人のグローバル人材教育の道へ。

https://www.gl-coaching.com/haradatakeo02


なぜ外交官になったのか、どんな学生時代を送っていたのか

2014-04-20 | メディア

IISIAスタッフです。

代表・原田武夫のインタビューが一般社団法人グローバル・リーダーシップ・コーチング協会(GLC)の公式ブログに掲載されました。

なぜ外交官になったのか、どんな学生時代を送っていたのか、外務省を自主退職し、現在に至るまでの道筋についてなど興味深い内容です。

是非、前・後篇併せてお読みください!

前編
http://www.glc-cs.com/2013/07/05/ketsui-harada-takeo-001/
後編
http://www.glc-cs.com/2013/07/08/ketsui-haradatakeo-02/

 

https://www.facebook.com/iisia.jp/posts/516191778452048?stream_ref=10


 

前編:父の志を受け継ぎ、運命に導かれるように、外交官への道へ。

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/3016bfd57e60150be393328cfec6befc

 

後編:外務省での経験を経て、自らの使命感を感じ、日本人のグローバル人材教育の道へ。

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/ae01f2320a1bb186650f4dede2c67e36