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千駄ヶ谷一丁目の大樹

2020-10-09 15:09:10 | 随想

千駄ヶ谷一丁目の大樹

 

――鳩森八幡神社境内一の大樹――

 

大都会の中心に住まうあなたを訪れるのはいつも夜

街灯から届く明かりほの暗く

粗粗しく逞しい幹に向き合う

掌を押し当てると土色の乾いた樹皮は

意想外に柔らかく押し返してくる

すぐ頭上には濃密に入り組んだ枝葉

あふれ満ちている

こうしてあなたは昼となく夜となく呼吸して幾百年


一所に根を張り呼吸を続けるあなたは

火薬も羅針盤も発明するでなく

誰を虐げも滅ぼすでもなく

誰に悲しみを苦しみを与えるでなく

誰を裏切りも陥れもせず

そんなあなたなしに大地は大地でない

あなたと大地が合わさって大地だ


私たちは大地に根を張りながら

私たちの生命いのちは互いにあまりにも違うと思いなし

私たちは伝え合えない生命であると思いなし

数十年で朽ちる生命の気まぐれや思いつきの算盤づくで

いつでもあなたの大きな身体からだのいずくをもいかようにも

あなたの枝を刈り樹皮を剥ぎ幹を抉り

あなたの呼吸を停めようがどうってことなしと思いなす

呼吸を止めたあなたの大きなむくろはたちまち朽ちる

あなたをモノと思いなすヒトたちの

呼吸を止めた小さな骸がたちまち朽ちるように


昼となく夜となく呼吸を続けて幾百年

大きな身体、大きな生命

私たち、大地の子の傍らで

 

(了)

 


「獰猛」はヒトにこそ

2020-09-26 19:52:25 | 随想

「獰猛」はヒトにこそ

 

今は昔、

このヒト、獰猛極まる「動物食派」であろうな、思わせてくれる御仁がいた。

狩猟を趣味とし「練達の狩猟者[a practiced hunter]」たる某国の元副大統領(ごく稀にとはいえ、獲物ではなく狩猟仲間に散弾を浴びせることもあったようだが (注1))、極め付きの「動物食派」に違いないと推断したものである。

趣味の狩猟とは、生き物をただ殺して面白がる(時にはこれを、かわいがる、とも)ことの婉曲的美辞であり、この御仁の病身を養っていた食卓の肉(生き物の体液を含んだ筋肉と脂肪)類は、ただ殺されて面白がられている生き物たちの同類の亡骸である等々のこと、この「練達の富豪狩猟者」の脳裏を一瞬たりともよぎることはなかったであろう。グアンタナモ(注2)で無期限の幽閉を強いられているのが、狩猟を趣味とする元副大統領と同じ人間である等々のことがその脳裏をよぎることがなかったであろうように、である。

やはり獰猛と、加えて凶暴とも称されるべき「動物食派」であろうと踏める連中がいる。「麻薬の運び屋に仕立て上げようと子犬に外科手術を施しヘロインの包みを体内に埋め込んだ麻薬組織(注3)」の連中のことだ。

ところで、ここから《あそこ》までは半歩の距離もない。 

《あそこ》とはどこか? 

現実化するまでは口に出来ない。手がかりを仄めかすことも出来ない。 

そのときに初めて種を明かすということしか出来ないし許されていない。 

言うまでもあるまいが、「獰猛」「凶暴」はヒトにのみ当てはまる形容である。コモドドラゴンもタスマニアデビルもラーテルも、ヒトと比せられれば、シベリアタイガーと比せられた生まれたての子猫のようなものだ。子猫ほど愛らしくはないかもしれないが。

ただ、彼ら、趣味の狩猟とは金輪際無縁である。

 

 【余滴】

「副大統領、ご趣味は?」


「hunting だ。アメリカに神のご加護あれかし[God bless America]」


「では、神父さま(注4)、ご趣味は?」


「はい、paedophilia(注5) でございます。アーメン[Amen]」 

———————————————————————————-

 
(注1)
Cheney Shoots Fellow Hunter in Mishap on a Texas Ranch (By ANNE E. KORNBLUT, The New York Times ON THE WEB, February 13, 2006) 

 
(注2)
グアンタナモに幽閉されている人々の境遇を想像する一助となる論説。

No Justice, No Peace (By BOB HERBERT, The New York Times ON THE WEB, February 23, 2006) 

 
(注3)

“Colombian drug dealers turned puppies into couriers by surgically implanting them with packets of heroin, federal authorities said Wednesday.”(Feds: N.Y.-bound puppies used to smuggle drugs, USA Today.com, Posted 2/1/2006 6:41 PM Updated 2/1/2006 10:29 PM) 

 
(注4)

WORCESTER, Mass. (AP) — A jury rejected an insanity defense and found prison inmate Joseph Druce guilty Wednesday of first-degree murder in the strangulation of pedophile priest John Geoghan, a central figure in Boston’s clergy sex abuse scandal.

ジョン・J・ゲイガン(土曜日にマサチューセッツ州のある刑務所で殺害された元司祭にして有罪判決を受けた幼児虐待者)は昼食の直後に別の受刑者に監房に押し入られ、縛られて猿轡をされた上でベッドシーツで首をしめられた、と看守組合の代表は語った。

(注)John J. Geoghan : 享年68歳。 
(注)a fellow inmate : “Joseph L. Druce(37)”。終身刑を宣告されている受刑者。 
(注)a Massachusetts prison : Souza-Baranowski Correctional Center in Shirley, 30 miles northwest of Boston。 
(注)この記事冒頭の一文。

(Inmate Guilty of Killing Ex-Priest By THE ASSOCIATED PRESS,  The New York Times ON THE WEB, January 25, 2006, Filed at 1:28 p.m. ET) 

 
(注5)

Pedophilia is not a normal sex drive but an obsession, a strong impulse hard to control. It has been compared to alcoholism, and characterized as “a chronic, progressive condition that can never really be cured.” 

幼児性愛は通常の性的欲求ではなく、妄執、即ち、制御し難い激しい衝動である。これはアルコール依存症と比較され、「実際には治癒不可能な進行性慢性病」と特徴づけられている。 

(Opinion: With pedophiles rarely cured, much stricter laws are needed By Amitai Etzioni, Philadelphia Inquirer.com, Posted on Fri, May. 24, 2002) 


「《格言》バラには棘があると文句を言うことも出来るし……」を廻って

2020-09-20 12:53:23 | 随想


「《格言》バラには棘があると文句を言うことも出来るし……」を廻って

 

以下は、2018年実践ビジネス英語Lesson23(Parenting And Grandparenting--2)で耳にした《格言》。《格言の筆者》も紹介されていた。

“You can complain because roses have thorns, or you can rejoice because thorns have roses."
(Tom Wilson, English scholar and politician)
「バラには棘があると文句を言うことも出来るし、棘のある木にバラが咲いていると喜ぶことも出来る」

(番組講師の杉田敏氏訳 ( 音声(18秒)を聴く(MP3) ) )

同番組でこの格言の筆者として紹介された"Tom Wilson, English scholar and    politician"なる人物はそのありきたりの姓名ゆえ、検索すると多数の"Tom        (Thomas) Wilson"を見出せるが、該当しそうな人物は見当たらない。

ある引用文検索サイト(https://quoteinvestigator.com/2013/11/16/rose-thorn/)はこの《格言》の筆者の候補を、"Abraham Lincoln? Alphonse Karr? B. Fay    Mills? Roe Fulkerson? J. Kenfield Morley? Anonymous?"としながらも、       Abraham Lincolnが筆者である可能性は乏しいとして、フランスの「著名な著述家」"Jean-Baptiste Alphonse Karr (1808 –1890) French critic, journalist,      and novelist"を有力候補に挙げている。


この《格言》の中心的語彙を含む以下の如き詞句が、Karr の著作"Lettres écrites de mon jardin”(P.293, Publisher Michel Lévy Frères, Paris)(1853)に見出されるという。


De leur meilleur côté tâchons de voir les choses:
Vous vous plaignez de voir les rosiers épineux;
Moi je me réjouis et rends grâces aux dieux
Que les épines aient des roses.
物事をそのよき側面から眺めてみよう。
人は薔薇には棘があるとこぼす。
私は喜ばしく思い、神々に感謝する、
棘は薔薇の花を戴くことを。(私訳)

同サイトはまた、筆者とされるKarr自身が、この詞句は作者不明であると仄めかしている("Karr’s introductory comment suggested an nonymous authorship")とも付け加えている。Karrはこの詞句、あるいは類似の詞句を、あるときどこかで目にしたか耳にしたということであろう。


私は、この詞句の濫觴は、Joseph Joubert(1754 --1824) の手になる断章であると認識している。Jean-Baptiste Alphonse Karrの著作の刊行は1853年である。ジューベールの死後、シャトーブリアン(François-René de Chateaubriand)(1768--1848)の手で1838年に刊行された"Recueil des pensées de M. Joubert, publié par Chateaubriand"(Le Normant, Paris, 1838) (https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k704177.pdf)には

Au lieu de se plaindre de ce que la rosé a des épines,

il faut se féliciter de ce que l'épine est surmontée de rosés,

et de ce que le buisson porte des fleurs.("rosé"は原文のまま)
朗読(11秒)を聴く(MP3) )(litteratureaudio.comより)

朗読されたテクストは以下の通り(わずかに異同がある。太字部分)。

Au lieu de me plaindre de ce que la rose a des épines,

je me félicite de ce que l'épine est surmontée de roses

et de ce que le buisson porte des fleurs.
ばらには棘ありと託たで、棘はばらの花を戴き、藪に咲く花あるを私は喜ぶ。(私訳)

を見出せる。


手元にある大部の二巻本(合計約1300頁)には、以下の如く。


Au lieu de se plaindre de ce que la rose a des épines il faut se     féliciter de ce que l'épine est surmontée de roses et de ce que le buisson porte des fleurs.
(Carnets, textes recueillis sur les manuscrits autographes par      Andre' Beaunier,1994, I-p.183)
ばらには棘ありと託たで、棘はばらの花を戴き、藪に咲く花あるを喜ぶべし。(私訳)

手元にある縦12センチ、横9.5センチの小型本(JOUBERT ---Maximes et Pensées)のpp.8--9にも同一の断章を見出せる。


単なる教訓と化しているKarrのものは、ジューベールのこの断章の貧弱な焼き直しに過ぎない。


先の引用文検索サイトによれば、Alphonse Karr は1862年刊行の“Sur la plage” (“On the beach”)にも、1877年刊行の“L’esprit d’Alphonse Karr: pensées, extraites de ses oeuvres completes” (“The spirit of Alphonse Karr: thoughts, extracted from his complete works”).にも同詞句を載せているというから、気に入りの詞句であったのだろう。


同引用文検索サイトには、Alphonse Karr の1877年の著書では、同詞句に関する注記はなく、読者はそれがKarr自身の手になるものと思ったであろう("There was no introduction to the verse, and readers may have assumed that the lines were composed by Karr.")とある。

ジョゼフ・ジューベールの大部と評するほかはない二巻本"Carnets"の翻訳を始めて久しいが、改めてこの極めて優れた著者(の著作)がいかに読まれていないかを思い知るばかり。併せて、世に広く知られぬということは、価値の有無・大小とは些かの関わりもないことをも確かめる機会となった。


わざわざ日本語に翻訳するには及ばないと判断できる(判断するのは、無論、私である)断章も数多いから、この大部の書の部分的翻訳はやがて完了するかもしれないが、公開する機会は終に訪れることはないかもしれないと覚悟はしている。


残念なことだ。


(了)


なぜ自然に合掌できなかったか

2020-08-29 16:56:16 | 随想

なぜ自然に合掌できなかったか

金銭を語らざるを得ないという《非特権的視点》

山折哲夫は「日本人の身体感覚」という講演(注1)の中で、過去に体験した幾度かの大病を、胃を三分の一切除するに至った十二指腸潰瘍、胆嚢全摘出、急性膵炎、若い頃の手術の際の輸血が原因で感染したC型肝炎等々を語っている。身体にまつわるあれこれを、吐血やら下痢についてさえ語っている。

しかし、手術やら入院やらにどれくらいのかかりが必要であったのか、その結果、生活がどれくらい苦しくなったのか、山折はなぜか一言も語らない。物象を語るが経済を語らない。病気にまつわる尾篭な話しすら避けることはしないが、医療費やら収入の途絶といった経済的重圧については何一つ語らない。

山折は同じ講演の中で、戦後間もない頃、上野動物園で行われたある式典の一場面を熱く語っている。インドから送られてきた小象「インディラ」の寄贈式には訪日中のネルー首相と娘のインディラ・ガンジーが列席していた。


ネルーさんとインディラ・ガンジーさんは合掌して挨拶された。それに対して日本の高官はですね、身体をもじもじさせておりました。おそらく握手をしようとしたんでしょう。向こうは合掌している。
わが国には合掌の伝統があったはずですよね。が、合掌もできない。握手もできない合掌もできない。そのもじもじした中途半端な日本側の代表者たちの醜態というものを私はほんとに許せないんです。情けない姿でした。
なぜ自然に合掌できなかったか。 (声(85秒)を聴く(MP3) ) (注2)

 

山折はなぜ「自然に」金銭を語れなかったのか、あるいは、語らなかったのか。


もし私が大病を患ったら、私という存在は、あるいは大病それ自体によって、あるいは大病のもたらす金銭的負担によって、いずれにせよ押しつされる。大病を放置すれば大病それ自体によって、大病の治療を受けることにすれば治療を受けることに伴う金銭的負担によって、いずれにせよ、私は押しつぶされる。金があっての生活、生活あっての身体である。


金銭を語る必要がないという視点がある。金銭を語らざるを得ないという視点がある。後者はいわば《非特権的視点》である。前者は言うまでもなく《特権的視点》である。

 



(注1)
講演「日本人の身体感覚」(NKKラジオ第2、2005年7月17日(日)午後八時放送)。国際日本文化研究センター所長という肩書きが紹介されている。


(注2)
録音を元にした引用である。一部聞き取りにくいところがあるため、一言一句発言のまま、というわけではない。


授かりもの

2020-08-28 20:53:28 | 随想

「書簡からみた日蓮」の中で北川前肇氏は、「(八十四才で遷化した師匠の)荼毘に臨んでは大地に跪き号泣し涙をとどめることが出来ないほどでありました」(注1)と二十二年前の自身の体験を回想している。

(注1) 
「書簡からみた日蓮(全二十六講)」(北川前肇)(NHKラジオ第二放送、2005年4月~9月)の「第四講 悲母への追慕」(4月24日放送)。 
以下の引用も「第四講 悲母への追慕」から。

 

氏は今は亡き師との出会い、そしてその人となりを次のように語っている。


私は福岡県の農家に生まれ、小学校を卒業すると同時に近くの寺に入門いたしました。これが私にとって仏教を学ぶ第一歩でありました。

師匠は多くの人たちから尊敬を受ける人物で、しかも自らを律するに厳しく、自ら弟子に対して日々厳しい生き方の範を示されました。また、社会に対する奉仕の精神を兼ね備えた有徳の人で、その生き方を目の当たりにして、私などの遥かに及ばない存在であることを学んだのであります。

未熟な私ではありましたが、多くの弟子たちと同様に、平等に育てられ、中学校高等学校の時代、その師匠の膝下にありました。

 

その後も、「人生の節目に当たって、厳しくしかも将来を見通した言葉を与えてくれた師は、昭和五十八年(1983年)一月四日、八十四才をもって、遷化いたしました。」

北川氏自らが語るその師弟関係を想えば、氏が恩師の死に際し、「号泣し涙をとどめることが出来ない」ほどの悲しみを体験したことに何の不思議も認められない。それは師と呼べる人を持たない私にも想像し得る類の悲しみであるように思われ、そこにはどんな胡乱な要素も見出し得べくもないと思われる。

それでも考えてみたい。氏に大いなる悲しみを掻きたてることになった「喪失」についてである。

十二歳で仏門に入った北川氏である。その氏が出会い、やがて生涯の師となる人物は、氏自ら時間と労力を費やし探し求めた末にようやくめぐり会えた師ではないと考えて差し支えあるまい。誠に幸いなことに、氏は得がたい師との結縁を偶々授かったのである。そして、氏は現し身の恩師を亡くしたとは言え、天寿を全うし世を去った恩師との結縁までも亡くしたわけではない。

北川氏は「授かった恩師(との結縁)」という私的幸運を語り、「授かった恩師の遷化」という私的喪失とそれによって掻きたてられることになった深い悲しみを語った。氏は何を見せびらかすでもひけらかすでもなく、ただおおよそ次のようなことを語ったのである。

《私は偶々素晴らしい結縁を、得がたい師を授かった。その師を失った際の私の悲しみは号泣し涙をとどめることが出来ないほどだった。師との結縁まで失われたわけではないとは言え、そのときの私は無性に悲しかったのだ……》

悲しみの深さこそ偶々授かった幸運の有難さの証しであった。

従って、偶々授かった素晴らしい父母を誇らしげに語る人――いる。

また、幼い生命を親の手で絶たれた人――いる。

また、哀れにもむごたらしい父や母のことを語る幼くして生命を絶たれた人――いない。未だ幼かったその人たちはもはや誰一人として語れない。

また、父や母に苛まれる幼少時代を過ごした(過ごしている)人――いる。その人たちはむごたらしい父や母のことを(殆ど)語りはしない。(とても)語れやしない(語れるときまで生き残れないかもしれない)。

言挙げの対象となるような素晴らしい父や母、そして容易に(時には決して)言挙げの対象とはなり得ないむごたらしい父や母。

 得難い師を偶々授かるという幸運を縷縷語り、その恩師の死をひたすら悲しむ――肉汁(屍肉に残存する体液)滴る焼肉に無邪気に喰らいつくヒトの顔が喜色満面であるのと同じくらい自然のことだ。そこに「何の不思議も認められない」としても不思議ではない。

ところで、人生の帰趨に決定的影響を与えるのはいかなる要素なのか。

この問いの答えとして二つの選択肢(運と努力)を示した後、人生はすべからくこれらがないまぜになったものであると語る論者がいる(注2)。

(注2) 
   Test your political philosophy with one simple question: which matters most in determining where people end up in life? 
   The first is "luck" - by which I mean the pre-birth lottery, that inherited package of wealth, health, genes, looks, brains, talents and family. "Luck" is all those gifts or curses for which we can neither take credit nor be blamed. 
   Choice No. 2 is individual effort, hard work and personal character. 
   Obviously this is a false choice; every life is a blend of both. 
(Taking Luck Seriously By MATT MILLER, The New York Times ON THE WEB, May 21, 2005)

また、知能指数や学校教育や親の懐具合と同様、努力できるという資質さえどうやら授かりもののようだと指摘する論者もいる(注3)。

(注3) 
Does it matter whether your place in life is determined by your IQ or your schooling or your parents' wallets? All of these are beyond your control. 
As we learn more about the human mind, even qualities such as self-discipline seem to be a matter of luck, not grit. 
(Mobility Vs. Nobility By Michael Kinsley, Washington Post.com, Sunday, June 5, 2005; B07)

さて、親(の懐具合)は、ときには師も、授かりもの[luck]である。かくして、その出来不出来[gifts or curses](注2)もまた時の運[luck]である。

子はどうか。

宮崎勤(死刑囚)の父君は自死を遂げたという(注4)。

(注4) 
1989年7月23日 宮崎勤(逮捕時27歳)逮捕
同年 8月13日 真理ちゃん、絵梨香ちゃんの誘拐殺人を自供
同年 9月5日 正美ちゃんの誘拐殺人を自供
1994年11月21日 父君自死 
(http://tasa5600.hp.infoseek.co.jp/miyazaki/miyazaki1.html)

 

在りし日のその胸中を想う。

 

(了)