掌の小説0056 「視力」
……健康診断の視力測定では2.0だが、視力の《よさ》はそんな在り来たりの手段で把握できるものではない。
例えば、ごく近距離、目の前三十センチのところに微小な文字を特殊印刷した紙を広げる。よい視力でもせいぜい黒い点にしか見えないはずの針の穴の数分の一ほどの画数の多い漢字さえ読み取れる。つまり、三十センチの距離で相対したとき、相手の顔の産毛の太さも長さも向きも毛穴の大きさやそこに溜まった汚れも未だ兆しに過ぎない吹き出物も、日々鏡で確認することを怠らない本人さえ気付かぬ皮膚の恐るべき状況が、顕わになる以前の窪みもしわも染みや黒ずみも、華やかに過ぎる化粧という仮面の普通の視力でも見落としようのない色むら、塗りむら、塗り残しはもちろん、化粧面のあるかなきかのひび、ゆがみ、凹凸、浮き上がりなど、美しさとは別次元の微細な物理的状況がすべて見えてしまう。こんな視力、というより眼力の主にとって女の化粧はできの悪い無様な極薄の仮面でしかない……。
隣のスツールに坐っていた女が私の方にもたれかかり。さきほどから私が鉛筆で書きなぐっているペーパーナプキンを覗き込むと、
「そんなに目がよかったんだ。高校生だものね。幸せにはなれないかもね、きみ」
昼は美人銀行員、夜はスナックの雇われママをしている、何となく付き合っていた年上の女に言われた。
(了)