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シャンパンブレイク

30年以上JAL国際線客室乗務員としてフライトし現在癌の治療中。お酒大好き旅が大好き趣味はランニング~

革命に飲み込まれた王妃マリーアントワネット

2015年03月30日 | フランス・パリ
以前は歴史は苦手だったけれど最近は興味を持つようになりました。

パリに来るとやはりマリー・アントワネットの人生の終わり方を考えます。

知っているつもりでしたが改めてマリー・アントワネットのことを調べて書きました。

ちょっと長くなりますが
よろしかったらおつきあいください。

1755年、オーストリアの女帝、マリア・テレジアの15人目の子どもとして、マリー・アントワネットは生まれました。

マリア・テレジアは、子どもたちを可愛がっていた。

しかし女帝という重責を担う中で子どもたちの世話をすることはできず、

子どもたちの教育は、すべて養育係にゆだねられていました。

そのような環境の中で、マリー・アントワネットは、兄や姉たちと明るくのびのびと育っていったと言われています。

マリア・テレジアは、国家のためなら、子どもたちを利用することもいといませんでした。

婚姻による同盟を、重要な外交手段としていたのです。

当時、フランスとオーストリアは、長い間険悪な関係にあり
フランス・オーストリア戦争、7年戦争等の泥沼の戦争がつづきました。

フランスとオーストリアが争い続けることは、他の国を喜ばせ、両国を無駄に疲れさせるだけであったことに気付いた両国は、
今までのことを水に流しフランス‐オーストリア同盟を結びました。

この同盟は、両国に平和と繁栄をもたらすものであるはずだった。

フランスよりも、オーストリアに有利だったこの同盟を、括弧たるものにするために、オーストリアは、婚姻による結び付きを考えます。

それが、マリー・アントワネットを、ルイ15世の孫である、未来のフランス国王ルイ16世のもとに嫁がせることでした。

マリー・アントワネットがルイ16世の相手に選ばれたのは、ただ単に年頃が合うという理由だけだったようです。

結婚の話が出てからしばらくは、ルイ15世はなかなか返事をしなかったようです。

フランス国内では、オーストリアとの同盟が不評だったからであると考えられます。

王家の人間もまた、オーストリアから、未来のフランス王妃を向かえることに乗り気ではなかったらいしのです。

事態を配慮したマリア・テレジアは、フランス大使にマリー・アントワネットの長所を吹聴し

結婚の話が出てから、1769年の正式な婚約を迎えるまでに、6年もかかってしまいました。

こうして、マリー・アントワネットは、オーストリアからフランスへ嫁いでいくことになりました。

ルイ16世は15歳、マリー・アントワネットは14歳の時のことである。

前国王の政治に失望していた民衆は、心から新国王と王妃に期待し、喜びました。

マリー・アントワネットに民衆が望んだことは、美徳にあふれ、あらゆる女性らしさを備え、立派な息子を生むことでした。

民衆は、王妃に対して、社会が繁栄している時は、幸福のシンボル、国家が不幸の時は、母のように慈愛に満ちた存在であってほしいと考えていました。
しかし、マリー・アントワネットは、王妃の立場・責任を全く理解していなかったようです。
理解するには、彼女は若すぎ、経験がなさすぎたのでしょう。

若くして王妃となったマリー・アントワネットは、自分のわがままがすべて通ることを知り、身勝手な行動をとるようになりました。

マリー・アントワネットは、宮廷の古いしきたりを嫌い、自分流のやり方をどんどん取り入れて
年老いた人々を宮廷から追放しました。

やがて、自分のお気に入りの人間だけを、周囲において楽しむようになっていったのです。

お気に入りの中でも、ジュール・ド・ポリニャック伯爵夫人は有名ですよね。
ポリニャック伯爵夫人は、素晴らしい美貌と物憂げな気品で、マリー・アントワネットをすっかり魅了してしまいました。

当時、上流社会では、お気に入りの女友達をもつことが、貴婦人たちの間の高級な趣味として流行していたからです。
マリー・アントワネットは、ポリニャック伯爵夫人と片時も離れてすごすことができなくなり、彼女をヴェルサイユ宮殿内の住居に住まわせるようになります。
そして、彼女に行きすぎともいえる程の友情を示し、法外な特典や年金を与えて、莫大な国費を浪費してしまったのです。

マリー・アントワネットは、もともと遊び好きであったため、毎日のように、劇場や舞踏会、賭博場で、大衆の中に紛れ、楽しさに夢中になり、朝になるまで、ヴェルサイユに戻らないということもしばしばありました。

この振る舞いはルイ16世と正式な夫婦関係を築けなかったことも原因であったと言われています。

ルイ16世には、肉体的な欠陥があり、いつまでも、本当の夫婦になることができなかったらしいのです。
マリー・アントワネットは、国王の子どもを身ごもることができず、そのことに対して、長い間屈辱を感じていました。

夫婦のベッドは、王妃にとって、屈辱を耐え忍ぶ場所と化していたため、彼女はできるだけ夫と寝ることを避けようとしたのでしょう。

夜になって、国王が眠ると、王妃は、陽気なとりまき連中とともにパリへ出かけ、オペラ座の舞踏会などで楽しいひとときをすごした後、明け方になってから宮殿にもどるという生活を続けました。

しかし
ルイ16世が、手術を受け、夫婦の関係を結び、子どもを産んでからは、夜遊びはぴたっとなくなったと言われています。

マリー・アントワネットは、スウェーデンの貴族である、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンと、お互いに心惹かれる仲でした。
2人は、1774年の仮面舞踏会で巡り会い、恋に落ちていったのです。

この2人の関係は、マリー・アントワネットが死ぬまで続いていったといわれています。

マリー・アントワネットのこのような様々な軽率な行動に、人々は困惑し、敵意を抱く人間の数は、増えていきました。

やがて、マリー・アントワネットの悪評は国じゅうに広まってしまったのです。

こうして、貴族・民衆の信頼を少しずつ失っていき、1785年に起きた首飾り事件で地に落ちてしまいました。

首飾り事件とは?

ロアン枢機卿という家柄は良いが、軽薄で遊び好きの高位聖職者がいました。
彼は、宮廷の大臣職につくことを望んでいたのです。
彼には、ラ・モット伯爵夫人という愛人がいました。
彼女は、策略家で、ロアン枢機卿が、大臣職につきたいと思っていることを知ると、自分は、マリー・アントワネットと親友であると嘘をつき、マリー・アントワネットに、ロアン枢機卿の願いを伝えておくと約束します。

ロアン枢機卿が、この話を信じるように、ラ・モット伯爵夫人は、マリー・アントワネットに似た人を、王妃として仕立て上げ、ロアン枢機卿に会わせたり、王妃と文通ができると嘘をつき、手紙のやりとりをさせたりしました。
こうして、ラ・モット伯爵夫人は、ロアン枢機卿を信じさせ、巨額のお金を騙し取ったのです。
そして、ラ・モット伯爵夫人はもっと巨額のお金を得るチャンスをつかみました。

それが、首飾り事件です。

この頃、2人の宝石商が、豪華なダイヤモンドのネックレスを売るために、ヨーロッパ中を歩きまわっていました。
日本円にすると、192億円もするネックレス。

マリー・アントワネットのところにもやってきましたが、彼女は高価すぎて諦めていました。
宝石商も売れずに途方にくれている頃、ラ・モット伯爵夫人と会います。

ラ・モット伯爵夫人は、ロアン枢機卿に、王妃がこのネックレスを欲しがっているから、保証人になってほしいと、契約書を見せながら言いました。
ロアン枢機卿は、信じきっているので、ネックレスを購入し、ラ・モット伯爵夫人に、ネックレスをマリー・アントワネットに渡すようお願いします。
ネックレスは、マリー・アントワネットのところにいくわけもなく、解体され、様々な国で売られたそうです。

宝石商は、なかなかお金が支払ってもらえないので、マリー・アントワネットに直接会いに行きました。

全く何も知らないマリー・アントワネットは、激怒し、侮辱罪として、ロアン枢機卿を逮捕させたのです。
そして
マリー・アントワネットは、大変傷つき、この事件はロアン枢機卿がひとりでやったことだと思い、公表裁判をお願いしました。

裁判官は、事件に関わった者の証言を検証して、主犯がラ・モット伯爵夫人であるとたどりつきます。
ラ・モット伯爵夫人は有罪で終身刑になりましたが、ロアン枢機卿は、無罪となりました。

ロアン枢機卿が無罪であると知った時、人々は、「枢機卿万歳!」と叫んだといいます。

このことは、マリー・アントワネットを大いに傷つけました。

理由は、思いもかけぬ判決であったことと、人々が、ロアン枢機卿の味方であるということを知ったからです。

人々は、マリー・アントワネットに罪があり、ロアン枢機卿は犠牲者だと信じていました。

マリー・アントワネットの浪費癖は、すでに民衆にも広まり言われ続けてきたことでした。

「あの女なら買いかねない。」と信じて疑わなかったのです。

民衆は、192億円のネックレスが、平気でとびかう宮廷にも、頭にきていました。
自分たちは、一生懸命働いても、毎日パンを食べられるかどうかの生活をしているのに、自分たちの納めている税金で、高価なネックレスを平気で、買う話が出ていることは、民衆にとって腹立たしいことでした。

こうして、マリー・アントワネットは、信用を完全に失っていきました。

1787年以降、適切な助言者たちを次々と失ったルイ16世に対し、マリー・アントワネットは、政治面での助言を積極的に行ないはじめました。

1789年に、バスティーユ牢獄が襲撃され、フランス革命がはじまると、マリー・アントワネットは、夫が代々受け継いできた王権を守り抜くために、みずからの身を捧げようと決意します。

革命は、王政にとって非常に不利なものでありました。

王権を守り抜くためにマリー・アントワネットは、国王とともに表面では民衆の要求にこたえるふりをしながら、陰では、権力の奪回をめざしました。

その一方で、フェルゼンの計画するヴァレンヌ逃亡も考えていました。
国王夫妻が頼りにしていたミラボー伯爵が死去すると、気持ちは一気に亡命へと傾いていき、1791年6月20日に計画を実行しました。

しかし、翌日の夕方には囚われの身になってしまいました。

パリに帰ってきてからは、国王一家は囚人のように扱われたようです。

戻ってきてからも、マリー・アントワネットは、名誉回復のために尽力しましたが、1792年に王権は停止され、国王一家は、タンプル塔に投獄されました。
タンプル塔に幽閉された国王一家は政治犯とみなされるようになり、ルイ16世は、裁判にかけられ、1793年に処刑されました。

マリー・アントワネットはその後、「国庫を浪費した」件と、「外国に軍事秘密を漏らした」件と「息子と不適切な関係を結んだ」件で逮捕されます。
全ての件においてマリー・アントワネットは、自己弁明し、裁判所は、確実な証拠を得ることができなかったのですが、この裁判は、最初から有罪が決まっているもので、1793年10月16日に、処刑されました。


処刑された場所

コンコルド広場



中央のオベリスクはエジプトから送られたものでルクソール神殿の塔です。





『ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑された場所』と記したプレートが埋め込まれています。



革命当時にギロチンが設置されていた場所は、現コンコルド広場北西のホテル『クリヨン』の前に建つブレスト像の前

述べ1119人が処刑されました。

時代

歴史

人生

ずしんと重みが伝わって来るようです。



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