タイ語板  5枚目~!!  

石板 ~エメラルドとエメラルド寺院

石板 ~エメラルドとエメラルド寺院

 

 『ワット・プラケオ』 エメラルド寺院、、 もう20年前に行ったきりですがタイを代表する観光地かと。

エメラルド仏はここ以外にもあるようなので、その辺りも。 石的には前板同様、以前にルビーとサファイアの違いコランダム項の辺りで書かせていただいていますが、再掲させていただきます。

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エメラルド มรกต /mɔɔ rá kòt

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M; 【エメラルドemerald) 】とは

 緑柱石berylベリル)の一種で、強い緑を帯びた宝石である。和名は、翠玉(すいぎょく)、緑玉(りょくぎょく)である。

アクアマリンと組成を同じくするが、クロム Cr やバナジウム V がドーパントとして混入している。

内部に★特有の傷が無数にあり、これが天然ものの標識ともなっている。当然ながら、大きく、傷が少ないほうが価値が高く、明るく濃い緑色のものが最上級とされる。 ★エメラルドは天然には良質の石がほとんど産しないため、かなりの傷物も宝石として流通させることが一般に認められており、その場合オイルや樹脂に浸すなど化学的処理を施して傷を隠したり、石の耐久度を高めたりする。特に無処理、ノンオイルとのことわりがない限り、この手の処理を施してあると考えて差し支えない。処理が下手な場合、時間の経過とともにオイルが蒸発する、またかなり高度な処理であっても、近年宝石店の店頭でも盛んに行われている★超音波洗浄機によりオイルが抜けてしまうことがあり、そうなると本来の傷物の姿に戻ってしまう。

また、緑柱石の中には黄緑色をした石もあるが、エメラルドとして扱われることはほとんどなく、ヘリオドール、グリーンベリルなどと呼ばれ価値も著しく下がる。発色の仕組みも鉄イオンが関係しており、クロムやバナジウムにより発色するエメラルドとは原理が異なる。これらの石は★加熱処理によりアクアマリンへと変色させることができる。

モース硬度ではかなり硬い石だが、内部に多数の傷を抱えていると云う結晶の性質上、★衝撃に極端に弱い。指輪の台に取り付けるだけで割れることさえあり、職人泣かせの石とされる。 エメラルドカットと呼ばれるカットがされることが多いが、これは屈折率がダイヤモンドのように高くなく、ブリリアントカットを施しても屈折率の高い石に特徴的な煌き(ファイア)が見られないためで、印象的な緑色をより広く見せようとした結果である。それと上述したこの石の脆さ、及び六角柱をした結晶から取り出せる大きさなどとの関係から、なるべく欠け易い角が少なくなるようなこのカットが生まれた。なお透明度の低い石の場合はカボション・カットが施される場合もある。

稀にキャッツアイ効果(シャトヤンシー効果)の現れるエメラルド・キャッツアイやスター効果の現れる☆スターエメラルドが産出されることがあるが、非常に希少である。☆トラピチェ・エメラルドと呼ばれる均等に放射状に6つに割れた一見スターに見紛う石もあり、こちらも非常に希少である。

同じベリルに属するレッドベリルをアメリカの宝石業界がレッドエメラルドと呼ぶように他国と激しい議論を重ねているが、本来エメラルドには「緑色の」と言う意味があるのでこの名称は正しくない、と考える人もいる 。ベリルの語源であるギリシア語beryllosにも「海のような青緑の石」という意味がある

生産

コロンビアブラジルザンビアジンバブエマダガスカルパキスタンなど各地で産出されるが、現在は、★コロンビアが最大の産出国である。

2000年の生産シェアはコロンビア (60%)、ザンビア (15%)、ブラジル (12%)、ロシア (4%)、ジンバブエ (3%)、マダガスカル (3%) である。

語源

 エメラルドの語源は★サンスクリット語で「緑色の石」を意味する「スマラカタ」にある。それが、ギリシャ語で「スマクラグドス」、ラテン語で「スマラグダス」と変化し、さらに「スマラルダス」に変化、そこからさらに古フランス語で「エスメラルド」に変化し、現在の「エメラルド」と言う呼称になったとされる。

色との関連

 エメラルドはエメラルドグリーンのように色の名前として、また美しい鮮やかな緑色を表現する上で「エメラルドのような〜」といったように慣用句として使われる。

歴史

 エメラルドの歴史は古く、★世界の4大宝石にも数えられている。 ギリシア時代、アリストテレスの弟子テオフラストスの「石について」に登場し、エジプトの紅海に近い砂漠で発見されたという。プトレマイオス朝エジプトではクレオパトラも愛用し好みの大使に与え、シーザーは治療のためにたくさん集めたと伝えられている。このことから富と権力の象徴でもあったとされている。ローマ帝国時代のプリニウスの「博物誌」では、ダイヤと真珠に次ぐ、第三位の宝石とされており、皇帝ネロはエメラルド製のモノクルを所有していたとの言い伝えもある。実際、ポンペイなどローマ帝国時代の遺跡からはエメラルド製品がよく出土する。

このように古い歴史を持つエメラルドではあるが、量的に出回るようになったのはアメリカ大陸発見後、新大陸で発見されてからである。

エメラルドは、ギリシアやローマでは、占星術の影響でヴィーナスに捧げられていた。ユダヤの伝説ではソロモン王が神から授けられた宝石の中に、エメラルドが入っていたという。

サンスクリットの医術では、エメラルドは解毒のほか、下剤、消化を助ける、等の効果があるとされていた。ペルシアやアラビアの聖者たちも、解毒のほか、てんかんを治す、肝臓病やらい病に効くなど万能薬扱いしていたという。

ヨーロッパでは、がエメラルドを凝視すると目が見えなくなるという古くからの言い伝えがある。

中世では、エメラルドに未来を予言する力があるとされ、また、女性の貞節を守り夫の愛を保つとされていた。 (Wiki)

 

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M2; 【ワット・プラケオ ;エメラルド寺院 】とは

 エメラルド寺院の通称で知られている「ワット・プラ・ケオ」は、★1782年に★ラーマ1世が現在の王朝であるチャクリー王朝を開いたときに護国寺として建てた寺院。 敷地内の黄金の仏塔には仏舎利(仏陀の遺骨)が納められています。「ワット・プラ・ケオ」は王室の守護寺院として建立され、タイで最も美しくきらびやかな名刹です。 ★エメラルドブッダが季節に合わせ年3回衣替えします。

また、「ワット・プラ・ケオ」は、毎年4月のタイ正月”ソンクラーン”の時期になると地元の人々が多く訪れます。エメラルド仏に呪文を唱え、強い信念で祈ると金運が上がると信じられています。

▼ ワット・プラ・ケオで祀られているエメラルドブッダ

基本情報

名称 ワット・プラ・ケオ(エメラルド寺院)
名称(英) Wat Phra Kaew
URL https://www.royalgrandpalace.th/en/home
営業時間 08:30〜16:30 (チケットは15:30まで)
料金 500バーツ
住所 Phra Nakhon Bangkok
地図

Googleマップで確認する

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M3; 【エメラルド仏 】と

 タイバンコクワット・プラケーオにある仏像。玉仏(ぎょくぶつ)とも呼ばれる。タイ語ではプラ・ケーオモーラコット (タイ語: พระแก้วมรกต) 、または単にプラ・ケーオ (タイ語: พระแก้ว) ともいう。正式名称はプラ・プッタマハーマニーラッタナパティマーコーンケーオモーラコット (タイ語: พระพุทธมหามณีรัตนปฎิมากร) 。エメラルドでできていると一部ではいわれているが、★実際にはヒスイ製である。 タイ人アイデンティティーの1つでもあるとされるこの仏像は、民間では霊験あらたかな仏像とされるため、タイ人のみならず、東南アジア上座部仏教国からも巡礼者が巡礼に訪れる。 ★タイ国王の手によって年に3回、夏・雨季・乾季のはじめに衣替えがあり、王室の重要な行事の1つである。

伝来

 その伝来はよく分かっていないが、『エメラルド仏年代記』や『ジナカーラマーリーなどの伝説によれば、高僧ナーガセーナ長老が考案し、インドラ神とその配下のヴィッサカンマ(ヴィスカンマ)がつくったとしている。

その後、エメラルド仏はマガダ国の都パータリプトラ(Pataliputra ;〈パーリ語: パーターリプッタ、Pataliputta〉)にしばらく安置されていたが、内戦によりパーターリプトラに安置することが困難となり、その王シリダンマキッティによりスリランカに運ばれた。

エメラルド仏が東南アジアに戻ったのは、アリマッダナ(パガン王朝)のアニルッダ王(アノーヤター)が西暦457年、国内の三蔵経がずさんな内容のものであると知り、スリランカに完全無欠の三蔵経を求めてスリランカに行ったことによる。 アニルッダはその帰路、2隻の船に完璧な三蔵経とエメラルド仏を積んで帰ったが、2隻の船のうち三蔵経とエメラルド仏を運んだ船の方がインダパタナガラ(マハーナガラ、現在のアンコール・トム)に流れ着いた。この後、アニルッダはインダパタナガラの王を脅しつけて、三蔵経を返してもらったがエメラルド仏については失念した。このためエメラルド仏はインダパタナガラにとどまった。

伝承によると、インダパタナガラでは王の息子がアブラバエを飼っており、バラモンの息子がクモを飼っていたが、このクモが国王の息子の飼っているアブラバエを食い殺した。このため、王の息子は悲しみ、王はトンレサープ湖でバラモンの息子を殺した。これを知ったバラモンは王を呪い退散した。そして、ナーガ(竜)の王が洪水を起こし、インダパタナガラを壊滅させた。壊滅の真相はともかく、これによりエメラルド仏はアユタヤのアッディカー(アディッチャ)に帰することになった。

アユタヤ移動後、エメラルド仏はカムペーンペットの国主によってカムペーンペットに持ち込まれた。カムペーンペット歴史公園にあるワット・プラケーオはこのときエメラルドブッダが安置された寺と考えられている。その後、ラーンナークーナー王の弟、マハープロムがカムペーンペットからエメラルド仏を持ち去り、チエンラーイに安置した。その後、ラーンナー王セーンムアンマーとマハープロムが抗争を起こしたため、エメラルド仏は戦火の中、密かに隠された。

1434年、チエンラーイのある寺の仏塔落雷で破壊されたとき、その中から漆喰でできた仏像が見つかった。しばらくして、ある仏僧がその漆喰の仏像の鼻がもげているのを見つけ、よくよく調べると中にヒスイの仏像が入っていたといわれている。現在では、★チエンラーイにあるワット・プラケーオがこの寺であったといわれている。

仏像発見後、ラーンナーのサームファンケーン王(即位:1401年 - 1442年?)は白象をもってエメラルド仏をチエンラーイから首都のチエンマイまで運ぼうとしたが、三度試しても象がラムパーンに引き返すので、王はチエンラーイにエメラルド仏を運ぶのを止めた。その後、サームファンケーン王の6男であるティローカラート王の手により、エメラルド仏のチエンマイへの運び込みは1468年にようやく成功した。

1548年ラーンサーン(現在のラオスにあった国)の王の座にも就いたラーンナーのセーターティラート王は、1551年にエメラルド仏をラーンサーンの首都ルアンパバーンへ運んだ。1564年ビルマタウングー王朝)の侵攻を懸念したセーターティラート王によって、仏像はさらに新しい首都ヴィエンチャンに運ばれ、ラーンサーン分裂後はヴィエンチャン王国によって保持された。

1777年トンブリー王朝(シャム)のタークシン王がビルマ(コンバウン王朝)と繋がっていたヴィエンチャン王国へ侵攻すると、1779年ラーマ1世(当時はタークシン王に仕える将軍)がヴィエンチャンから略奪してトンブリー(現在のバンコク)へと持ち帰った。後にラーマ1世がチャクリー王朝を開くと、エメラルド仏は1784年からラーマ1世が設置したワット・プラケーオに安置されることとなり、そのまま今日に至っている。 (Wiki)

 

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初版20220817

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①気象関連

②国政関連
❷ウクライナ侵攻・国際情勢関連
③経済関連
④コロナ・疾病関連
⑤その他スポーツ関連
⑥よくない系ニュース
⑦良い系ニュース
⑧科学・教育・文化・伝統・発見関連
⑨野球関連

⑩人・人物関連

(画像 ・1) エメラルド寺院。 マッサージしにワット・ポーへは何度か行ってたけれど、ここは一度だけだった。  /タイ国観光庁


(画像 ・2/3) 地図  /2⇒阪急交通社 3⇒阪急交通社

 


(画像 ・4) 1000万円のエメラルド指輪  /楽天市場

 

(画像 ・5) エメラルドも油漬けがあるのですね。  /幻冬舎ゴールドオンライン

 

 

(画像 ・6)

(画像 ・7) チェンマイ ワット・ドイのエメラルドブッダ  /お墓ガイド

 

(画像 ・8) チェンライ ワット・プラケオのエネラルド仏  /Ameba

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