九州神社紀行-ブログ

北九州近郊を中心に神社および周辺風景の撮影日記です。

琉球八社巡拝ーPart1

2013-07-08 21:13:29 | 神社巡拝

 6/24(月)西表島からの帰り那覇に1泊して、かねてから参拝したいと思っていた琉球八社を巡りました。

前日の6/23(日)現役時代に大変お世話になった大先輩のKさん、沖縄勤務の後、定年退職後もそのまま那覇に移住?した、同期入社のKさんと3人でささやかな大宴会?を楽しみました。
 大先輩のKさんとは10数年ぶり、同期のKさんとは数年ぶりの再会です。石垣空港から那覇には20時に着きましたので、ホテルにチェックインの後、20時30分頃からの沖縄流の遅い開始でしたが、昔話などで盛り上がり時間の経つのも忘れて大変楽しいひと時を過ごすことができました。
 ホテルに帰還したのは日付が変わっていましたが、いつものとおり記憶喪失です。

 琉球八社とは、明治以前には官社とも呼ばれて琉球国府から特別の扱いを受けた、波上宮を筆頭とする安里八幡宮、天久宮、沖宮、識名宮、末吉宮、普天満宮、金武宮の八社のことです。

 6/24(月)起床してすぐにホテルの大浴場でアルコールを洗い流し、参拝に備えすっきりしました。
西表で二晩、那覇の昨夜と三日連続で泡盛漬けとなりましたが、日本酒、芋焼酎のような二日酔いにはなりません、泡盛は体に良さそうです。

 9時丁度に同期のKさんにマイカーでホテルに迎えに来ていただき八社巡拝に出発しました。

 最初はホテルから2kmほど、モノレール安里駅の北数百mの住宅地に鎮座する安里八幡宮です。
1.安里八幡宮 
安里八幡(あさとはちまん)
【鎮座地】〒902-0067 沖縄県那覇市安里3丁目19-14 旧琉球国 沖縄郡
【御祭神】神功皇后 應神天皇 玉依姫
【例祭】 1月1日 歳旦祭 9月9日 例大祭
【旧社格等】無格社 琉球八社
【御由緒】
 八幡宮、那覇市安里鎮座、祭神、神功皇后、応神天皇、玉依姫、例大際、旧九月九日
由緒
 琉球国時代の官社、琉球八社中唯一八幡神を祀る社で、古棟札の文に伝へられるところによれば、天正年中第六代国王尚徳王の時代に、鬼界島を討たせたことがあったが、小島ながら堅固に守って従わなかった。その時に村の老人が奏上した。王が自身で征討せられよ。犬を先にし兵を後にして行かれよと。王は弓矢八幡に誓って鳥を射たところ、みごとに射止め勇んで出帆した。海上に小鐘が浮かんでいた。王は神に祈って把り上げ、喜んで神霊の筥をつくった。かくて本意を遂げて帰国し、かの鳥を射止めた場所に霊社を建て、八幡大神宮と号して祭ったという。
 神威赫々、上下の尊信篤く、琉球歌謡「上がり口説」にも謳われて有名であったが、昭和十九年十月戦炎にて炎上。戦後、昭和三十七年仮殿を建て現在に至る。
 (平成祭データ)

 狭い道路を進むと鳥居が見えてきました。境内は隣接する保育園の遊び場になっているようで、背後には建築中の超高層マンションRYU:X TOWERが聳えています。

 つぎは、泊港近くの天久宮です。
2.天久宮(あめくぐう) 
【鎮座地】〒900-0012 沖縄県那覇市泊3-19-3 旧琉球国 沖縄郡
【御祭神】天龍大御神 天久臣之姫大神 泊龍宮神 弁天負泰彦大神 弁財天
     伊弉冉尊 速玉男命 事解男命
【例祭】 4月5日 例大祭
【旧社格等】無格社 琉球八社
【御由緒】
 天久宮、那覇市泊鎮座、祭神、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命、例大祭、四月五日
由緒
 神社の開基は成化年間(一四六二~八七)なりと伝えられる。住古、銘苅村の銘苅の翁子という者が隣村の天久村で、気高き女人と法師に出逢った。彼が尋ねてみると、法師は山の中腹、女人は山上の森に住むという。近くには洞窟があり二人は出入りしていた。女人が洞窟に入ると途中で姿が消えることもあった。翁子はあまり不思議なことを見たので、事の至第を王府に奏上したところ、王はその事実を確かめて、洞窟の前に社殿を建立した。すると、今度は信託があって、「我は熊野権現なり、利益衆生の為顕るなり、女人は国家の守護神なり」と、いったという。
 康煕四十二年(一七〇三)に社殿の修築、一七三四年には当初現聖現寺の北方に建っていた社殿を現在地に移設した。道光一七年、フランス人が滞在していたため天久宮で行う正月元日、一五日一二月晦日の典礼は長寿寺で行った(球陽尚育王十年の条)さる大戦では社殿のすべてを焼失し、昭和四十七年本殿を再興した。平成御大典記念事業として、平成二年本殿拝殿を改築した。
 (平成祭データ)

 泊高校の北数10mの道路沿いに朱の鳥居が建っていますが、社殿は見られません、左に一対の狛犬があり下に下りる階段があり、簡素な社殿がありました。


 続いて、那覇市中心部の北西1kmほどの海の側に鎮座の琉球國新一宮、波上宮です。 
3.波上宮(なみのうえぐう) 
なんみー(なんみー)
【鎮座地】〒900-0031 沖縄県那覇市若狭1丁目25-11 旧琉球国 沖縄郡 
【御祭神】伊弉册尊 (配祀)速玉男尊 事解男尊
【例祭】 5月17日 例大祭
【旧社格等】琉球國新一宮 
      官幣小社(現別表神社)琉球八社
      沖縄総鎮守
【御由緒】
波上宮
 那覇市若狭鎮座、祭神、伊弉冊尊、速玉男尊、事解男尊、例大祭五月十七日
由緒
 当宮の創始年は不詳であるが、遥か昔の人々は洋々たる海の彼方、海神の国(ニライカナイ)の神々に日々風雨順和にして豊漁と豊穣に恵まれた平穏な生活を祈った。その霊応の地、祈りの聖地の一つがこの波の上の崖端であり、ここを聖地、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まる。
 波上宮の御鎮座伝説に[往昔、南風原村に崎山の里主なる者があって、毎日釣りをしていたが、ある日、彼は海浜で不思議な「ものを言う石」を得た。以後、彼はこの石に祈って豊漁を得ることが出来た。この石は、光を放つ霊石で彼は大層大切にしていた。この事を知った諸神がこの霊石を奪わんとしたが里主は逃れて波上山(現在の波上宮御鎮座地で花城とも呼んだ)に至った時に神託があった。即ち「吾は熊野権現也この地に社を建てまつれ、然らば国家を鎮護すべし」と。そこで里主はこのことを王府に奏上して社殿を建てて篤くまつった]と言う。
 以来、中国、南方、朝鮮、大和などとの交易(琉球王府直轄事業)基地であった那覇港の出船入船は、波上宮の鎮座する高い崖と神殿を望み、出船は神に航路の平安を祈り、入船は航海無事の感謝を捧げた。また人々は常に豊漁、豊穣を祈り琉球王府の信仰も深く、王みづから毎年正月には列を整え参拝し、国家の平安と繁栄を祈るなど朝野をあげての崇敬をあつめ、琉球八社(官社)の制が設けられるや当宮をその第一に位せしめ、「当国第一の神社」と尊崇された。
 明治の御代になるや、同二三年官弊小社に列格し、沖縄総鎮守としてふさわしい社殿、境域の結構を見るに至ったが、先の大戦で被災した。琉球朝野のあつい崇敬を受けて沖縄総鎮守の神として御神威は古今を通じて高く、海外貿易の海上交通、豊漁、豊穣、諸産業の振興を守護され、又身近には厄除、安産、家内安全、病気平癒の信仰は古昔よりあつく、近年は結婚式、建築関係諸祭祈願、商売繁昌、受験合格祈願、初宮詣、交通安全祈願等、諸願成就の神として神徳著しく、正に「守礼の邦」沖縄の永世泰平の守護を戴く御神徳である。
 略年表、
正平二三年(一三六八)頼重法印が当宮の別当寺として護国寺を建て王の祈願所とする。
大永二年(一五二二)倭僧日秀上人、当宮を再興。慶長十年(一六〇五)倭僧袋中上人が「琉球神道記」の中に「当国第一の神社」と記す。
元和九年(一六二三)「おもろ草紙」巻十が完成。歌中に御造宮の様子あり。
寛永十年(一六三三)社殿炎上。同十二年再興。
享和三年(一八〇三)社殿大破。それまでの三殿を一殿に改め三戸前として改築。
明治二三年(一八九〇)官弊小社に列格す。御鎮座告祭式を行う(現、例大祭日)。
昭和十年(一九三五)御再興三百年祭を行う。同十三年頃にかけ神苑の整備なさる。
昭和二十年(一九四五)戦火激しく、御神体を奉じ安原宮司、摩文仁に避難。
昭和二七年(一九五二)上原宮司復興に着手。本土、ハワイに呼掛け推進。翌年本殿、社務所を再建。鎮座祭を行う。(三六年拝殿を再建)
昭和四七年(一九七二)本土復帰を迎え、沖縄復帰奉告祭を行う。皇室より玉串料を賜る。
昭和六二年(一九八七)旧社務所並び参集所を撤去し、社務所を新築。
平成二年(一九九〇)平成御大典記念に第一鳥居を改築。
 (平成祭データ)

 現役時代の2004年2月9日以来、9年ぶりの2度目の参拝です。さすがに観光客の参拝も多いように感じました。


 那覇空港近くの奥武山運動公園の中にある水泳プールに隣接して鎮座の沖宮です。
4.沖宮(おきのぐう)  
【鎮座地】〒900-0026 沖縄県那覇市奥武山町44 旧琉球国 沖縄郡 
【御祭神】天受久女龍宮王御神(天照大御神) 天龍大御神 天久臣乙女女王御神
     (配祀)伊弉册尊 速玉男尊 事解男尊
【例祭】 3月22日 春季例大祭 3月22日 春季例大祭
【旧社格等】無格社 琉球八社
【御由緒】
 沖宮、那覇市奥武山鎮座、祭神、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命、例大際、旧三月二十三日
由緒
 沖宮の創建は詳らかではないが、「琉球国由来記(一七三六年)」の一節に「那覇津に光気あり、国王首里城より御覧ありて奇瑞、奇妙なりと漁夫に命じて得たるは、これ枯木なり。尋常ならざる霊木と知る。次の夜海面を見るに光輝なし、この枯木霊なりと地を卜して霊社を建り」と記されている。明治四十一年那覇港築港の為、真和志村字安里へ遷座、昭和十年国宝に指定された社殿も昭和十九年戦災により炎上した。
 戦後、比嘉真忠に御神託があり、昭和三十二年那覇市通堂町に小祠を祀り、同三十五年に仮宮わ建立し、沖宮復興へのさきがけとした。祖国復帰を記念して開催された若夏国体を期に昭和四十八年、御神託の地奥武山天燈山へ遷座、翌四十九年四月より、五十一年五月迄の三期にわけ、本殿拝殿並境内神社その他諸施設を復興整備した。
 (平成祭データ)

 奥武山運動公園の駐車場に戻る途中、ご朱印帳を受け取るの忘れたことに気付き炎天下を引き返して疲れましたが、ここで気付いたので最悪の事態は避けられました。

 再び、那覇市内中心部を通り、首里城の南西1kmほどの繁多川に鎮座の識名宮に向かいました。
5.識名宮(しきなぐう) 
【鎮座地】〒902-0071 沖縄県那覇市繁多川4丁目1-43 旧琉球国 沖縄郡
【御祭神】伊弉册尊 速玉男命 事解男命
【例祭】 9月15日 例大祭
【旧社格等】無格社 琉球八社
【御由緒】
 識名宮、那覇市繁多川鎮座、祭神、伊弉冊尊、速玉男命、事解男命、午ぬふぁ神、識名権現(女神)、例大祭、九月十五日
由緒
 社号は「琉球神道記」には「尸棄那権現」「由来記」には「姑射山権現」と記されている。尚、前者には「縁起亦明カナラズ。熊野神ト見ヘタリ。石窟惟霊地也」と祭神のことが記されている。「遺老説伝」によれば、識名村に夜々光輝することがあり、大あむしられが検分をしたところ、洞内に賓頭蘆が一体安置されていたといい、彼女が尊信すると感があった。尚元王(一五五六~七二)の長子尚康伯の病気回復に霊験を得て、識名宮と神応寺を建て、大あむしられに看守させたという。
 社殿はもと洞内にあったが湿気がひどく腐朽し、康煕十九年(一六八0)に洞外に移築して、瓦葺とした。毎年一・五・九月の吉日に国王の行幸があった。現在の社殿は、大戦後、建立したもので、戦前の建物は、三間社流造り、本瓦葺き、桁行三・七m、梁間二・四mの建築で、沖宮本殿に類似していたといわれるが、残念ながら、戦災で焼失した。戦後、昭和四十三年十二月復興した。
 (平成祭データ)

 かなり通行量の多い道路沿いに鎮座、現在新社殿の計画があるようで境内に完成予想図が掲示してあり、社務所の隣に簡素な拝所が設けられていました。

  琉球八社巡拝ーPart2に続くーーー>

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