12/23(日)、本日は天皇誕生日です、そこで初代神武天皇ゆかりの
多家神社(広島県府中町)を掲載しました。
当社は神武天皇が東征の途中、7年間駐留された古事記の阿岐国多祁理の宮と伝えられています。また「日本書紀」では埃宮(えのみや)と記されており、現在でも通称「埃宮」と呼ばれています。
多家神社(たけじんじゃ)
<通称>埃宮(えのみや)
【鎮座地】〒735-0005 広島県安芸郡府中町宮の町3丁目1-13 旧安芸国 安芸郡
【御祭神】神武天皇 (配祀)神功皇后 大己貴命
【例祭】4月第1日曜日 例祭 10月第3土曜日 例祭 10月第3日曜日 例祭
【旧社格等】式内社 安藝國安藝郡 多家神社 名神大
安藝國総社 安藝國三の宮
旧県社
【御由緒】
安芸国開祖 多家神社 (埃宮)
主祭神 神武天皇(神倭伊波礼毘古尊、勝利開運、事始、政治の神)
初代天皇(紀元前六六〇年即位)
安芸津彦命(安芸国の開祖神)
相殿神 神功皇后(第十四代仲哀天皇の皇后)
応神天皇(第十五代天皇) {交通、厄難除、安産、育児の神}
大己貴命(大国主神、招福開運、商業、医薬、健康、縁結びの神)
摂末社 貴船神社(高龗神、別雷神、大山津見神)
由緒 この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。『古事記(七一二年完成)』に阿岐国(安芸国)の多祁理宮に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が七年坐すとあり。『日本書紀(七二〇年完成)』には埃宮に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。
平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(九二七年完成)に安芸国の名神大社三社の一つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。
中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。
そこで明治六年(一八七三)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。
明治七年県社となった。その後、多くの村社小社を廃して多家神社に合祀した。大正四年(一九一五)九月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正十一年四月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。
たれその森について 「誰曽廼森」と記されている。神武天皇が、当地の者に「曽(そ)は誰(たれ)そ」とお尋ねになったことからこの名がついたといわれている。
(社頭由緒掲示板より)
広島市に隣接する安芸郡府中町にあります、JR広島駅より東におよそ3km、府中小学校から数100mの高台に鎮座しています。
神武天皇東征御留蹕霊地」の碑明治43年4月の建立です。
参道の鳥居
一の鳥居をくぐり、石段を上ると正面に鳥居、左に比較的新しい手水舎があります、境内はゆったりと広く整備されています。
拝殿
きれいに揃えられた4足
参拝した時、先客がいました、若いご夫婦と男の子と女の子の4人家族でした。
こういう光景はほほ笑ましく、いいですね。
中門から本殿
本殿は中門から瑞垣に囲まれた一段高い位置にあります。
流造の本殿
明治7年(1874)安芸惣社と松崎八幡宮を合祀して創建されました
主祭神:神武天皇、安芸津彦命、相殿神:神功皇后、応神天皇、大己貴命です。
社殿全景
宝蔵
宝蔵(ほうぞう)(広島県重要文化財、昭和29年4月23日指定)
この宝蔵は明治7年(1874)の多家神社創建に際して移築された広島城三の丸稲荷社の社殿の1棟である。
校倉造と呼ばれる建築様式で、太い材木(校木あぜき)を四方に組上げて壁とする建築方法である。柱はなく、壁が桧皮葺の屋根を支えており、通気性がよく宝物の保存に適している。一般的な校倉造では組上げる校木に三角形に近い五角形の材を使うが、この校倉は四角形に近い六角形の材を用いている。これは「信貴山縁起絵巻(国宝)」に描かれているものと同じであるが、現存する校倉では外に例がない。江戸時代後期の校倉の好例であるといえる。
この宝蔵は、収蔵されている神輿や校木形状の稀少性だけでなく、現存する数少ない広島城の建築物としても重要である。
府中町教育委員会
(案内板より)
東洋工業(現マツダ)奉納の神馬昭和49年4月の日付があります。
府中町はマツダ本社とかつてはキリンビールの広島工場があり、企業城下町で住民税も安く、周囲の町は全て広島市に合併されていますが、当町は独立しています。
境内から参道
多家神社(広島県府中町)を掲載しました。
当社は神武天皇が東征の途中、7年間駐留された古事記の阿岐国多祁理の宮と伝えられています。また「日本書紀」では埃宮(えのみや)と記されており、現在でも通称「埃宮」と呼ばれています。
多家神社(たけじんじゃ)
<通称>埃宮(えのみや)
【鎮座地】〒735-0005 広島県安芸郡府中町宮の町3丁目1-13 旧安芸国 安芸郡
【御祭神】神武天皇 (配祀)神功皇后 大己貴命
【例祭】4月第1日曜日 例祭 10月第3土曜日 例祭 10月第3日曜日 例祭
【旧社格等】式内社 安藝國安藝郡 多家神社 名神大
安藝國総社 安藝國三の宮
旧県社
【御由緒】
安芸国開祖 多家神社 (埃宮)
主祭神 神武天皇(神倭伊波礼毘古尊、勝利開運、事始、政治の神)
初代天皇(紀元前六六〇年即位)
安芸津彦命(安芸国の開祖神)
相殿神 神功皇后(第十四代仲哀天皇の皇后)
応神天皇(第十五代天皇) {交通、厄難除、安産、育児の神}
大己貴命(大国主神、招福開運、商業、医薬、健康、縁結びの神)
摂末社 貴船神社(高龗神、別雷神、大山津見神)
由緒 この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。『古事記(七一二年完成)』に阿岐国(安芸国)の多祁理宮に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が七年坐すとあり。『日本書紀(七二〇年完成)』には埃宮に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。
平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(九二七年完成)に安芸国の名神大社三社の一つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。
中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。
そこで明治六年(一八七三)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。
明治七年県社となった。その後、多くの村社小社を廃して多家神社に合祀した。大正四年(一九一五)九月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正十一年四月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。
たれその森について 「誰曽廼森」と記されている。神武天皇が、当地の者に「曽(そ)は誰(たれ)そ」とお尋ねになったことからこの名がついたといわれている。
(社頭由緒掲示板より)
広島市に隣接する安芸郡府中町にあります、JR広島駅より東におよそ3km、府中小学校から数100mの高台に鎮座しています。
神武天皇東征御留蹕霊地」の碑明治43年4月の建立です。
参道の鳥居
一の鳥居をくぐり、石段を上ると正面に鳥居、左に比較的新しい手水舎があります、境内はゆったりと広く整備されています。
拝殿
きれいに揃えられた4足
参拝した時、先客がいました、若いご夫婦と男の子と女の子の4人家族でした。
こういう光景はほほ笑ましく、いいですね。
中門から本殿
本殿は中門から瑞垣に囲まれた一段高い位置にあります。
流造の本殿
明治7年(1874)安芸惣社と松崎八幡宮を合祀して創建されました
主祭神:神武天皇、安芸津彦命、相殿神:神功皇后、応神天皇、大己貴命です。
社殿全景
宝蔵
宝蔵(ほうぞう)(広島県重要文化財、昭和29年4月23日指定)
この宝蔵は明治7年(1874)の多家神社創建に際して移築された広島城三の丸稲荷社の社殿の1棟である。
校倉造と呼ばれる建築様式で、太い材木(校木あぜき)を四方に組上げて壁とする建築方法である。柱はなく、壁が桧皮葺の屋根を支えており、通気性がよく宝物の保存に適している。一般的な校倉造では組上げる校木に三角形に近い五角形の材を使うが、この校倉は四角形に近い六角形の材を用いている。これは「信貴山縁起絵巻(国宝)」に描かれているものと同じであるが、現存する校倉では外に例がない。江戸時代後期の校倉の好例であるといえる。
この宝蔵は、収蔵されている神輿や校木形状の稀少性だけでなく、現存する数少ない広島城の建築物としても重要である。
府中町教育委員会
(案内板より)
東洋工業(現マツダ)奉納の神馬昭和49年4月の日付があります。
府中町はマツダ本社とかつてはキリンビールの広島工場があり、企業城下町で住民税も安く、周囲の町は全て広島市に合併されていますが、当町は独立しています。
境内から参道