《補われた知と対をなすもの-39》
「自己のない心の樹」
「自己のない心の樹」が不自由に縛られるとき、それを振り払おうと「補われた知の樹」とは対照的な振舞をし、理性を越えた感覚を「補われた知の樹」にあたえる。つまり「生きているから知りえる感覚」。一塊の記憶や体験(それは専門的か一方向の領域)から分析を重ね予測する制限づけられた探究、推理とともに理解に向かうのが理性をあまり必要としない記憶であるのに対し、理性を越えた感覚は、そもそも記憶や体験もないのだから分析も観察も不可能であるため、どうしようもない感覚となる。生と理性、つまりは感覚と運動、それらは生命そのものに単純に準じている、思考そのものを作り上げる基本中の基本に立ち戻るためである。しかし邪魔をするのが専門的一方向の領域「補われた知の樹」である。・・・・・つづく。
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