〔資料-1〕
「『愛してる』『また会おう』、沈没する韓国船から届いた生徒らの声」
AFP=時事 4月17日(木)20時34分配信
☆ 記事URL:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140417-00000046-jij_afp-int
韓国の南西部沖で旅客船セウォル(Sewol)号が沈没した事故で17日、沈みゆく船内から高校生たちが家族に送った悲痛な携帯メールの内容が明らかになり、韓国全土に悲しみが広がった。一方、船内放送で客室や座席にとどまるよう指示があったため多くの乗客が逃げ遅れたとの証言もあり、不明者の家族からは怒りの声が上がっている。
セウォル号は16日朝、座礁した後、徐々に傾き沈没した。これまでに9人の死亡が確認されたが、依然として287人が行方不明で、そのほとんどが修学旅行の高校生たちだ。
「もう言えないかもしれないので伝えておきます。お母さん。愛しています」。セウォル号に乗っていた男子生徒の1人、シン・ヨンジンさんが携帯電話から母親に送ったメッセージの内容は、韓国メディアに大きく取り上げられた。この時、まだ息子が生死の瀬戸際にいることを知らなかった母親は、「あらまあ、私も愛してるよ」と返信した。
幸いにもヨンジンさんは、船体が完全に沈没する前に救出された179人に入っていた。だが、全ての生徒に幸運が訪れたわけではない。
船体が激しく傾くなか、キム・ウンギさん(16)が兄に宛てたメールは絶望感に満ちている。「ぼくの部屋は45度も傾いてる。携帯もよくつながらない」。ウンギさんの兄は、救助隊が向かっていると返信し弟を励ました。「落ち着いて。言われた通りにしていれば大丈夫だから」
しかし、それきりウンギさんからの返信はなかった。ウンギさんは現在も行方の分からない乗客287人に含まれている。
■逃げ遅れた乗客たち、船内放送で「動かないで」
セウォル号の事故では、船が座礁した時点で、乗客たちに客室や座席にとどまるよう指示があったとの指摘が複数ある。生存者たちの証言によると、動かないようにとの船内放送が何度も流れたという。
助け出された生徒の1人は、ほとんどの乗客が座礁後30~40分間、船員や放送の指示に従って座席に座っていたと証言した。生徒たちは「逃げなくて大丈夫かな」と口々に言い合っていたが、船内放送は「10分以内に助けがくる」と告げていたという。
指示に従った乗客たちは、船体が激しく傾いた時には既に逃げ道がなくなっていたとみられ、この指示が数百人もの生命を危機に追いやったと家族らは怒りを募らせている。
女子生徒シンさん(18)と父親のメールでのやりとりが、この間の状況を物語っている。
シンさんから「お父さん、心配しないで。救命胴衣をつけて、みんなと一緒にいるから。まだ船の中です。ホールにいます」とのメールを受け取った父親は必死に、すぐ脱出するよう娘にメールで返信した。だが、遅すぎた。返ってきたメールは「だめ、船がすごく傾いてて出られない。ホールはたくさんの人たちでいっぱい」。これが娘からの最後のメッセージとなった。
■チャットで「絶対また会おう」
沈みつつある船内の娘や息子たちと、かろうじて携帯電話で言葉を交わした親もいる。
ある男子生徒の母親は、パニックに陥った息子から電話を受けた。「息子は、船が傾いているし、何も見えないと取り乱した声で話しました。まだ救命胴衣をつけていないと言って、そのまま電話は切れてしまいました」と、この母親は韓国紙東亜日報(Dong-A Ilbo)に語った。
同紙はまた、船内の生徒たちが携帯チャットで交わした会話も紹介している。1人が「なあ、みんな絶対に生きてまた会おうな」と書き込むと、他の生徒が「みんな大好きだよ」と応じている。この生徒たちが救出されたかどうかは分かっていない。【翻訳編集】 AFPBB News
〔資料-2〕
「韓国客船沈没:元は鹿児島−沖縄間で18年間フェリー」
毎日新聞 (2014年04月17日 12時28分)
☆ 記事URL:http://mainichi.jp/select/news/20140417k0000e030227000c.html
韓国南西部の全羅南道珍島(チョルラナムドチンド)沖で旅客船「セウォル号」(6825トン)が沈没した事故で、死者は、17日朝までに9人が確認された。
沈没した客船は2012年まで日本の鹿児島−沖縄航路のフェリーとして18年間運航していた。
当時の運航会社「マルエーフェリー」(鹿児島県奄美市)によると、客船は94年に長崎市の造船会社が建造。同年6月から12年9月末まで鹿児島市から与論島などの離島を巡り、那覇市まで往復していた。毎年1回はドックで定期点検しており、大きな事故や修復はなかったという。
韓国の運航会社には12年10月に売却。韓国で約半年間、検査や改装され、昨年3月から運航。定員は鹿児島時代の804人から921人に増えた。マルエーフェリーによると、造船技術が高い日本の客船は海外で人気で、日本で15〜20年使った後、さらに5〜10年程度使用されるのは一般的という。同社の担当者は「韓国でどのような改造があったかは分からない。長年当社で使っていた船なので、テレビで救助場面を見ると心が痛む」と話した。【鈴木一生、柳瀬成一郎】
「『愛してる』『また会おう』、沈没する韓国船から届いた生徒らの声」
AFP=時事 4月17日(木)20時34分配信
☆ 記事URL:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140417-00000046-jij_afp-int
韓国の南西部沖で旅客船セウォル(Sewol)号が沈没した事故で17日、沈みゆく船内から高校生たちが家族に送った悲痛な携帯メールの内容が明らかになり、韓国全土に悲しみが広がった。一方、船内放送で客室や座席にとどまるよう指示があったため多くの乗客が逃げ遅れたとの証言もあり、不明者の家族からは怒りの声が上がっている。
セウォル号は16日朝、座礁した後、徐々に傾き沈没した。これまでに9人の死亡が確認されたが、依然として287人が行方不明で、そのほとんどが修学旅行の高校生たちだ。
「もう言えないかもしれないので伝えておきます。お母さん。愛しています」。セウォル号に乗っていた男子生徒の1人、シン・ヨンジンさんが携帯電話から母親に送ったメッセージの内容は、韓国メディアに大きく取り上げられた。この時、まだ息子が生死の瀬戸際にいることを知らなかった母親は、「あらまあ、私も愛してるよ」と返信した。
幸いにもヨンジンさんは、船体が完全に沈没する前に救出された179人に入っていた。だが、全ての生徒に幸運が訪れたわけではない。
船体が激しく傾くなか、キム・ウンギさん(16)が兄に宛てたメールは絶望感に満ちている。「ぼくの部屋は45度も傾いてる。携帯もよくつながらない」。ウンギさんの兄は、救助隊が向かっていると返信し弟を励ました。「落ち着いて。言われた通りにしていれば大丈夫だから」
しかし、それきりウンギさんからの返信はなかった。ウンギさんは現在も行方の分からない乗客287人に含まれている。
■逃げ遅れた乗客たち、船内放送で「動かないで」
セウォル号の事故では、船が座礁した時点で、乗客たちに客室や座席にとどまるよう指示があったとの指摘が複数ある。生存者たちの証言によると、動かないようにとの船内放送が何度も流れたという。
助け出された生徒の1人は、ほとんどの乗客が座礁後30~40分間、船員や放送の指示に従って座席に座っていたと証言した。生徒たちは「逃げなくて大丈夫かな」と口々に言い合っていたが、船内放送は「10分以内に助けがくる」と告げていたという。
指示に従った乗客たちは、船体が激しく傾いた時には既に逃げ道がなくなっていたとみられ、この指示が数百人もの生命を危機に追いやったと家族らは怒りを募らせている。
女子生徒シンさん(18)と父親のメールでのやりとりが、この間の状況を物語っている。
シンさんから「お父さん、心配しないで。救命胴衣をつけて、みんなと一緒にいるから。まだ船の中です。ホールにいます」とのメールを受け取った父親は必死に、すぐ脱出するよう娘にメールで返信した。だが、遅すぎた。返ってきたメールは「だめ、船がすごく傾いてて出られない。ホールはたくさんの人たちでいっぱい」。これが娘からの最後のメッセージとなった。
■チャットで「絶対また会おう」
沈みつつある船内の娘や息子たちと、かろうじて携帯電話で言葉を交わした親もいる。
ある男子生徒の母親は、パニックに陥った息子から電話を受けた。「息子は、船が傾いているし、何も見えないと取り乱した声で話しました。まだ救命胴衣をつけていないと言って、そのまま電話は切れてしまいました」と、この母親は韓国紙東亜日報(Dong-A Ilbo)に語った。
同紙はまた、船内の生徒たちが携帯チャットで交わした会話も紹介している。1人が「なあ、みんな絶対に生きてまた会おうな」と書き込むと、他の生徒が「みんな大好きだよ」と応じている。この生徒たちが救出されたかどうかは分かっていない。【翻訳編集】 AFPBB News
〔資料-2〕
「韓国客船沈没:元は鹿児島−沖縄間で18年間フェリー」
毎日新聞 (2014年04月17日 12時28分)
☆ 記事URL:http://mainichi.jp/select/news/20140417k0000e030227000c.html
韓国南西部の全羅南道珍島(チョルラナムドチンド)沖で旅客船「セウォル号」(6825トン)が沈没した事故で、死者は、17日朝までに9人が確認された。
沈没した客船は2012年まで日本の鹿児島−沖縄航路のフェリーとして18年間運航していた。
当時の運航会社「マルエーフェリー」(鹿児島県奄美市)によると、客船は94年に長崎市の造船会社が建造。同年6月から12年9月末まで鹿児島市から与論島などの離島を巡り、那覇市まで往復していた。毎年1回はドックで定期点検しており、大きな事故や修復はなかったという。
韓国の運航会社には12年10月に売却。韓国で約半年間、検査や改装され、昨年3月から運航。定員は鹿児島時代の804人から921人に増えた。マルエーフェリーによると、造船技術が高い日本の客船は海外で人気で、日本で15〜20年使った後、さらに5〜10年程度使用されるのは一般的という。同社の担当者は「韓国でどのような改造があったかは分からない。長年当社で使っていた船なので、テレビで救助場面を見ると心が痛む」と話した。【鈴木一生、柳瀬成一郎】
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