毎日新聞、2014年07月26日付東京朝刊に
「戦後70年に向けて:いま靖国から/40 生き永らえた命令者」
と題する記事がある(下記〔資料〕参照)。
この記事は、
会員登録すれば、
誰でも直接読めることになっている。
☆ 記事URL:http://mainichi.jp/select/shakai/sengo70/
さて、記事には、
福岡市の振武(しんぶ)寮のことが
紹介されてある。
ここで何がなされたか――。
実は、振武寮にて、
特攻生還者を第6航空軍参謀が
特攻からの生還者を
「なぜ死なない」と
責め立てていたようだ。
百田尚樹という
当てずっぽうだけで小説を書くのが
得意な作家の著作
「永遠のゼロ」
なる小説がある。
太平洋戦争で散った
特攻隊を美化するために書かれた作品だ。
この小説には、
主人公が
教え子を生還させる一方で
華々しく
特攻隊員として
死ぬ姿が描かれている。
物語は、
その主人公の生き様を孫が追うという
設定だった。
生還した教え子から
祖父の考え方を知ることになるわけだから、
現在、生きてなきゃ、
話が聞けないのは当然だ。
しかし、そういう想定は、
事実としてありえない虚構だということを、
この新聞記事は伝えている。
すなわち、生還者は、
「なぜ、生きて帰ってきたか」
と責め立てられるのだ。
折角生きれ還れても、
地獄のような責め苦に耐えられず、
自決した人が
後を絶たなかったのではないか。
また、陰で囁かれるごとく、
「特攻隊員は志願制」
というのは、
どこまでも建前で、
実態に即さない真っ赤なウソだったろう。
寮の管理者をしていた
倉沢清忠少佐は、
慰霊祭など特攻の顕彰に熱心だった反面、
特攻生還者の報復を恐れ、
80歳まで実弾入り拳銃を持ち歩き、自宅には軍刀を隠し持っていたという。
晩年、懺悔するように
振武寮という
公刊戦史にも出ていない施設のことについて
林えいだい氏の取材に応じ、
特攻隊員を送り出した側の本音があけすけに語った。
「12、13歳から軍隊に入っているから洗脳しやすい。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、小遣いをやって国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃう」
などと証言して、直後に倒れて世を去ったという。
思い残すところがなくなったのだろう。
その振武寮の
責任者だったのは、
第6航空軍司令官、菅原道大(みちおお)中将だった。
この人は、
戦後38年生き永らえ、95歳の天寿をまっとうしたそうだ。
次男の童謡作曲家、故深堀道義氏は、
75歳の老年に達した2001年に本を書き、
「父も自決すべきであった」
という見解を表明した。
別にこの方、
父親を憎んでいたわけではない。
むしろ深く敬愛していた。
しかし、父の没後、
特攻遺族から
「お父さんを絶対に許せない」
と罵られ、真剣に向き合うようになったという。
そして出てきた結論が
上の結論だった。
そうとでも言わないと、
父親が成仏できないという判断をされたのじゃないか。
丁度、生き永らえた命令者として
倉沢氏が
死ぬ前になって、
決してきれい事ではない、
少年を特攻隊員に仕立て上げる洗脳の過程を
吐き出したように。
〔資料〕
「戦後70年に向けて:いま靖国から/40 生き永らえた命令者」
毎日新聞 (2014年07月26日 東京朝刊)
☆ 記事URL;http://mainichi.jp/auth/guide.php?url=http%3A%2F%2Fmainichi.jp%2Fshimen%2Fnews%2F20140726ddm002010189000c.html
「父も自決すべきであった」
陸軍特攻を総指揮した第6航空軍司令官、菅原道大(みちおお)中将は戦後38年生き永らえ、95歳の天寿をまっとうした。次男の童謡作曲家、故深堀道義氏は、それから18年、父の人生を考え詰め、自分も75歳の老年に達した2001年に本を書き、あえてこのような見解を世に表した。
父の生前は問題を避けていたが、没後、特攻遺族から「お父さんを絶対に許せない」とののしられ、真剣に向き合うようになった。
深堀氏の妻は「夫は義父を心から敬愛していました」と語る。遺族の怒りは無理もないが、戦後56年たっても尊父の戦争責任を総括しなければならないと決意した司令官の息子の苦渋もまた、いかばかりであっただろう。
第6航空軍は特攻生還者を福岡市の振武(しんぶ)寮に隔離し、参謀が「なぜ死なない」と責め立てた。公刊戦史にも出ていない施設だが、戦後58年過ぎて記録作家、林えいだい氏(80)の執念の取材により、実態が明るみに出た。
寮の管理者は、菅原中将の部下である倉沢清忠少佐。戦後は一橋大を卒業し、勤めた会社の社長に栄達して03年病没した。享年86。
生還者の報復を恐れ、80歳まで実弾入り拳銃を持ち歩き、自宅には軍刀を隠し持っていた。それでも「特攻は志願だった」と言い張り、慰霊祭など特攻の顕彰に熱心だった。
林氏は東京都内の倉沢氏宅を初めは半ば強引に、半年余りで都合4回訪ね、のべ20時間以上のインタビューを敢行した。福岡県・筑豊地方の林氏宅に残る録音テープには、今日流行する特攻賛美のきれい事とは裏腹な、送り出した側の本音があけすけに語られている。
例えば、学徒動員の特別操縦見習士官に比べ少年飛行兵は「12、13歳から軍隊に入っているから洗脳しやすい。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、小遣いをやって国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃう」などと証言している。そんな暴言・放談がたくさん残る。
当初取材を拒んだ倉沢氏は、4度目には自分から林氏を招いて大いに語り、直後に倒れて世を去った。初めて重い荷を下ろしたのか。
誠の哀悼から死者を思い、魂を問い、霊性を聞くのなら、命じた者たちの応答は欠かせまい。今の靖国に、祭られた死者たちと生き残った者たちの対話はあるか。=次回は29日掲載<文・伊藤智永/写真・荒木俊雄>
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「戦後70年に向けて:いま靖国から/40 生き永らえた命令者」
と題する記事がある(下記〔資料〕参照)。
この記事は、
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誰でも直接読めることになっている。
☆ 記事URL:http://mainichi.jp/select/shakai/sengo70/
さて、記事には、
福岡市の振武(しんぶ)寮のことが
紹介されてある。
ここで何がなされたか――。
実は、振武寮にて、
特攻生還者を第6航空軍参謀が
特攻からの生還者を
「なぜ死なない」と
責め立てていたようだ。
百田尚樹という
当てずっぽうだけで小説を書くのが
得意な作家の著作
「永遠のゼロ」
なる小説がある。
太平洋戦争で散った
特攻隊を美化するために書かれた作品だ。
この小説には、
主人公が
教え子を生還させる一方で
華々しく
特攻隊員として
死ぬ姿が描かれている。
物語は、
その主人公の生き様を孫が追うという
設定だった。
生還した教え子から
祖父の考え方を知ることになるわけだから、
現在、生きてなきゃ、
話が聞けないのは当然だ。
しかし、そういう想定は、
事実としてありえない虚構だということを、
この新聞記事は伝えている。
すなわち、生還者は、
「なぜ、生きて帰ってきたか」
と責め立てられるのだ。
折角生きれ還れても、
地獄のような責め苦に耐えられず、
自決した人が
後を絶たなかったのではないか。
また、陰で囁かれるごとく、
「特攻隊員は志願制」
というのは、
どこまでも建前で、
実態に即さない真っ赤なウソだったろう。
寮の管理者をしていた
倉沢清忠少佐は、
慰霊祭など特攻の顕彰に熱心だった反面、
特攻生還者の報復を恐れ、
80歳まで実弾入り拳銃を持ち歩き、自宅には軍刀を隠し持っていたという。
晩年、懺悔するように
振武寮という
公刊戦史にも出ていない施設のことについて
林えいだい氏の取材に応じ、
特攻隊員を送り出した側の本音があけすけに語った。
「12、13歳から軍隊に入っているから洗脳しやすい。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、小遣いをやって国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃう」
などと証言して、直後に倒れて世を去ったという。
思い残すところがなくなったのだろう。
その振武寮の
責任者だったのは、
第6航空軍司令官、菅原道大(みちおお)中将だった。
この人は、
戦後38年生き永らえ、95歳の天寿をまっとうしたそうだ。
次男の童謡作曲家、故深堀道義氏は、
75歳の老年に達した2001年に本を書き、
「父も自決すべきであった」
という見解を表明した。
別にこの方、
父親を憎んでいたわけではない。
むしろ深く敬愛していた。
しかし、父の没後、
特攻遺族から
「お父さんを絶対に許せない」
と罵られ、真剣に向き合うようになったという。
そして出てきた結論が
上の結論だった。
そうとでも言わないと、
父親が成仏できないという判断をされたのじゃないか。
丁度、生き永らえた命令者として
倉沢氏が
死ぬ前になって、
決してきれい事ではない、
少年を特攻隊員に仕立て上げる洗脳の過程を
吐き出したように。
〔資料〕
「戦後70年に向けて:いま靖国から/40 生き永らえた命令者」
毎日新聞 (2014年07月26日 東京朝刊)
☆ 記事URL;http://mainichi.jp/auth/guide.php?url=http%3A%2F%2Fmainichi.jp%2Fshimen%2Fnews%2F20140726ddm002010189000c.html
「父も自決すべきであった」
陸軍特攻を総指揮した第6航空軍司令官、菅原道大(みちおお)中将は戦後38年生き永らえ、95歳の天寿をまっとうした。次男の童謡作曲家、故深堀道義氏は、それから18年、父の人生を考え詰め、自分も75歳の老年に達した2001年に本を書き、あえてこのような見解を世に表した。
父の生前は問題を避けていたが、没後、特攻遺族から「お父さんを絶対に許せない」とののしられ、真剣に向き合うようになった。
深堀氏の妻は「夫は義父を心から敬愛していました」と語る。遺族の怒りは無理もないが、戦後56年たっても尊父の戦争責任を総括しなければならないと決意した司令官の息子の苦渋もまた、いかばかりであっただろう。
第6航空軍は特攻生還者を福岡市の振武(しんぶ)寮に隔離し、参謀が「なぜ死なない」と責め立てた。公刊戦史にも出ていない施設だが、戦後58年過ぎて記録作家、林えいだい氏(80)の執念の取材により、実態が明るみに出た。
寮の管理者は、菅原中将の部下である倉沢清忠少佐。戦後は一橋大を卒業し、勤めた会社の社長に栄達して03年病没した。享年86。
生還者の報復を恐れ、80歳まで実弾入り拳銃を持ち歩き、自宅には軍刀を隠し持っていた。それでも「特攻は志願だった」と言い張り、慰霊祭など特攻の顕彰に熱心だった。
林氏は東京都内の倉沢氏宅を初めは半ば強引に、半年余りで都合4回訪ね、のべ20時間以上のインタビューを敢行した。福岡県・筑豊地方の林氏宅に残る録音テープには、今日流行する特攻賛美のきれい事とは裏腹な、送り出した側の本音があけすけに語られている。
例えば、学徒動員の特別操縦見習士官に比べ少年飛行兵は「12、13歳から軍隊に入っているから洗脳しやすい。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、小遣いをやって国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃう」などと証言している。そんな暴言・放談がたくさん残る。
当初取材を拒んだ倉沢氏は、4度目には自分から林氏を招いて大いに語り、直後に倒れて世を去った。初めて重い荷を下ろしたのか。
誠の哀悼から死者を思い、魂を問い、霊性を聞くのなら、命じた者たちの応答は欠かせまい。今の靖国に、祭られた死者たちと生き残った者たちの対話はあるか。=次回は29日掲載<文・伊藤智永/写真・荒木俊雄>
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