のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

介護の行きつくところは「死化粧」かも

2009年12月06日 05時57分48秒 | Weblog
2,3日前、お袋は、僕を「みゃんみゃん」と呼んでました。

かわいい呼び名でしょ。

「みーこ」と呼ばれたときもあります。

こんな風に、子の介護を受けながら、親が自分の子を自分の子と認識しない

ということがままあるようです。

そしてそれが認知症の親を抱える息子、娘の悩みであったりします。

ただ、僕の場合は、覚えられているのがむしろ恐怖でした。

だってね、「早よ代わり(嫁さん)もらわんとあかんな」

と言われたりするからです。

結婚なんて、縁のものというけれど、

諦めが肝心!

と考える程度には老いたのです。

そういう真実をお袋に伝えることの方が遥かに辛いわけですな。


誤解を恐れず言わしてもらった

「上から目線の方がいいときがある」という

前記事 の補説になりますが、

この視点は、親に甘えてもらう際に役立ちます。

すなわち、親が甘えたいと感じる相手は、

娘や息子であってはいけないのです。

そうでないと、親のプライドを傷つけることになります。

自分の身に当てはめて考えてみて下さい。

子ども相手に甘えにくいでしょ?

違いますか。

認知症というのは、

その意味で、親の側からする自己防衛かもしれないですね。

ただ、子育てと決定的に違うのは、「被養育者である」親が体調を壊したときなど

相手が高齢なだけに、

「乗り越えながら強く成長していくものだ」とは決して思えないことですね。

せいぜいしてあげらるのは見守ってあげること・・・


ところで、見守るのは、何のためにかって?

それは、親の人生そのものを自分の中に受け入れるためです。

子ども時代って、恐らく親を頼りにする経験の集積で成り立っています。

ここまでは、ほとんどの人に異存はないでしょう。

しかし、どっかでその親を恨み、

辛みを抱え込んでしまっている場合があるわけですね。

そんなとき、介護を引き受け続けることは

自分の内部にある、ふさがっていた傷口を押し開く結果にも繋がります。

そして、この痛みは、究極的には、死者になぜ死化粧を施すのかという疑問に

根本のところで結びついて行く気がします。


さて、では死者になぜ、死化粧を施すのでしょう。

考えて見たことあります?


これについて、映画「おくりびと」の原作「納棺夫日記」の著者、

青木新門氏がいいことを言ってます。

「生と死が限りなく近づくか、生者が100%死を受け入れたとき

あらゆるものが輝いて見える一瞬がある」と。

要するに、納棺の仕事は、

生と死との境目をなくすためにあるのだというのです。


どういうことでしょう?

確かに、死者が「生きている・・・!」

と思えるぐらい生気が溌剌としておれば、

送る方の心が癒されます(グリーフケアーの問題)。

また、(思い出の中で)一緒にいやすくなるはずです。

実際、死なれてみれば、結果が顕著に現れると思います。

おどろおどろした顔しか思い出せないのならば、

遺志を継ごうという気になり難いでしょう。


ただ、死化粧のメリットは、

遺族の悲しみを癒し、前向きにするという点に尽きないでしょう。

観点を変え、死に逝く者の立場、

つまり、自分の運命の問題として考えて見ると、どうでしょう。

生と死の境目が見えにくいほど、

死出への旅路のとき、身軽でいられる気がします。

その可能性が1%でもあるなら、

やがて迎えるであろう自身の死を気持ちよく“もてなす”ための

儀式として受け止めていいでしょう。

親の側からしても、

「今まで、ありがとうね♪」

というメッセージを微笑みとともに

他ならぬ我が子に残したいのではないでしょうか。

死化粧は、そういう人間の、

最後の願いに対するお仕えだと思います。

親に対し、憎しみやわだかまりがあったとしても

丁寧な葬送を勧める所以です。

どうしても親を許せないんだとしても、

穏やかに旅立たせてあげてから、じっくり喧嘩すればいい気がします。

と言うか、いい加減な別れ方をすると喧嘩できないです。

負い目が残るからです。


もとより、憎しみにも増して、

親への恐怖感があると、そこまで考える余裕が生じないかもしれませんが、

その場合は、お互いに気の毒というしかないですね。

ロシアの作家、ゴーリキーは、この点に関して、示唆に富む発言をしています。

「ただの一人にもかまわれなくなったとき、人は死ぬ」と。

このとき死ぬのは、親と自分の魂です・・・

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4 コメント

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考え込んで…。 (kacchann)
2009-12-06 12:06:39
忠太さん、何時もいろんな事を考えさせてくださって有難うございます。
「死化粧」の言葉にドキッと反応してしまいました。丁度2ヶ月前に母は旅立ちました。これで良かったのかしら…と色んな事を思い起こしては考え込んでしまう日々を過ごしています。私だけが知っている最後の母の姿を今も誰にも伝える事ができません。確かに、恨み辛みも無かったわけではないのに、死化粧した優しい母の顔が、私の記憶の最後にあります。きっと、これで良かったのですね。今は、そう思いたいです。 何を言っているのか分からないような文で、ごめんなさい。
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☆kacchannさんへ (忠太)
2009-12-06 22:59:55
2ヶ月ほど前、kacchannさんのブログにアクセスできなかったことがありました…

僕は、コメントに何かまずいことを書いたかな、反省すること頻りでした。

ご不幸があったのですね。納得できました。

親子の関係って、難しいですね。”嫌い”のはずだったのに、亡くなられてしまってから、いいことしか思い出さなかったり、と。

今は、空の上からkacchannさんを見守ってくださっていることでしょう。ご自愛くださいませ。
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Unknown (takae)
2009-12-09 16:49:40
初めまして。
足跡を残してくださったので・・・
こちらに来ました。

私もこのような経験をしたり
間近に見た事が、あります。

私の仕事は床屋で、私の両親共に
病院の訪問理髪をしていました。

ご家族からのご依頼で、亡くなった男性方の散髪と顔を剃った事がありました。

すぐに、散髪と顔剃りの同時進行
とまりました。
体温が温かいうちにしなければ、皮膚が、固まってしまうからです。
綺麗になった姿になりご家族の方は、涙をだしてお礼を言われました。
全くの知らない方でしす、お見送りの支度のお手伝いを出来た事に良かったと思う事もありました。

「人はこの世に生まれ死に向かって歩き続ける
またその方によって幸せな人生を歩んだ証ですよ。」とお坊さんに、言われたことがある。

介護も同じだと思う。
時には禁句言葉を言ってしまうけど、
今、この時に自分が、したい事 思った事を
してあければいいと思う。

私は、姑さんなにもしてあげられなかった。
たった1とつ最後に冷たくなったお顔剃りをして小姑さんにお化粧をしてもらった事が、私にとって最初で最後だったから・・・。

長いコメントになってしまい、
ごめんなさい。
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☆takaeさんへ (忠太)
2009-12-09 23:27:54
貴重な体験談をお聞かせ下さいまして、ありがとうございます。takaeさんのコメントを読み、力をもらった感じがします。

介護の理論に溺れて、介護の心を忘れるようなことになっては何にもなりません。「今、この時に自分がしたい事、思った事をしてあければいい」という、ある種、本能のような素朴な感覚を大切にしたいですね。
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