朝青龍が引退声明を発表してから何日も経ちました。
というわけで、ニュースが生モノとすれば、これは腐りかけのニュースです。
ただ、ことが日本の国技に関することだけに、お許し願います。
先ほど、新聞を読んでいましたら、
野坂昭如氏が毎日新聞2月13日付朝刊紙上「七転び八起き」というエッセイで、
大相撲を取り上げられてました
(以下、文脈を無視した引用ですので、
氏の考えに必ずしも沿うものではありません。
それを念頭に置いた上でお読みください)。
彼によると「相撲は元々日常の中で型破りなもの」です。
それでも「世間と相撲はつながっていた」時代はありました。
型破りなものが許されたのは、相撲=神事だったからです。
しかるに今や、大相撲の時代。
「ラジオ、テレビは神事を受け入れない」という厳然たる壁に突き当たります。
野坂氏が言いたかったのは、
このような壁を前にして、
もはや「型破りなもの」が通じなくなったということでしょうか。
もしそうなら、これは卓見だな、と思いました。
朝青龍は、「型破りなもの」を、言葉本来の意味で信じ、実行した人だと
僕には感じられたからです。
もちろん、一般人を殴っていいということにはなりません。
ただ、どういう経緯で暴力をふるったのか
という詳しい説明がマスコミ等には見当たりませんでした。
警察の捜査があったというだけで横綱を裁かず、
起訴の見通しが立つまでは
相撲協会としては判断を保留すべきではなかったのか、
また、それを許すファン層があってよかったのではないかと思い、残念です。
日本人の中で一体、何人の人が
力士が土俵に上がる前、口をすすぎ、塩をまく仕来たりの意味を、
知っているでしょうか。
四股を踏む所作が表すものは、何なのでしょうか。
また、続く迫(せ)り上がりについてはどうでしょう?
などなど、こうした質問攻めを行った場合、
何人の人が詰まらずに答えられるでしょうか。
ほとんどの人は、
真には分からなくなっているのではないでしょうか。
マスコミはこぞって、従来から
相撲協会の「旧態依然とした体質」に怒りをぶつけていたのではなかったでしょうか。
しかし、朝青竜の品性が問題になるに及んで、
彼の「型破り」を「旧態依然とした体質」からの脱皮として歓迎するのでなく、
「国技」の名の下に「切り捨てごめん」一色になりました。
彼が取った行動で、問題になったケースは、僕の知る限り、次の二つです。
一つは、
巡業に参加しない中でのモンゴルでのサッカーの試合への参加でした。
しかし、これは、相撲をとらせば
「神の子」になる自信があったればこその行動とも言えます。
土俵を下りれば、普通の人なのです。
普通の人が休日にサッカーに打ち興じただけ、
という気持ちが彼の意識の中にあったのではないでしょうか。
二つ目。
マスコミでよく取り上げられていたことに
彼の「ガッツポーズ」があります。
しかし、「ガッツポーズ」なる言葉は、和製英語です。
そんなことも知らないで、
ガッツポーズをやりたがるのは外人さんという決めつけをしていないでしょうか。
この単語、1973年、中山律子さんなどのプロボーラーを取材していた雑誌が
「あなたのガッツポーズは?」と特集したのが初出だそうです
(後出・梅花女子大学教授、米川 明彦氏の指摘による)。
「あなたの」としている点から見ても、この時点では、
「ガッツポーズ」に否定的な意味は含まれていなかったようです。
もちろん、国技だから、許されないんだという議論に反駁するには、
こんな言葉の由来ばかりでは説得力に欠けますかね。
外国のスポーツ事情に対する無理解も一因として挙げるべきかもしれません。
諸外国では、ガッツポーズに該る行為の、
してよいか悪いかの判断は、
基本的には選手に任されていると言っていいのでしょう。
ただし、全く無条件に判断が委ねられているわけのものでもなさそうです。
たとえば、ベースボール。
不文律(Unwritten Rule) として、
ガッツポーズだけでなく、もっと広く類似行為が禁止される場合があります。
どんな場合かというと、6回以降、5点以上先取している場合などです。
力の差が歴然とする中でバント、盗塁などを得意げにすることは、
「遊んでやってるよ」宣言です。一種のガッツポーズと言っていいわけです。
このような挙に出ることは、選手に許されていません。
不文律に反するっということになります。
ただ、同様の状況下であっても、ホームランは、別格扱いです。
打てたなら、普通に歩いて一周回れます。(→メジャーリーグの不文律)
思うに、朝青龍のこれ見よがしの「ガッツポーズ」がなされた状況は、
後者のホームランを打った場面に比肩しうるのでしょうか。
獅子は、全力で兎を倒すと言いますよね。
・・・そういうことなんでしょうか。
だったら、勝ったからと言って、これ見よがしのガッツポーズは感心しません。
しかし、実際のところは、競り勝ちだったのではないでしょうか。
だから勝った喜びが素直に表情に出ただけではないのか・・・
という思いが未だ僕には消えやらないです。
「日本人は、改まった場で、ガッツポーズのような下品なことをしない!」
と信じ込んでおられ方が何人もいらっしゃるようです。
しかし、皮肉にもそういう方が大相撲を
「国技館だって、格闘技専門のの貸し小屋と化してしまう」(野坂発言)
道具にするのではないでしょうか。
なぜガッツポーズがいけないのか、禁止の理由を教えるのが大切です。
責めるなら、きちんと説明すべきです、。
説明しきれないのは、道義に叶っていないからではないでしょうか。
反省の必要は、相撲を愛する全ての人にあるような気がします。
僕は、ガッツポーズという語の由来を調べていて、
梅花女子大学教授、米川 明彦氏の解説に突き当たりました。
米川氏の御専門は、言語学です。
取り上げておられるテーマは、手話と俗語と聖書研究です。
今まで言語学において、俗語と手話は、無視されてきました。
ガッツポーズというような和製英語は、
典型的な俗語ですから、当然、分析されるようなことはありませんでした。
それ等に光を当てようとなさっているわけです。
さて、この俗語と手話の二つと、聖書研究がどう結びつくのでしょう。
それは、「十字架の言葉」を介して纏(まとま)るようです。(→学び舎)
口はばったいですが、一応の説明をします。
「十字架の言葉」とは、
「聖」の側から「俗」への愚かな転落の象徴なのです。
だから、言語学者としての米川氏は、手話と俗語を、自らの「転落」の証として
研究の守備範囲に取りこまれたということになるのでしょうか。
それはともかく、全般にキリスト教徒は、そのように
「転落」にこそ奇跡を見、許しを感じるということが言えるのかもしれないです。
思うに、仏教の世界でも、同じような志向が存在します。
仏教の難しい教えの核にある、
悟ってなお、
地獄の住人たりうるか、と問う命題がそれです。
一念三千の法門と呼ばれております。
観世音菩薩信仰が日本で広く流布するのは、
空間・時間を超えて、
降り下る親しさゆえでしょう。
変幻自在の姿で語りかけようとする
それは、しえたげに頼る者の機根に応じようとしてする、
菩薩の転落そのものと考えてよいと思います。
さて、大相撲に話を戻します。
大相撲という舞台の上で、
外国人力士に作法を学びとってもらおうとすれば、
伝承に力を入れざるを得ません。
しかし、真に伝えようとすれば、相手の土俵に出向かないといけません。
つまり、愚かな転落の必要があります。
神事としてなされるゲームに勝って狂喜乱舞したからと言って、
切り捨ててよいという理屈はどこにもありません。
もちろん、朝青龍の引退宣言した事実はもう覆らせることは不可能でしょう。
ただ、相撲が、神事であった太古にさかのぼって考えても
日頃、顰蹙(ひんしゅく)を買っていた彼の行動のすべてにつき
果たして頭ごなしに非難し得るほどの理由があるのか、はなはだ疑問です。
もう一度、考えてみて欲しいです、
相撲の魂を失っていたのは自分達ではなかったか、と――。
というわけで、ニュースが生モノとすれば、これは腐りかけのニュースです。
ただ、ことが日本の国技に関することだけに、お許し願います。
先ほど、新聞を読んでいましたら、
野坂昭如氏が毎日新聞2月13日付朝刊紙上「七転び八起き」というエッセイで、
大相撲を取り上げられてました
(以下、文脈を無視した引用ですので、
氏の考えに必ずしも沿うものではありません。
それを念頭に置いた上でお読みください)。
彼によると「相撲は元々日常の中で型破りなもの」です。
それでも「世間と相撲はつながっていた」時代はありました。
型破りなものが許されたのは、相撲=神事だったからです。
しかるに今や、大相撲の時代。
「ラジオ、テレビは神事を受け入れない」という厳然たる壁に突き当たります。
野坂氏が言いたかったのは、
このような壁を前にして、
もはや「型破りなもの」が通じなくなったということでしょうか。
もしそうなら、これは卓見だな、と思いました。
朝青龍は、「型破りなもの」を、言葉本来の意味で信じ、実行した人だと
僕には感じられたからです。
もちろん、一般人を殴っていいということにはなりません。
ただ、どういう経緯で暴力をふるったのか
という詳しい説明がマスコミ等には見当たりませんでした。
警察の捜査があったというだけで横綱を裁かず、
起訴の見通しが立つまでは
相撲協会としては判断を保留すべきではなかったのか、
また、それを許すファン層があってよかったのではないかと思い、残念です。
日本人の中で一体、何人の人が
力士が土俵に上がる前、口をすすぎ、塩をまく仕来たりの意味を、
知っているでしょうか。
四股を踏む所作が表すものは、何なのでしょうか。
また、続く迫(せ)り上がりについてはどうでしょう?
などなど、こうした質問攻めを行った場合、
何人の人が詰まらずに答えられるでしょうか。
ほとんどの人は、
真には分からなくなっているのではないでしょうか。
マスコミはこぞって、従来から
相撲協会の「旧態依然とした体質」に怒りをぶつけていたのではなかったでしょうか。
しかし、朝青竜の品性が問題になるに及んで、
彼の「型破り」を「旧態依然とした体質」からの脱皮として歓迎するのでなく、
「国技」の名の下に「切り捨てごめん」一色になりました。
彼が取った行動で、問題になったケースは、僕の知る限り、次の二つです。
一つは、
巡業に参加しない中でのモンゴルでのサッカーの試合への参加でした。
しかし、これは、相撲をとらせば
「神の子」になる自信があったればこその行動とも言えます。
土俵を下りれば、普通の人なのです。
普通の人が休日にサッカーに打ち興じただけ、
という気持ちが彼の意識の中にあったのではないでしょうか。
二つ目。
マスコミでよく取り上げられていたことに
彼の「ガッツポーズ」があります。
しかし、「ガッツポーズ」なる言葉は、和製英語です。
そんなことも知らないで、
ガッツポーズをやりたがるのは外人さんという決めつけをしていないでしょうか。
この単語、1973年、中山律子さんなどのプロボーラーを取材していた雑誌が
「あなたのガッツポーズは?」と特集したのが初出だそうです
(後出・梅花女子大学教授、米川 明彦氏の指摘による)。
「あなたの」としている点から見ても、この時点では、
「ガッツポーズ」に否定的な意味は含まれていなかったようです。
もちろん、国技だから、許されないんだという議論に反駁するには、
こんな言葉の由来ばかりでは説得力に欠けますかね。
外国のスポーツ事情に対する無理解も一因として挙げるべきかもしれません。
諸外国では、ガッツポーズに該る行為の、
してよいか悪いかの判断は、
基本的には選手に任されていると言っていいのでしょう。
ただし、全く無条件に判断が委ねられているわけのものでもなさそうです。
たとえば、ベースボール。
不文律(Unwritten Rule) として、
ガッツポーズだけでなく、もっと広く類似行為が禁止される場合があります。
どんな場合かというと、6回以降、5点以上先取している場合などです。
力の差が歴然とする中でバント、盗塁などを得意げにすることは、
「遊んでやってるよ」宣言です。一種のガッツポーズと言っていいわけです。
このような挙に出ることは、選手に許されていません。
不文律に反するっということになります。
ただ、同様の状況下であっても、ホームランは、別格扱いです。
打てたなら、普通に歩いて一周回れます。(→メジャーリーグの不文律)
思うに、朝青龍のこれ見よがしの「ガッツポーズ」がなされた状況は、
後者のホームランを打った場面に比肩しうるのでしょうか。
獅子は、全力で兎を倒すと言いますよね。
・・・そういうことなんでしょうか。
だったら、勝ったからと言って、これ見よがしのガッツポーズは感心しません。
しかし、実際のところは、競り勝ちだったのではないでしょうか。
だから勝った喜びが素直に表情に出ただけではないのか・・・
という思いが未だ僕には消えやらないです。
「日本人は、改まった場で、ガッツポーズのような下品なことをしない!」
と信じ込んでおられ方が何人もいらっしゃるようです。
しかし、皮肉にもそういう方が大相撲を
「国技館だって、格闘技専門のの貸し小屋と化してしまう」(野坂発言)
道具にするのではないでしょうか。
なぜガッツポーズがいけないのか、禁止の理由を教えるのが大切です。
責めるなら、きちんと説明すべきです、。
説明しきれないのは、道義に叶っていないからではないでしょうか。
反省の必要は、相撲を愛する全ての人にあるような気がします。
僕は、ガッツポーズという語の由来を調べていて、
梅花女子大学教授、米川 明彦氏の解説に突き当たりました。
米川氏の御専門は、言語学です。
取り上げておられるテーマは、手話と俗語と聖書研究です。
今まで言語学において、俗語と手話は、無視されてきました。
ガッツポーズというような和製英語は、
典型的な俗語ですから、当然、分析されるようなことはありませんでした。
それ等に光を当てようとなさっているわけです。
さて、この俗語と手話の二つと、聖書研究がどう結びつくのでしょう。
それは、「十字架の言葉」を介して纏(まとま)るようです。(→学び舎)
口はばったいですが、一応の説明をします。
「十字架の言葉」とは、
「聖」の側から「俗」への愚かな転落の象徴なのです。
だから、言語学者としての米川氏は、手話と俗語を、自らの「転落」の証として
研究の守備範囲に取りこまれたということになるのでしょうか。
それはともかく、全般にキリスト教徒は、そのように
「転落」にこそ奇跡を見、許しを感じるということが言えるのかもしれないです。
思うに、仏教の世界でも、同じような志向が存在します。
仏教の難しい教えの核にある、
悟ってなお、
地獄の住人たりうるか、と問う命題がそれです。
一念三千の法門と呼ばれております。
観世音菩薩信仰が日本で広く流布するのは、
空間・時間を超えて、
降り下る親しさゆえでしょう。
変幻自在の姿で語りかけようとする
それは、しえたげに頼る者の機根に応じようとしてする、
菩薩の転落そのものと考えてよいと思います。
さて、大相撲に話を戻します。
大相撲という舞台の上で、
外国人力士に作法を学びとってもらおうとすれば、
伝承に力を入れざるを得ません。
しかし、真に伝えようとすれば、相手の土俵に出向かないといけません。
つまり、愚かな転落の必要があります。
神事としてなされるゲームに勝って狂喜乱舞したからと言って、
切り捨ててよいという理屈はどこにもありません。
もちろん、朝青龍の引退宣言した事実はもう覆らせることは不可能でしょう。
ただ、相撲が、神事であった太古にさかのぼって考えても
日頃、顰蹙(ひんしゅく)を買っていた彼の行動のすべてにつき
果たして頭ごなしに非難し得るほどの理由があるのか、はなはだ疑問です。
もう一度、考えてみて欲しいです、
相撲の魂を失っていたのは自分達ではなかったか、と――。
殴った理由になった事情のほうを、揉み消したかったのかも、と邪推してました。
彼は、悪役ですから、いかにも証拠隠滅を図りそうですものね。
しかし、殴られた方の「一般人」って、どんな人でしょう。全くもって不明でしょう。
普通の人なら、横綱にもし本気ではり倒されていたら、あごの骨が砕かれるとかね、ただでは済んでないはずです。。。
横綱だって、自分の置かれている立場を知らなかったわけではないと思うのです。
罠に嵌められたと言えば、穿ち過ぎかもしれませんが可能性として否定できない気がします。