のんきに介護

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長崎市の永田良幸さん(85)が被爆体験を語る 「母に水を飲ませてあげればよかった……」

2018年08月10日 07時03分07秒 | 原爆
清水 潔@NOSUKE0607さんのツイート。

――助かった人も、長く苦しみを背負って生きてきた。長崎原爆の日。

「水を飲むと死ぬ」と聞いていた母は、一滴も水を口にせずに14日に息を引き取った。「死ぬとわかっていたなら、母に水を飲ませてあげればよかった……」〔9:43 - 2018年8月9日 〕――


〔資料〕

「<長崎原爆の日>母の死に後悔 85歳が初めて残す被爆体験」

   毎日新聞(8/9(木) 6:00配信 )

☆ 記事URL:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180809-00000005-mai-soci

 長崎への原爆投下から9日で73年。戦争の悲惨さを伝えてきた被爆者運動のリーダーたちも相次いで鬼籍に入り、被爆地では記憶の継承が課題になっている。そうした中、長崎市の永田良幸さん(85)が今年、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(長崎市)の職員から聞き取ってもらう形で、自身の被爆体験を初めて記録として残した。【浅野孝仁】


 被爆した母に水を飲ませてあげられないまま亡くした後悔から、これまでほとんど体験を語ってこなかった永田さんは「母への感謝と戦争はいけないという思いを表すことができて気持ちが少し楽になった」と語る。

 1945年8月9日午前、淵国民学校高等科1年で12歳だった永田さんは、出征した兄2人を除く家族10人で暮らす長崎市城山の自宅2階にいた。庭では母つきのさんが洗濯し、妹久美子さんが遊ぶ姿も見えた。幼いいとこをおんぶしていた永田さんが「学校に行くけん」と声をかけた時、午前11時2分が来た。

 自宅は爆心地から約500メートル。ピカッという光に包まれた後、ごう音と爆風に襲われた。倒壊した自宅の下敷きになっていたが、左手にやけどを負うなどしただけで背中のいとこも無事だった。自力ではい出て近くの防空壕(ごう)に逃げ込むと、即死した久美子さんを抱いた母がいた。

 母は顔がただれ、胸は腫れ上がって真っ赤。頭にけがをした弟正徳さんも連れて12日に長崎医大付属病院に行ったが、正徳さんは13日に亡くなった。「正徳は大丈夫か」と虫の息で尋ねる母に、「外で遊んでいる」とうそをつくのが精いっぱいだった。

 「水を飲むと死ぬ」と聞いていた母は、一滴も水を口にせずに14日に息を引き取った。「死ぬとわかっていたなら、母に水を飲ませてあげればよかった……」

 父徳一さんも戦後すぐに亡くなり、永田さんは復員した兄らの支えを受けて、バスの運転手などで生計を立てた。今年6月、「あの日」から73年を前に初めて被爆体験の聞き取りに応じ、「親があって自分がいる」という感謝の思いを込めた。

 原爆では爆心地近くに勤めに出ていた姉富美子さんも犠牲となり、永田さんは母ときょうだいの計4人を失った。平和のありがたさをかみしめる今、願う。「戦争になれば女性や子どもが真っ先に犠牲になる。絶対に戦争は駄目だ。若い人には親を大事にしてもらい、二度と戦争のない世の中が続いてほしい」

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