――児童生徒の自殺の状況について、二〇一〇年度、内閣府、警察庁の調査結果では、二百八十七名になっている。これに対し同年度の文科省の調査では、百五十六名。大きな数字の違いがある。可笑しくないか。
一つ、お答えいたします。この数字は、全くのうそです。
どういうことか。日本の自殺統計のとり方に根本的な問題がある。これはかつて内閣府にも指摘をしました。
日本の自殺統計というのは、御遺体で見つかった場合には、法務省の嘱託医がその主たる死因を自殺と書いたもの、病院または家庭で亡くなった場合には、最後にその死亡状況を判断した医師が死亡診断書に自殺と書いたものです。
実は、僕は、今から八年半前から、二十四時間体制の相談事務所、水谷青少年問題研究所を設立して、六名のスタッフが、一日二十四時間、一年三百六十五日、電話とメールに向き合っております。電話については相談は数え切れず、メールは記録が残っております。けさの段階で、六十九万七千二百件、かかわった子どもの数は二十四万三千二百人に昨夜達しました。その中で、残念ながら亡くなった子、百十二名ほどおります。
でも、その子たち、例えば薬をいっぱい飲んで亡くなった子、オーバードーズというんですが、これは中毒死と書かれております。また、首をつって死んだのではない限り、リストカットで死んだケースは事故死と書かれています。亡くなった遺族のことを考慮して、なかなか医師というのは自殺と若い子の場合書けません。その数値が全く統計的に抜けております。 ですから、それがない限り、この自殺統計そのものが全く意味がない。例えば、日本国において二万三千を超える方々が亡くなっている。これ自体も全く意味のない統計だと私は考えます。
以上です。
――どういうアンケートが重要で、どういうアンケートをすべきか。
実は、教育の現場におりまして、我が国の子どもたちが画期的にひどい状況に変わっていったのは、一九九一年秋以降です。
実は、このアンケートは、もう二十年ほど前、一九八〇年代から見ていただくと明確にわかるんですが、ある報道でも僕はお話ししました。事件が起きます、いじめで亡くなった今回のような事件が起きると、その直後に大きな数の報告がなされる。これは、全国的に、もう隠せない、一生懸命報告するからです。それが、どんどん少なくなっていく。学校もなれてしまい、いいかげんにしか対応しなくなるから。そういうふうな形でこういうむらができていると思います。
ただ、先ほど僕の最初のお話の中でも申しましたが、いじめのアンケートを学校がとること自体の中に問題があるのではないか。果たして、学校が客観的なアンケート調査を行うことができるのか。できれば他機関が介入をしながら、実は、いじめが発生するということは、その学校自体、教員自体に問題があるということですから、そこも変えなきゃならないという意味では、内輪の調査ではなくて外部機関へ、特に、法務省人権擁護局傘下の人権擁護委員を使いながら、全国各地におるわけですから、対応ができればと私は考えております。
以上です。
――時代とともに子どもたちがどのように変わってきたか。
九一年秋は、御存じのとおりバブル経済が崩壊した。それ以後、我が国は、二十年以上にわたる長期の不景気、いわゆる不況の中におります。その中で、会社では親が怒られ、叱られ、夢も見れず、給料は下がり、それが家庭の中で妻や子どもにぶつかっていく。母親のいらいらも子どもにぶつかっていき、また、教育環境の中でも、教員が、管理体制が強化される中で本当に身動きができなくなっていった。そのいらいらが、一番弱い子どもたちのもとにどんどん集約されています。
それが端的に、一つのあらわれとしては、そのいらいらを大事な仲間にぶつけるいじめとしてあらわれたり、あるいは、心を閉ざして不登校あるいはひきこもりというふうに結びついていったり、あるいは元気のいい子は非行、犯罪、薬物乱用へと行ったり、あるいは心の病へと行ったりしていると考えております。
あるテレビ番組で、水谷先生、どうやったらいじめはなくなりますかと。この国が、先生方が頑張って、本当にあすを夢見る景気のいい国になったらなくなるでしょう、私はそれを答えるしかないような気がします。
また、その一方で、いわゆる電子機器の普及、特にゲームやテレビ、テレビゲームやインターネットの普及によって、人と人とが、今質問してくださった議員さんが子どものころ、僕の子どものころのように、本当に生で接して、けんかしてけがさせたらごめんねと謝りに行ったりとか、本当のノーマルなコミュニケーションがとれない子どもたちがふえてきています。
ゲームをやったりインターネットの世界に入っても、都合が悪ければ切ればいいわけですから、決して心は強くならない。その意味で、子どもたちがどんどん弱くなっていったこともその一因だと考えております。
――外から見えないことをいいことに、教育という名のもとで、非常識なことが行われていないか。
実は、私は仕事柄、全国各地の少年院や鑑別所、あるいは少年刑務所等を講演で回っております。
実は、教育の現場では、非常に大きな誤解を持っている先生方が、文科省の方々を含めて多い。いわゆる法務省の管轄に自分たちの管轄の生徒児童を渡してしまうことは、何か自分たちの汚点になるんじゃないか、それは処罰であって、何かふさわしくないのではないかと。
ところが、法務省傘下には法務教官というちゃんとした教員がいて、しかも日本の少年法の中で、少年は罰するものではなく、次の国民として立派に自立することができるように矯正をするんだ、いわゆる少年刑務所を除いた少年院等の機関というのは矯正機関である、その事実をもう少しつかんで、自分たちができないことに関して、特に犯罪を犯した子どもについては、彼らの力をかりてきちっと矯正をしていただく、そういう努力が必要だと考えております。
――いじめは、少年少女にとって通過儀礼なのか。社会の責任によって、いじめの事案がふえたり減ったりするのか。
実は、先ほども申しましたとおり、いじめには私は二通りあると考えています。例えば、無視、シカトとか、あるいは悪口を言う、これは我々教員が絶対に防がなきゃならないし、やった場合には間に立ってやらなきゃいけない。
この種のいじめというのは実は魚の世界でもあると、さかなクンがこの間お話ししたときに言っていました。狭い生けすの中にたくさんの魚を入れると、魚もつつき合いをやったりかんだり、いじめをするそうです。だから、環境的な要因が非常に多くて、家庭の中がいらいらしていたり、学校の中が本当に受験受験で追い込まれてくれば、そういうものが出てきます。
ただ、今回の大津のようなケースは、むしろ僕は、いじめと呼ばない方がいいんじゃないか、犯罪と呼ぶべきじゃないかと。このケースに関しては、どんな状況であれ、あってはいけないことだし、それは防がなきゃいけない。いわゆる四十人学級だからこんなふうになった、二十人学級だったらそうならなかったろうという次元ではないし、むしろ社会全体の、先ほども言いましたが、一九九一年以降のこの国の経済状況あるいは社会状況の閉塞感、それがいろいろな意味で大きな影響を与えていると考えています。
ただ、いずれにしても、いい生徒指導の教員は、僕は生徒指導を二十二年やりました、きちっといじめはわかります。いじめを予防するようにきちっと動ける。
ただ、そういう教員の質自体も、ずっと何年も何年も現場を見ていまして、下がってきていることも原因の一つとしてあると思います。
――先生の長年の御経験から、指導のコツのようなものを教えていただきたい。
実は、教員というのは全てが優秀な教員では困るんです。よく生徒に言われました、うちの学校の先生が全部水谷先生だったら、息が詰まって俺はこの学校に来ないと。本当に向き不向きがある。僕には向かない生徒もいれば、僕しかできない生徒もいる。いろいろな先生がいていいと思うんですね。
ただ、質問内容からずれるかもしれませんが、日本の教育がどうしてこんなにだめになったのか。教員の不祥事も続いております。その根幹にあるのは、先ほども亀田さんがおっしゃいましたが、教育は、もともと、信頼からしか成り立たない。でも、この国の教育に、今、信頼はありません。文部科学省は全く教育委員会を信じず、教育委員会は学校を信じず、校長は教員を信じず、親も教員を信じず。
信頼されている人間は、その信頼を裏切らないように、きちっと自己に責任を持ってやる。我々、教員のときには、親から、生徒から信頼されているからこそ、日々の生活を正して、きちっとした形で模範になるように動いていった。
僕は、むしろ逆で、研修をこうしろとか、もっと管理をしろというよりも、現場の教員で、熱い、立派な教員はたくさんいます。日本人で、七割が真っ当な人で、問題を超こす人が一割いるという比率がもし仮にあったら、教員も全く同じわけです。立派な教員はたくさんいる。もう一回信じてあげてほしいと思います。
信じる、信じられた人間というのは強い。それこそ、汗を流して、自分の勤務時間を超えて、子どもたちのために生きていきます。ぜひ文科省に、もっと教員を信じろと御指導ください。お願いいたします。
――学校ガードマンみたく、常に、何かあったときに対応できる警察とのホットラインがあるべきか。
実は私は、今の前の盧武鉉大統領傘下のときに、青瓦台で、韓国の青少年問題の特別審議会の委員をやらせていただきました。
あのときには、実は一九九〇年代の後半から韓国では、イルジンフェ、一陣会、これは日本の漫画から始まったようですが、暴力組織が小中高を覆い尽くしていました。数十万と言われました。小学校五年生から大体十日間に百円、高校三年になれば千円以上の上納金を納める。それを告発しようとした生徒指導の教員が家族全員皆殺しにされた、あるいは告発しようとした女子生徒が輪姦をされた。
そういう事案も出てどうするかというときに韓国がとった方策は、レッドベレーといいまして、退職した軍人たちを、赤いベレー帽で、軍装です、銃は持っておりません、それを各学校に二名ずつ、小学校等は一名ですが、配置をした。それで画期的にそれが改善されたという成果が出ております。
ただ、我が国は、そこまでいってはいないだろうと思いますし、それ以上に、例えば人権の問題として、もっとやわらかく捉えながら対処できる状況だと私はまだ判断しております。
――ネット中毒対策は必要か。
実は、僕は学校で大体年間二百本ぐらいの講演を、中高を軸にやります。子どもたちに聞くんですね、君たち、携帯電話、メール、インターネット、ゲーム機がなかったら今より成績が上がっていると思う児童生徒、手を挙げなさい。八割以上の子が手を挙げます。ああいうものがあることによって自分の未来をだめにして、成績を下げているという事実は子ども自体がつかんでいる。でも、結局は、楽しいからやめないし、親たちは与えてしまう。何らかの規制はぜひしていただきたいと思います。 少なくても、携帯電話、メール、インターネット、ゲーム機がなければ、いじめも大半減ってきますし、不登校、ひきこもりも退屈でいられなくなる。何より、成績が上がります。何も土曜授業や七時間授業をやるより、あちらの方を規制した方が、よっぽどこの国の子どもたちの成績は上がると判断しております。
あと、もう一点だけつけ加えさせてください。余りにも今のネットの状況はひど過ぎる。
例えば、我が国にはPL法というすばらしい法律があって、いわゆる商品については、欠陥があったりいろいろな問題があれば、確実にそれを出した企業が責任を問われる。でも、ネットに関しては、どんな悪意ある情報やうそを流しても、全く責任が問われていない。
やはり、その意味でも、ぜひ議員の皆さん方には、PL法をもう少し拡大して、表現の部分、ネットの部分、ゲームの部分まで含むような、いわゆる製造物責任の方に、あるいは制作者責任の方に進めていただければ、この国の子どもたちはさらに救われると考えております。
――中野富士見中学で、いじめ自殺事件があった。一九九一年の三月、東京地裁の判決が出た。それによると、葬式ごっこはいじめではなく、むしろ一つのエピソードと見るべきで、自殺と直結させて考えるべきではないという、全く驚くべきものだった。この裁判例をどう見るか。
実は、人権侵害項目にいじめがつけ加えられたのは、申しわけありません、きょう資料を持ってきていませんが、わずか三、四年ぐらい前だったと思います。いじめの前に人権侵害に入れられたのが虐待ですから、非常に新しい。
中野の富士見中の時期には、そういう人権侵害というものといじめとの関係は全く意識されていなかった。でも、今の目で見れば、あの事件は僕も教員でしたから知っておりますが、ひどい事件であるし、完璧な人権侵害、それどころか、刑事告訴すらできるものだと考えております。
――いじめの根絶のために何が今必要なのか、そして、我々に要望されることがあるか。
逃げるということ自体は絶対的に必要なことだし、学校においても、いじめられている子どもをその状況から一回逃がしてあげて、それで解決を図るという意味で、逃げるということは絶対必要なんです。ただ、逃げたままではだめだということを私は先ほど述べたので、必ず決着をつけておかないと、そのとき心の中についた傷を一生引きずってしまうことになる。
私自身が二十四万二千人以上の子どもたちを相談で抱えておりますが、そのうちの八割というのは、何らかいじめ等により心に傷を持って、二十代になって引きこもっている、主に女の子たちが多いんですね。いじめがあった、なかったは、もう今さら、本当にそうだったのかを問うことはできませんが、本当に大きな傷の中で、精神科医療を受け、投薬を受け、社会参画もできないままに、生活保護を受けたり、働くこともできない、そういう現状を防ぐためには、いじめ事案が出たときには、逃げてもいいけれども闘ってきちっと決着をつけておきましょうということで発言をいたしました。
あと、いじめをなくすことは、実は、完璧ではないけれども、九九%、そんなに難しいことではありません。
先ほど私が言ったとおり、早急に、今、学校にはあいている教室が小中高たくさんあります。子どもの数が減っております。そこに、今、人権擁護委員、一万四千人ですけれども、全ての市町村におります。全ての学校の学区に複数で配置されておる。これを、例えば保護司の五万人ほど増員しろとは言いませんが、増員し、若い方も組み込んだ上で、事務所を学校の中につくる。
そして、そこで定期的に子どもたちに対して、学校は関与しないままに、いじめの調査、見たことがあるか、聞いたことがあるか、あった場合には速やかに学校当局、教育委員会、事案によっては警察、家庭裁判所等と連絡をとりながら丁寧に丁寧に対応していけば、いじめは一瞬にして、さっき馳先生がポリスマンじゃないけれどもそういう警護の可能性もとおっしゃったけれども、そこまでいかなくても、今の日本の現状ではそこで十分にとめ切れると私は判断しております。
――夜回り先生を始めたころと今を比べて違う点があるだろうか。
私が夜回り先生と呼ばれたのは、横浜市立港高校、今から二十一年前に赴任した高校が、生徒数八百名の全国最大の定時制夜間高校でした。口の悪い横浜市民が、横浜市立暴力団養成所と呼んだ学校です。
入ってきた子たちの半数近くが学校をやめていき、夜の世界に沈んでいく。横浜の山手警察から、おたくの生徒を銃刀法違反でとった、来てくれ。刃渡り何センチだ、いや、中国製のトカレフ、チャカ、実弾つき。関東一都六県で三千万円の泥棒をやった生徒もいます。殺人事件以外の全ての事件を預かった。その学校に勤務したときから、夜回り先生と呼ばれるようになりました。
でも、あの時代の子どもたちは、力があった。自分は勉強はできない、社会からも疎外されたけれども、それを力ではね返してという、その力が、生きる力がありました。彼らが集団で組織したのが、もう今は壊滅状況の暴走族。彼らは、一人で勝てませんから、集団をつくって大人や社会に対峙してきた。
この二十一年、夜回りを続けてきて非常に感じるのは、その子どもたちの生きる力がどんどん奪われてきています。実は、もう暴れることもできず、暗い部屋で、ネットにはまりながら、リストカットを繰り返したり、死に向かっていく。 今、例えばリストカッターというのは、二〇〇〇年以降、大体百万人を超えたと言われています。十代後半から二十代前半の世代人口の七%以上です。しかも、猛烈な勢いでふえていっています。リストカッターのいない中学、高校は、日本には存在しません。それ以上に、学校レベルからクラスレベル、クラス複数レベルへと猛烈な勢いでふえていっています。
だから、非常に内面的な傾向が強くなってしまっています。ですから非常に難しい。外で暴れてくれる分には警察も関与できる、夜回り先生も会えるんですが、暗い部屋で苦しんでいる子には、それでは会えない。 また、その理由については今説明する場ではないですけれども、このような形で子どもたちの生きる力が損なわれてきているという事実だけは、お伝えをいたしたいと思います。
――いじめの本質とは何か、また、それに対してどのように対応すべきか。
実は、いじめている子にも、いじめられている子にも、共通している特質があります。それは、自己肯定感のなさ。もっと単純に言えば、自信がない。自信のある子は、いじめません。自信のある子は、いじめられても親や先生に伝えることもできるし、助けを求めることができます。その自己肯定感のなさというものが、いじめている子、いじめられている子、ともに私が現職で扱ったケースでは共通している特質です。
実際に、今、実は私、学校を回りますけれども、子どもたちに、家で親から褒められた数、叱られた数、どっちが多いと聞きますと、まず九九%、叱られた数。子どもたちに、はい、君たち、この学校で、先生から褒められた数、叱られた数、どちらが多い。九九%、中高では叱られた数です。
人は、評価をされず、叱られてばかりいたら、結局は、自分はだめな人間なんだ、いらいらする、あるいは負け犬的に弱くなる。そこに、いじめが発生する大きな要因があると私は考えています。 私が夜間定時制高校に行ったとき、実は四年間、いじめが一件も起きなかったという奇跡的なことがあります。このとき、どういうふうに我々教員が動いたのか。
我々は、もう社会からいじめられている、夜間定時制高校は、真っ当に教員の配当ももらえず、お金もろくにもらえず、就職の面でも一部の企業に差別されて、ただでさえ差別されていじめられている我々の社会でいじめがあったらどうするんだと言ったら、変に生徒たちが納得をしていました。
でも、それだけではなくて、我々教員が、ともかく一人一人の子どもたちのいいところを認めるんです。おまえは、確かに数学はだめだけれども、ここはすごいよ。認められることの中で自己発現をしていって、そこから自己肯定感に結びついた子は、いじめないし、いじめからも逃れることができ、闘うことができる。
それを、今、寄ってたかって、社会的、経済的閉塞性の中で、家庭や学校、地域、社会全体が、子どもたちにいろいろな意味で自己肯定感を奪うような状況になっている。それが原因なんだと考えております。
――従来蓄積されてきたいじめに対するノウハウが継承されていないのではないか。
いじめについては、結局は端的な一つ一つの個別の事案としてしか動いていないというのが、今までの原因であり、それが解決されない原因の一つだと思います。
それ以上に僕が訴えたいことがありまして、実は、いじめの事件が起きて、一人のとうとい命が今回もなくなっている。僕はあの場所も行ってまいりましたが、あの子がどんな思いで階段を上って飛びおりたのか、それを考えたときに、私もそのような教育の現場にいる一人の元教員、あるいは教職に大学でついている者として加害者だろうと、こうべを垂れて祈るしかなかった、謝るしかなかったという思いがあります。
実は、今まで、いいですか、いじめでみずからを処した教員も教育長もおりません。例えば、山形で、高畠高校の事件のときに教育長がやめる羽目になったのは、亡くなったという報告を受けながらも酒席を続けて酒を飲み続けていた、これがマスコミの力によって公開されたからです。
一人の子どもが亡くなった、当然ながら、教員にも、担任にも、いわゆる教育長にも責任がある、文科大臣にも責任がある。その責任のあるべき立場の人が、私に原因があったという形でみずからを処したら、例えば今回ならば、平野文科大臣が、みずからの至らぬところで学校教育がちゃんとできなかった、ついては、歴代五代ぐらいまでさかのぼって大臣がやめるどころか議員をやめるぐらいの思いがあれば、全く違うものになるのではないか。責任をとらない。大人が責任をとらないから、必ず子どもの責任という形でいくんですね。
実は、瑞浪というところで、いじめの事件で中学生の女の子が亡くなりました。これに関しては、加害者の名前、七名ですか、きちっと残した上で亡くなって、大変な問題になった。僕も被害者側の親から相談を受けて、和解用の市民講演会というのをやりに行った。
結局は、今度はいじめていた七人の子が逆に地域の中でいじめに遭って、もう学校に通えないんですね。今度は、その町の中では、いじめていた子側の人たちが、こういうことになったのはおまえが騒ぐからだと、いじめられて亡くなった子の家族をたたく。二万数千の町が二分して、いまだに混乱しているんですね。
僕が呼ばれて行ったときに言ったのは、申しわけない、教育長、校長、市長、やめてくれと。我々が悪かったと。安全なきちっとした学校をつくれなかった。あなた方が責任をとれば、きっとおさまるでしょう、こんなことは二度と起きないのではないか。
こういう見方もあるということを、厳しい見方ですけれども、言わせていただきます。
――市長、教育長、校長はやめるべき、そこに連なるのは当たり前の話であって、そこに責任と権限を一元化していくということは、むしろ教育の独自性といいますか独立性、ここと相入れないものがあるのではないか。
教育委員会制度について、一部の専門家の間でも、今回の大津の教育委員会の対応を見て、教育委員会に問題がある、制度的にもう要らないのではないかという過激な発言をする方々、専門家の中でもいられる。とんでもないことだと思います。
教育委員会制度そのものが、確かにアメリカが戦後、日本の民主化教育を推進するものとして持ってきた。その持ってきた当のアメリカがもう既にとっくの昔にやめていて、学校評議員制という形で、地域に合った特質を持った学校づくりを、地域の有識者がつくっていくんだという形に切りかわっている。それはそれで立派なことですし、我が国でも、安倍内閣のもとで教育再生会議がその方向でいろいろやろうという思いをなさった。
これは、それこそ皆様方国会の中で、この国の教育を民主的かつすぐれたものにするためにどういう制度が必要かという形で問われるべきものであって、単なる、ある教育委員会の失態によって教育委員会制度はという次元の問題ではないと思います。教育委員会制度があったおかげで守られた日本のいい風習、教育の慣習はたくさんあると思っております。
――警察庁とそれからこうした教育との今後の連携のあり方について。
横浜の例を申し上げます。
横浜は、前市長、中田市長のときに、教育委員会と神奈川県警の方で、学警連、学校警察連絡協議会が軸になって、神奈川県警は、小中高全ての横浜市内の子どもたちの起こした事件についての、いわゆる誰がどういう事件を起こしたという報告を全部教育委員会の方に報告いたしますと。そのかわり、そのことをもって、例えば市立高校が生徒を退学にかけるとか処分対象にはせず、お互いで協力をしながら、子どもたちを非行、犯罪から未然に防ぎ、起こした場合も矯正をさせながらいい子に育てていきましょうというのが、警察側からの対処としてありました。
逆に、学校側から心を開いて刑事事件でというのは、非常に難しいんですね。
でも、今回の件なんというのは、どなた、どの委員の先生方が読んだって、大変な犯罪ですよね、金とってこい、万引きさせたり。ああいうものに関しては、私が生徒指導ならば当然警察の方に伝えますし、それはもう義務として。今回の件はもう、犯人隠匿で僕は犯罪だと思っています、あの先生方は。そういうふうな形で、今回は特別だと思いたいと思います。
――子どもたちを取り巻く状況をどう見るか。
子どもたちを取り巻く状況は、最悪だと思っております。世の中、マスコミまで含めて、全てが子どもたちを悪くしよう悪くしようとしか考えていないんじゃないか。品のないテレビ番組から、いろいろな問題のある文章、漫画等、インターネット等を含めて、もう少し子ども中心の良識ある社会づくりをしていかなければ、どうしようもないと考えております。
そんな中で、子どもたちが必死の訴えをしてきていますが、ちょっとケアしたいのは、どうも今回の件は、いじめたとされる子が、これ以降、多分刑事事件に発展をし、少年院等への送致になるのか、試験観察、保護処分になるのか、何らかの教育的配慮、矯正を含んだ、いわゆる法的な結果になってしまうだろうと思います。
ただ、いじめている子もいじめられています。いじめを子どもだけの問題にするのはむごい。必ず、いじめている子の背後には、いじめにその子を追い込んだいろいろな状況があると考えています。
――いじめで苦しんでいる子ども、あるいは傍観していると言われる子どもたちに対して、教師や親など大人に相談しなさい、相談すべきだというふうに言ってみたり、相談しない本人に問題があるかのように言ってみたり、それから、見ている者はけしからぬというふうに言ってみたり、さまざまな物の言い方があると思うけれども、これがさらに子どもたちを追い詰める結果にならないか。
今回の事件を見てみれば明らかですけれども、いじめられて亡くなった子、もう取り返しがつきません。一つのとうとい命が失われました。
いじめた子、それも曖昧なまま、これから法的制裁を受けるにしても、今現状、そのうちの何名かと私はかかわっておりますけれども、もう学校に行けない。親が離婚せざるを得なくて、もう夜逃げのように本当に別な県に逃げなきゃならない。今現にいる学校に通えなくて、夜間中学の方に何とか保護をしながら通わすしかない。これでこの子たちの一生にどういう影響が出てくるのか。
また、いじめを傍観していた子の中でも、アンケートで書いたけれども、あの中学から僕にメールが来るんです、いじめたことを先生に知っていたのに伝えなかった、私は生きていてよかったんでしょうかと。ここまで自分が傍観者でいたことで自分を責めている子どもたちまでいます。
一つ、お答えいたします。この数字は、全くのうそです。
どういうことか。日本の自殺統計のとり方に根本的な問題がある。これはかつて内閣府にも指摘をしました。
日本の自殺統計というのは、御遺体で見つかった場合には、法務省の嘱託医がその主たる死因を自殺と書いたもの、病院または家庭で亡くなった場合には、最後にその死亡状況を判断した医師が死亡診断書に自殺と書いたものです。
実は、僕は、今から八年半前から、二十四時間体制の相談事務所、水谷青少年問題研究所を設立して、六名のスタッフが、一日二十四時間、一年三百六十五日、電話とメールに向き合っております。電話については相談は数え切れず、メールは記録が残っております。けさの段階で、六十九万七千二百件、かかわった子どもの数は二十四万三千二百人に昨夜達しました。その中で、残念ながら亡くなった子、百十二名ほどおります。
でも、その子たち、例えば薬をいっぱい飲んで亡くなった子、オーバードーズというんですが、これは中毒死と書かれております。また、首をつって死んだのではない限り、リストカットで死んだケースは事故死と書かれています。亡くなった遺族のことを考慮して、なかなか医師というのは自殺と若い子の場合書けません。その数値が全く統計的に抜けております。 ですから、それがない限り、この自殺統計そのものが全く意味がない。例えば、日本国において二万三千を超える方々が亡くなっている。これ自体も全く意味のない統計だと私は考えます。
以上です。
――どういうアンケートが重要で、どういうアンケートをすべきか。
実は、教育の現場におりまして、我が国の子どもたちが画期的にひどい状況に変わっていったのは、一九九一年秋以降です。
実は、このアンケートは、もう二十年ほど前、一九八〇年代から見ていただくと明確にわかるんですが、ある報道でも僕はお話ししました。事件が起きます、いじめで亡くなった今回のような事件が起きると、その直後に大きな数の報告がなされる。これは、全国的に、もう隠せない、一生懸命報告するからです。それが、どんどん少なくなっていく。学校もなれてしまい、いいかげんにしか対応しなくなるから。そういうふうな形でこういうむらができていると思います。
ただ、先ほど僕の最初のお話の中でも申しましたが、いじめのアンケートを学校がとること自体の中に問題があるのではないか。果たして、学校が客観的なアンケート調査を行うことができるのか。できれば他機関が介入をしながら、実は、いじめが発生するということは、その学校自体、教員自体に問題があるということですから、そこも変えなきゃならないという意味では、内輪の調査ではなくて外部機関へ、特に、法務省人権擁護局傘下の人権擁護委員を使いながら、全国各地におるわけですから、対応ができればと私は考えております。
以上です。
――時代とともに子どもたちがどのように変わってきたか。
九一年秋は、御存じのとおりバブル経済が崩壊した。それ以後、我が国は、二十年以上にわたる長期の不景気、いわゆる不況の中におります。その中で、会社では親が怒られ、叱られ、夢も見れず、給料は下がり、それが家庭の中で妻や子どもにぶつかっていく。母親のいらいらも子どもにぶつかっていき、また、教育環境の中でも、教員が、管理体制が強化される中で本当に身動きができなくなっていった。そのいらいらが、一番弱い子どもたちのもとにどんどん集約されています。
それが端的に、一つのあらわれとしては、そのいらいらを大事な仲間にぶつけるいじめとしてあらわれたり、あるいは、心を閉ざして不登校あるいはひきこもりというふうに結びついていったり、あるいは元気のいい子は非行、犯罪、薬物乱用へと行ったり、あるいは心の病へと行ったりしていると考えております。
あるテレビ番組で、水谷先生、どうやったらいじめはなくなりますかと。この国が、先生方が頑張って、本当にあすを夢見る景気のいい国になったらなくなるでしょう、私はそれを答えるしかないような気がします。
また、その一方で、いわゆる電子機器の普及、特にゲームやテレビ、テレビゲームやインターネットの普及によって、人と人とが、今質問してくださった議員さんが子どものころ、僕の子どものころのように、本当に生で接して、けんかしてけがさせたらごめんねと謝りに行ったりとか、本当のノーマルなコミュニケーションがとれない子どもたちがふえてきています。
ゲームをやったりインターネットの世界に入っても、都合が悪ければ切ればいいわけですから、決して心は強くならない。その意味で、子どもたちがどんどん弱くなっていったこともその一因だと考えております。
――外から見えないことをいいことに、教育という名のもとで、非常識なことが行われていないか。
実は、私は仕事柄、全国各地の少年院や鑑別所、あるいは少年刑務所等を講演で回っております。
実は、教育の現場では、非常に大きな誤解を持っている先生方が、文科省の方々を含めて多い。いわゆる法務省の管轄に自分たちの管轄の生徒児童を渡してしまうことは、何か自分たちの汚点になるんじゃないか、それは処罰であって、何かふさわしくないのではないかと。
ところが、法務省傘下には法務教官というちゃんとした教員がいて、しかも日本の少年法の中で、少年は罰するものではなく、次の国民として立派に自立することができるように矯正をするんだ、いわゆる少年刑務所を除いた少年院等の機関というのは矯正機関である、その事実をもう少しつかんで、自分たちができないことに関して、特に犯罪を犯した子どもについては、彼らの力をかりてきちっと矯正をしていただく、そういう努力が必要だと考えております。
――いじめは、少年少女にとって通過儀礼なのか。社会の責任によって、いじめの事案がふえたり減ったりするのか。
実は、先ほども申しましたとおり、いじめには私は二通りあると考えています。例えば、無視、シカトとか、あるいは悪口を言う、これは我々教員が絶対に防がなきゃならないし、やった場合には間に立ってやらなきゃいけない。
この種のいじめというのは実は魚の世界でもあると、さかなクンがこの間お話ししたときに言っていました。狭い生けすの中にたくさんの魚を入れると、魚もつつき合いをやったりかんだり、いじめをするそうです。だから、環境的な要因が非常に多くて、家庭の中がいらいらしていたり、学校の中が本当に受験受験で追い込まれてくれば、そういうものが出てきます。
ただ、今回の大津のようなケースは、むしろ僕は、いじめと呼ばない方がいいんじゃないか、犯罪と呼ぶべきじゃないかと。このケースに関しては、どんな状況であれ、あってはいけないことだし、それは防がなきゃいけない。いわゆる四十人学級だからこんなふうになった、二十人学級だったらそうならなかったろうという次元ではないし、むしろ社会全体の、先ほども言いましたが、一九九一年以降のこの国の経済状況あるいは社会状況の閉塞感、それがいろいろな意味で大きな影響を与えていると考えています。
ただ、いずれにしても、いい生徒指導の教員は、僕は生徒指導を二十二年やりました、きちっといじめはわかります。いじめを予防するようにきちっと動ける。
ただ、そういう教員の質自体も、ずっと何年も何年も現場を見ていまして、下がってきていることも原因の一つとしてあると思います。
――先生の長年の御経験から、指導のコツのようなものを教えていただきたい。
実は、教員というのは全てが優秀な教員では困るんです。よく生徒に言われました、うちの学校の先生が全部水谷先生だったら、息が詰まって俺はこの学校に来ないと。本当に向き不向きがある。僕には向かない生徒もいれば、僕しかできない生徒もいる。いろいろな先生がいていいと思うんですね。
ただ、質問内容からずれるかもしれませんが、日本の教育がどうしてこんなにだめになったのか。教員の不祥事も続いております。その根幹にあるのは、先ほども亀田さんがおっしゃいましたが、教育は、もともと、信頼からしか成り立たない。でも、この国の教育に、今、信頼はありません。文部科学省は全く教育委員会を信じず、教育委員会は学校を信じず、校長は教員を信じず、親も教員を信じず。
信頼されている人間は、その信頼を裏切らないように、きちっと自己に責任を持ってやる。我々、教員のときには、親から、生徒から信頼されているからこそ、日々の生活を正して、きちっとした形で模範になるように動いていった。
僕は、むしろ逆で、研修をこうしろとか、もっと管理をしろというよりも、現場の教員で、熱い、立派な教員はたくさんいます。日本人で、七割が真っ当な人で、問題を超こす人が一割いるという比率がもし仮にあったら、教員も全く同じわけです。立派な教員はたくさんいる。もう一回信じてあげてほしいと思います。
信じる、信じられた人間というのは強い。それこそ、汗を流して、自分の勤務時間を超えて、子どもたちのために生きていきます。ぜひ文科省に、もっと教員を信じろと御指導ください。お願いいたします。
――学校ガードマンみたく、常に、何かあったときに対応できる警察とのホットラインがあるべきか。
実は私は、今の前の盧武鉉大統領傘下のときに、青瓦台で、韓国の青少年問題の特別審議会の委員をやらせていただきました。
あのときには、実は一九九〇年代の後半から韓国では、イルジンフェ、一陣会、これは日本の漫画から始まったようですが、暴力組織が小中高を覆い尽くしていました。数十万と言われました。小学校五年生から大体十日間に百円、高校三年になれば千円以上の上納金を納める。それを告発しようとした生徒指導の教員が家族全員皆殺しにされた、あるいは告発しようとした女子生徒が輪姦をされた。
そういう事案も出てどうするかというときに韓国がとった方策は、レッドベレーといいまして、退職した軍人たちを、赤いベレー帽で、軍装です、銃は持っておりません、それを各学校に二名ずつ、小学校等は一名ですが、配置をした。それで画期的にそれが改善されたという成果が出ております。
ただ、我が国は、そこまでいってはいないだろうと思いますし、それ以上に、例えば人権の問題として、もっとやわらかく捉えながら対処できる状況だと私はまだ判断しております。
――ネット中毒対策は必要か。
実は、僕は学校で大体年間二百本ぐらいの講演を、中高を軸にやります。子どもたちに聞くんですね、君たち、携帯電話、メール、インターネット、ゲーム機がなかったら今より成績が上がっていると思う児童生徒、手を挙げなさい。八割以上の子が手を挙げます。ああいうものがあることによって自分の未来をだめにして、成績を下げているという事実は子ども自体がつかんでいる。でも、結局は、楽しいからやめないし、親たちは与えてしまう。何らかの規制はぜひしていただきたいと思います。 少なくても、携帯電話、メール、インターネット、ゲーム機がなければ、いじめも大半減ってきますし、不登校、ひきこもりも退屈でいられなくなる。何より、成績が上がります。何も土曜授業や七時間授業をやるより、あちらの方を規制した方が、よっぽどこの国の子どもたちの成績は上がると判断しております。
あと、もう一点だけつけ加えさせてください。余りにも今のネットの状況はひど過ぎる。
例えば、我が国にはPL法というすばらしい法律があって、いわゆる商品については、欠陥があったりいろいろな問題があれば、確実にそれを出した企業が責任を問われる。でも、ネットに関しては、どんな悪意ある情報やうそを流しても、全く責任が問われていない。
やはり、その意味でも、ぜひ議員の皆さん方には、PL法をもう少し拡大して、表現の部分、ネットの部分、ゲームの部分まで含むような、いわゆる製造物責任の方に、あるいは制作者責任の方に進めていただければ、この国の子どもたちはさらに救われると考えております。
――中野富士見中学で、いじめ自殺事件があった。一九九一年の三月、東京地裁の判決が出た。それによると、葬式ごっこはいじめではなく、むしろ一つのエピソードと見るべきで、自殺と直結させて考えるべきではないという、全く驚くべきものだった。この裁判例をどう見るか。
実は、人権侵害項目にいじめがつけ加えられたのは、申しわけありません、きょう資料を持ってきていませんが、わずか三、四年ぐらい前だったと思います。いじめの前に人権侵害に入れられたのが虐待ですから、非常に新しい。
中野の富士見中の時期には、そういう人権侵害というものといじめとの関係は全く意識されていなかった。でも、今の目で見れば、あの事件は僕も教員でしたから知っておりますが、ひどい事件であるし、完璧な人権侵害、それどころか、刑事告訴すらできるものだと考えております。
――いじめの根絶のために何が今必要なのか、そして、我々に要望されることがあるか。
逃げるということ自体は絶対的に必要なことだし、学校においても、いじめられている子どもをその状況から一回逃がしてあげて、それで解決を図るという意味で、逃げるということは絶対必要なんです。ただ、逃げたままではだめだということを私は先ほど述べたので、必ず決着をつけておかないと、そのとき心の中についた傷を一生引きずってしまうことになる。
私自身が二十四万二千人以上の子どもたちを相談で抱えておりますが、そのうちの八割というのは、何らかいじめ等により心に傷を持って、二十代になって引きこもっている、主に女の子たちが多いんですね。いじめがあった、なかったは、もう今さら、本当にそうだったのかを問うことはできませんが、本当に大きな傷の中で、精神科医療を受け、投薬を受け、社会参画もできないままに、生活保護を受けたり、働くこともできない、そういう現状を防ぐためには、いじめ事案が出たときには、逃げてもいいけれども闘ってきちっと決着をつけておきましょうということで発言をいたしました。
あと、いじめをなくすことは、実は、完璧ではないけれども、九九%、そんなに難しいことではありません。
先ほど私が言ったとおり、早急に、今、学校にはあいている教室が小中高たくさんあります。子どもの数が減っております。そこに、今、人権擁護委員、一万四千人ですけれども、全ての市町村におります。全ての学校の学区に複数で配置されておる。これを、例えば保護司の五万人ほど増員しろとは言いませんが、増員し、若い方も組み込んだ上で、事務所を学校の中につくる。
そして、そこで定期的に子どもたちに対して、学校は関与しないままに、いじめの調査、見たことがあるか、聞いたことがあるか、あった場合には速やかに学校当局、教育委員会、事案によっては警察、家庭裁判所等と連絡をとりながら丁寧に丁寧に対応していけば、いじめは一瞬にして、さっき馳先生がポリスマンじゃないけれどもそういう警護の可能性もとおっしゃったけれども、そこまでいかなくても、今の日本の現状ではそこで十分にとめ切れると私は判断しております。
――夜回り先生を始めたころと今を比べて違う点があるだろうか。
私が夜回り先生と呼ばれたのは、横浜市立港高校、今から二十一年前に赴任した高校が、生徒数八百名の全国最大の定時制夜間高校でした。口の悪い横浜市民が、横浜市立暴力団養成所と呼んだ学校です。
入ってきた子たちの半数近くが学校をやめていき、夜の世界に沈んでいく。横浜の山手警察から、おたくの生徒を銃刀法違反でとった、来てくれ。刃渡り何センチだ、いや、中国製のトカレフ、チャカ、実弾つき。関東一都六県で三千万円の泥棒をやった生徒もいます。殺人事件以外の全ての事件を預かった。その学校に勤務したときから、夜回り先生と呼ばれるようになりました。
でも、あの時代の子どもたちは、力があった。自分は勉強はできない、社会からも疎外されたけれども、それを力ではね返してという、その力が、生きる力がありました。彼らが集団で組織したのが、もう今は壊滅状況の暴走族。彼らは、一人で勝てませんから、集団をつくって大人や社会に対峙してきた。
この二十一年、夜回りを続けてきて非常に感じるのは、その子どもたちの生きる力がどんどん奪われてきています。実は、もう暴れることもできず、暗い部屋で、ネットにはまりながら、リストカットを繰り返したり、死に向かっていく。 今、例えばリストカッターというのは、二〇〇〇年以降、大体百万人を超えたと言われています。十代後半から二十代前半の世代人口の七%以上です。しかも、猛烈な勢いでふえていっています。リストカッターのいない中学、高校は、日本には存在しません。それ以上に、学校レベルからクラスレベル、クラス複数レベルへと猛烈な勢いでふえていっています。
だから、非常に内面的な傾向が強くなってしまっています。ですから非常に難しい。外で暴れてくれる分には警察も関与できる、夜回り先生も会えるんですが、暗い部屋で苦しんでいる子には、それでは会えない。 また、その理由については今説明する場ではないですけれども、このような形で子どもたちの生きる力が損なわれてきているという事実だけは、お伝えをいたしたいと思います。
――いじめの本質とは何か、また、それに対してどのように対応すべきか。
実は、いじめている子にも、いじめられている子にも、共通している特質があります。それは、自己肯定感のなさ。もっと単純に言えば、自信がない。自信のある子は、いじめません。自信のある子は、いじめられても親や先生に伝えることもできるし、助けを求めることができます。その自己肯定感のなさというものが、いじめている子、いじめられている子、ともに私が現職で扱ったケースでは共通している特質です。
実際に、今、実は私、学校を回りますけれども、子どもたちに、家で親から褒められた数、叱られた数、どっちが多いと聞きますと、まず九九%、叱られた数。子どもたちに、はい、君たち、この学校で、先生から褒められた数、叱られた数、どちらが多い。九九%、中高では叱られた数です。
人は、評価をされず、叱られてばかりいたら、結局は、自分はだめな人間なんだ、いらいらする、あるいは負け犬的に弱くなる。そこに、いじめが発生する大きな要因があると私は考えています。 私が夜間定時制高校に行ったとき、実は四年間、いじめが一件も起きなかったという奇跡的なことがあります。このとき、どういうふうに我々教員が動いたのか。
我々は、もう社会からいじめられている、夜間定時制高校は、真っ当に教員の配当ももらえず、お金もろくにもらえず、就職の面でも一部の企業に差別されて、ただでさえ差別されていじめられている我々の社会でいじめがあったらどうするんだと言ったら、変に生徒たちが納得をしていました。
でも、それだけではなくて、我々教員が、ともかく一人一人の子どもたちのいいところを認めるんです。おまえは、確かに数学はだめだけれども、ここはすごいよ。認められることの中で自己発現をしていって、そこから自己肯定感に結びついた子は、いじめないし、いじめからも逃れることができ、闘うことができる。
それを、今、寄ってたかって、社会的、経済的閉塞性の中で、家庭や学校、地域、社会全体が、子どもたちにいろいろな意味で自己肯定感を奪うような状況になっている。それが原因なんだと考えております。
――従来蓄積されてきたいじめに対するノウハウが継承されていないのではないか。
いじめについては、結局は端的な一つ一つの個別の事案としてしか動いていないというのが、今までの原因であり、それが解決されない原因の一つだと思います。
それ以上に僕が訴えたいことがありまして、実は、いじめの事件が起きて、一人のとうとい命が今回もなくなっている。僕はあの場所も行ってまいりましたが、あの子がどんな思いで階段を上って飛びおりたのか、それを考えたときに、私もそのような教育の現場にいる一人の元教員、あるいは教職に大学でついている者として加害者だろうと、こうべを垂れて祈るしかなかった、謝るしかなかったという思いがあります。
実は、今まで、いいですか、いじめでみずからを処した教員も教育長もおりません。例えば、山形で、高畠高校の事件のときに教育長がやめる羽目になったのは、亡くなったという報告を受けながらも酒席を続けて酒を飲み続けていた、これがマスコミの力によって公開されたからです。
一人の子どもが亡くなった、当然ながら、教員にも、担任にも、いわゆる教育長にも責任がある、文科大臣にも責任がある。その責任のあるべき立場の人が、私に原因があったという形でみずからを処したら、例えば今回ならば、平野文科大臣が、みずからの至らぬところで学校教育がちゃんとできなかった、ついては、歴代五代ぐらいまでさかのぼって大臣がやめるどころか議員をやめるぐらいの思いがあれば、全く違うものになるのではないか。責任をとらない。大人が責任をとらないから、必ず子どもの責任という形でいくんですね。
実は、瑞浪というところで、いじめの事件で中学生の女の子が亡くなりました。これに関しては、加害者の名前、七名ですか、きちっと残した上で亡くなって、大変な問題になった。僕も被害者側の親から相談を受けて、和解用の市民講演会というのをやりに行った。
結局は、今度はいじめていた七人の子が逆に地域の中でいじめに遭って、もう学校に通えないんですね。今度は、その町の中では、いじめていた子側の人たちが、こういうことになったのはおまえが騒ぐからだと、いじめられて亡くなった子の家族をたたく。二万数千の町が二分して、いまだに混乱しているんですね。
僕が呼ばれて行ったときに言ったのは、申しわけない、教育長、校長、市長、やめてくれと。我々が悪かったと。安全なきちっとした学校をつくれなかった。あなた方が責任をとれば、きっとおさまるでしょう、こんなことは二度と起きないのではないか。
こういう見方もあるということを、厳しい見方ですけれども、言わせていただきます。
――市長、教育長、校長はやめるべき、そこに連なるのは当たり前の話であって、そこに責任と権限を一元化していくということは、むしろ教育の独自性といいますか独立性、ここと相入れないものがあるのではないか。
教育委員会制度について、一部の専門家の間でも、今回の大津の教育委員会の対応を見て、教育委員会に問題がある、制度的にもう要らないのではないかという過激な発言をする方々、専門家の中でもいられる。とんでもないことだと思います。
教育委員会制度そのものが、確かにアメリカが戦後、日本の民主化教育を推進するものとして持ってきた。その持ってきた当のアメリカがもう既にとっくの昔にやめていて、学校評議員制という形で、地域に合った特質を持った学校づくりを、地域の有識者がつくっていくんだという形に切りかわっている。それはそれで立派なことですし、我が国でも、安倍内閣のもとで教育再生会議がその方向でいろいろやろうという思いをなさった。
これは、それこそ皆様方国会の中で、この国の教育を民主的かつすぐれたものにするためにどういう制度が必要かという形で問われるべきものであって、単なる、ある教育委員会の失態によって教育委員会制度はという次元の問題ではないと思います。教育委員会制度があったおかげで守られた日本のいい風習、教育の慣習はたくさんあると思っております。
――警察庁とそれからこうした教育との今後の連携のあり方について。
横浜の例を申し上げます。
横浜は、前市長、中田市長のときに、教育委員会と神奈川県警の方で、学警連、学校警察連絡協議会が軸になって、神奈川県警は、小中高全ての横浜市内の子どもたちの起こした事件についての、いわゆる誰がどういう事件を起こしたという報告を全部教育委員会の方に報告いたしますと。そのかわり、そのことをもって、例えば市立高校が生徒を退学にかけるとか処分対象にはせず、お互いで協力をしながら、子どもたちを非行、犯罪から未然に防ぎ、起こした場合も矯正をさせながらいい子に育てていきましょうというのが、警察側からの対処としてありました。
逆に、学校側から心を開いて刑事事件でというのは、非常に難しいんですね。
でも、今回の件なんというのは、どなた、どの委員の先生方が読んだって、大変な犯罪ですよね、金とってこい、万引きさせたり。ああいうものに関しては、私が生徒指導ならば当然警察の方に伝えますし、それはもう義務として。今回の件はもう、犯人隠匿で僕は犯罪だと思っています、あの先生方は。そういうふうな形で、今回は特別だと思いたいと思います。
――子どもたちを取り巻く状況をどう見るか。
子どもたちを取り巻く状況は、最悪だと思っております。世の中、マスコミまで含めて、全てが子どもたちを悪くしよう悪くしようとしか考えていないんじゃないか。品のないテレビ番組から、いろいろな問題のある文章、漫画等、インターネット等を含めて、もう少し子ども中心の良識ある社会づくりをしていかなければ、どうしようもないと考えております。
そんな中で、子どもたちが必死の訴えをしてきていますが、ちょっとケアしたいのは、どうも今回の件は、いじめたとされる子が、これ以降、多分刑事事件に発展をし、少年院等への送致になるのか、試験観察、保護処分になるのか、何らかの教育的配慮、矯正を含んだ、いわゆる法的な結果になってしまうだろうと思います。
ただ、いじめている子もいじめられています。いじめを子どもだけの問題にするのはむごい。必ず、いじめている子の背後には、いじめにその子を追い込んだいろいろな状況があると考えています。
――いじめで苦しんでいる子ども、あるいは傍観していると言われる子どもたちに対して、教師や親など大人に相談しなさい、相談すべきだというふうに言ってみたり、相談しない本人に問題があるかのように言ってみたり、それから、見ている者はけしからぬというふうに言ってみたり、さまざまな物の言い方があると思うけれども、これがさらに子どもたちを追い詰める結果にならないか。
今回の事件を見てみれば明らかですけれども、いじめられて亡くなった子、もう取り返しがつきません。一つのとうとい命が失われました。
いじめた子、それも曖昧なまま、これから法的制裁を受けるにしても、今現状、そのうちの何名かと私はかかわっておりますけれども、もう学校に行けない。親が離婚せざるを得なくて、もう夜逃げのように本当に別な県に逃げなきゃならない。今現にいる学校に通えなくて、夜間中学の方に何とか保護をしながら通わすしかない。これでこの子たちの一生にどういう影響が出てくるのか。
また、いじめを傍観していた子の中でも、アンケートで書いたけれども、あの中学から僕にメールが来るんです、いじめたことを先生に知っていたのに伝えなかった、私は生きていてよかったんでしょうかと。ここまで自分が傍観者でいたことで自分を責めている子どもたちまでいます。
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