DJ更年期8.1M16ナイト @ruikozuka さんのツイートです。
――武藤貴也のブログ読んだら「稲作、勾玉、土器、鉄器、前方後円墳も日本から朝鮮半島に伝わった、科学的証拠も出ている。専門家の間では常識」って書いてある。そうなんですか?歴史に詳しい人教えて。http://ameblo.jp/mutou-takaya/theme-10085691249.html …〔13:25 - 2015年8月1日 〕――
何でも、
“文化”を日本発にしたいわけだ。
嘘を吐ける人って、
最強だね。
ちなみに、公安職員に
このメンタルの人が多いという。
ちなみに、
「玉砕」は、
嘘から始まったという
すなわち、
「捕虜は帰れない」
という
誤ったデータの下、
出口なしとして
死を決断したところに
アッツ島守備隊全滅の悲劇があったようだ。
もともと、
日本の武士階級には
山崎保代部隊長の
「他に策なきにあらざるも、武人の最後を汚さんことを惧(おそ)る。」
といった「玉砕」を
美化する発想はなかった。
敵方への投降を認めていたのだ。
然るに、
1943年(昭和18)2月、
日本軍1万人がガダルカナル島から撤退。
陸軍省が「撃ちてし止まん」の標語をポスターにした時期だ。
戦況が日に日に不利になって行った。
アッツ島の日本人が壊滅した際、
「玉砕」の語が使われた。
軍部としては、
見捨てたわけだから一種の棄民政策だった。
このニュースは、
山本五十六連合艦隊司令長官の
戦死の報と共に
大本営が初めて即日に伝えた最初のニュースとなった。
不幸して、これ以降、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
ということが
日本軍の見えざる“掟”になってしまった。
さて、以上は、当時の経緯を伝える、
松岡正剛の千夜千冊832夜『国破レテ』村上兵衛 (*http://1000ya.isis.ne.jp/0832.html )の
Yasu@noosa_noosa さんによる紹介ツイートを基にして
既述した
(〔15:40 - 2015年8月1日 〕〔15:40 - 2015年8月1日 〕〔15:42 - 2015年8月1日 〕〔15:43 - 2015年8月1日 〕 )。
Yasu@noosa_noosaさんのツイート〔15:55 - 2015年8月1日 〕〔15:54 - 2015年8月1日 〕に、
こんな指摘があった。
日本軍の
足枷になっていたのは、
「陸大閥」=長州閥
(陸軍大学校出身者の人脈)だったらしい。
陸軍=長州、海軍=薩摩と明治維新から
何も進歩していないまま派閥争いを繰り返していた、と。
安倍某を見ていたら、
長州閥の無能ぶりがよく分かる。
嘘を本当のこととして
塗り替える「修正」主義という長州閥の気風に
これ以上、
付き合う必要はないんじゃないか。
なお、僕は、
知らなかったけれど、
ポツダム宣言受託を早い時点で東郷が決断していたという。
ただし、軍部が反対。
困った鈴木首相は
――新聞にポツダム宣言全文をそのまま掲載して、それにコメントを付けないようにすれば、日本政府が宣言に留意したと受け取られるだろうと判断して、28日の新聞に公開させた。〔16:18 - 2015年8月1日 〕――
しかし、新聞各紙が愚かにも
「三国の共同謀略」「笑止!対日降伏条件」といった勇ましい見出しを躍らせ、
徹底抗戦の論陣を張った。
狼狽した鈴木は、
即刻記者会見を開き、政府はどんなコメントも出していないと弁明したという
(Yasuさんのツイート〔16:19 - 2015年8月1日 〕参照)。
ただ、この弁明は、
「ノーコメント」(黙殺)とは受け取られずに、
「イグノア」(無視)と受け取られ、
これが7月30日のニューヨークタイムズに「日本、連合国の降服最後通告を拒否」というふうに報道されたようです。
そして事態は、
最悪の結果へと突進して行く――。
――武藤貴也のブログ読んだら「稲作、勾玉、土器、鉄器、前方後円墳も日本から朝鮮半島に伝わった、科学的証拠も出ている。専門家の間では常識」って書いてある。そうなんですか?歴史に詳しい人教えて。http://ameblo.jp/mutou-takaya/theme-10085691249.html …〔13:25 - 2015年8月1日 〕――
何でも、
“文化”を日本発にしたいわけだ。
嘘を吐ける人って、
最強だね。
ちなみに、公安職員に
このメンタルの人が多いという。
ちなみに、
「玉砕」は、
嘘から始まったという
すなわち、
「捕虜は帰れない」
という
誤ったデータの下、
出口なしとして
死を決断したところに
アッツ島守備隊全滅の悲劇があったようだ。
もともと、
日本の武士階級には
山崎保代部隊長の
「他に策なきにあらざるも、武人の最後を汚さんことを惧(おそ)る。」
といった「玉砕」を
美化する発想はなかった。
敵方への投降を認めていたのだ。
然るに、
1943年(昭和18)2月、
日本軍1万人がガダルカナル島から撤退。
陸軍省が「撃ちてし止まん」の標語をポスターにした時期だ。
戦況が日に日に不利になって行った。
アッツ島の日本人が壊滅した際、
「玉砕」の語が使われた。
軍部としては、
見捨てたわけだから一種の棄民政策だった。
このニュースは、
山本五十六連合艦隊司令長官の
戦死の報と共に
大本営が初めて即日に伝えた最初のニュースとなった。
不幸して、これ以降、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
ということが
日本軍の見えざる“掟”になってしまった。
さて、以上は、当時の経緯を伝える、
松岡正剛の千夜千冊832夜『国破レテ』村上兵衛 (*http://1000ya.isis.ne.jp/0832.html )の
Yasu@noosa_noosa さんによる紹介ツイートを基にして
既述した
(〔15:40 - 2015年8月1日 〕〔15:40 - 2015年8月1日 〕〔15:42 - 2015年8月1日 〕〔15:43 - 2015年8月1日 〕 )。
Yasu@noosa_noosaさんのツイート〔15:55 - 2015年8月1日 〕〔15:54 - 2015年8月1日 〕に、
こんな指摘があった。
日本軍の
足枷になっていたのは、
「陸大閥」=長州閥
(陸軍大学校出身者の人脈)だったらしい。
陸軍=長州、海軍=薩摩と明治維新から
何も進歩していないまま派閥争いを繰り返していた、と。
安倍某を見ていたら、
長州閥の無能ぶりがよく分かる。
嘘を本当のこととして
塗り替える「修正」主義という長州閥の気風に
これ以上、
付き合う必要はないんじゃないか。
なお、僕は、
知らなかったけれど、
ポツダム宣言受託を早い時点で東郷が決断していたという。
ただし、軍部が反対。
困った鈴木首相は
――新聞にポツダム宣言全文をそのまま掲載して、それにコメントを付けないようにすれば、日本政府が宣言に留意したと受け取られるだろうと判断して、28日の新聞に公開させた。〔16:18 - 2015年8月1日 〕――
しかし、新聞各紙が愚かにも
「三国の共同謀略」「笑止!対日降伏条件」といった勇ましい見出しを躍らせ、
徹底抗戦の論陣を張った。
狼狽した鈴木は、
即刻記者会見を開き、政府はどんなコメントも出していないと弁明したという
(Yasuさんのツイート〔16:19 - 2015年8月1日 〕参照)。
ただ、この弁明は、
「ノーコメント」(黙殺)とは受け取られずに、
「イグノア」(無視)と受け取られ、
これが7月30日のニューヨークタイムズに「日本、連合国の降服最後通告を拒否」というふうに報道されたようです。
そして事態は、
最悪の結果へと突進して行く――。
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