映画には結末が分かると、全然面白くなくなるものと、
そうじゃなく、かえって本当に?
と、好奇心をそそられるタイプの2種類があります。
「プレシャス」は、後者です。
まずは、予告編を見てください。
映画「プレシャス」予告編
結末は、分かるでしょ。
愛を見つけて、
少女が苦境から抜け出します。
しかし、どうやって?
「あたしの幸せは、あたしが見つける」というやり方で、です。
予告編を見ると、そこまで分かってしまいます。
もう少し詳しく、
少女の置かれている立場と、
その転回点になる事実を記すぐらいは許されるでしょう。
この少女、スラム街に住む黒人の中学生です。
父親にレイプされ、二人目の子供を身ごもっています。
そのせいで、毎日、母親に虐待され、空想の世界で
白人の男性に愛されることを夢見て生きています。
普通の学校から退学処分をくらってから、
「イーチワン・ティーチワン」(意味は「それぞれに一つを教える」)
という代替学校で
よき先生にめぐり合い、友達を得、沈んでいた心が癒されていきます。
さて、ここまでで、
ストーリーが分かったから、
もういい、観たくないと感じましたか?
そんなことはないでしょう。
主人公が他の登場人物たちとどんなやり取りをするのか
気になるでしょ。
セリフこそ、映画の命なのですから。
また、まだもっと大きな不幸が伏せられているやもしれません
(実際、伏せられています)。
この映画、結末も含め、大まかなあらすじを客に教えて、
かえって足を映画館に運ばせるタイプだと思います。
ハンカチは、一枚で足るかな、と心配しながら・・・
僕の場合も、その誘いに乗っかった口です。
午前中に映画の予約をして、観たのは夕刻。
映画館内に入ると、右側の座席に若い女性が座りました。
左側の座席にも若い女性が座りました。
アレッと思って館内を見渡すと、
いるわ、いるわ、女性軍!
若い、女の子と言っていい人たちが群れでいました。
映画が始まり、目の前の画面に映し出される男の暴力、
僕は、自分が同じ男の立場なので、隠れるように、肩をすぼめて観ておりました。
しかし、映画の最後に“止め”です。
「この映画を、全ての若い女性に捧げます」というテロップが流れました。
というわけで、
映画を観るようにとは、男性の僕は誘われてなかったようでした。
しかし、では、女性なら誰でも楽しめる映画かというと、そうでもない気がします。
悔しくて言っているのではありませんよ、
・・・ん~、ちょっとはありますかな、悔しさ。(←どっちやねん!)
ともかく、全然、泣けない映画です
(どこまでも僕が基準ですが
)。
というのは、ストーリーに緊迫感があふれかえっているからです。
その雰囲気が最後まで持続します。
譬えれば、
重いテーマの絵本を続きもので読んでいるかのようです。
絵本の、最後のページの
2,3行の言葉と
背景の見開き一枚の絵
を受け止め、ストーリーを飲み込む――、
そこに絵本の醍醐味があります。
出来るだけ深いところで、味わいたい・・・
と願えば、否が応でもページをゆったりと眺めたくなります。
しかし、物語は、そして恐らく、現実の世界でも同じでしょうが、
見る者のそんな気持ちにお構いなく、
人間関係に思わぬ進展があり、
変化が生じます。
つまり、次の絵本を手に取らなくなるわけです。
ちょっとした意外なことが起こり、
唖然として、慌ててそちらに注意力のチャンネルを切り替える
という繰り返しの中で、涙に暮れている暇がありません。
また、ぶすっとした
ヒロインの、苛められっ子である
巨漢の少女が背負っている十字架が余りに重いです。
男向き、女向きというのではなく、
いばらの道を歩んで来た人が見れば、感動する映画
ということなんでしょうか。
この記事を書きあげてから、アップした予告編を見る度、
涙がぽたぽた流れ落ちます。
本当に感動する映画って、
熟成の時間が必要なのかもしれないですね。
ところで、映画製作の費用は、
制作総指揮を担当したオプラ・ウィンフリーが負担。
映画会社の企画ではないのですね。
純然たる個人の出資に頼って制作された映画ということです。
それにレ二―・クラビッツやマライヤ・キャリーという世界的なポップス歌手が
役者として加わり、見映えのしない役を演じ切ります。
これらのポップス歌手の参加は、
契約する相手が映画会社という強者でなく、
個人なので、
「映画の事業主は、自分たちだ」みたいな
浅ましいことを考えた上でのものではないでしょう。
きっと、演劇というアートを通して自己表現したかったのだろうと思います。
レ二―・クラビッツは、健康オタクで「彼女募集中のナース」です。
マライヤ・キャリーは、ソーシャル・ワーカーです。
レ二―と比べ、マライヤの方が幾らか格好よろしいが、
しかし、実は、女性版「刑事コロンボ」といった役どころです。
どすの利いた声で
「“家庭”と聞いて何が思い浮かぶ?」
などと、ある意味、少女を追い詰めます。
刑事コロンボですからね、もちろん、スッピンですわ。
信じられないでしょ?
物語への惚れこみがなければ、首を縦に振らなかった役柄のはずです。
子どもを虐待する母親役は、コメディアンのモ二―クが演じます。
これがまた、その迫真の演技力が見ものです。
怖いですよ・・・
コメディアンとしてはもう舞台に立てないのでは、
と心配になるほどむごい女の役を演じます。
さて、この映画を観終わって感じたことですが、生き抜く勇気だけでなく、
人としての気品をさえ与えられた気がしました。
まだ観ておられないなら、是非どうぞ。
僕のお勧めです。
ただ、R-15指定とかで、
ご家族では観に行かない方がいいのかも。
その点は、ご注意のほどを。

そうじゃなく、かえって本当に?
と、好奇心をそそられるタイプの2種類があります。
「プレシャス」は、後者です。
まずは、予告編を見てください。
映画「プレシャス」予告編
結末は、分かるでしょ。
愛を見つけて、
少女が苦境から抜け出します。
しかし、どうやって?
「あたしの幸せは、あたしが見つける」というやり方で、です。
予告編を見ると、そこまで分かってしまいます。
もう少し詳しく、
少女の置かれている立場と、
その転回点になる事実を記すぐらいは許されるでしょう。
この少女、スラム街に住む黒人の中学生です。
父親にレイプされ、二人目の子供を身ごもっています。
そのせいで、毎日、母親に虐待され、空想の世界で
白人の男性に愛されることを夢見て生きています。
普通の学校から退学処分をくらってから、
「イーチワン・ティーチワン」(意味は「それぞれに一つを教える」)
という代替学校で
よき先生にめぐり合い、友達を得、沈んでいた心が癒されていきます。
さて、ここまでで、
ストーリーが分かったから、
もういい、観たくないと感じましたか?
そんなことはないでしょう。
主人公が他の登場人物たちとどんなやり取りをするのか
気になるでしょ。
セリフこそ、映画の命なのですから。
また、まだもっと大きな不幸が伏せられているやもしれません
(実際、伏せられています)。
この映画、結末も含め、大まかなあらすじを客に教えて、
かえって足を映画館に運ばせるタイプだと思います。
ハンカチは、一枚で足るかな、と心配しながら・・・
僕の場合も、その誘いに乗っかった口です。
午前中に映画の予約をして、観たのは夕刻。
映画館内に入ると、右側の座席に若い女性が座りました。
左側の座席にも若い女性が座りました。
アレッと思って館内を見渡すと、
いるわ、いるわ、女性軍!
若い、女の子と言っていい人たちが群れでいました。
映画が始まり、目の前の画面に映し出される男の暴力、
僕は、自分が同じ男の立場なので、隠れるように、肩をすぼめて観ておりました。
しかし、映画の最後に“止め”です。
「この映画を、全ての若い女性に捧げます」というテロップが流れました。
というわけで、
映画を観るようにとは、男性の僕は誘われてなかったようでした。

しかし、では、女性なら誰でも楽しめる映画かというと、そうでもない気がします。
悔しくて言っているのではありませんよ、
・・・ん~、ちょっとはありますかな、悔しさ。(←どっちやねん!)
ともかく、全然、泣けない映画です
(どこまでも僕が基準ですが

というのは、ストーリーに緊迫感があふれかえっているからです。
その雰囲気が最後まで持続します。
譬えれば、
重いテーマの絵本を続きもので読んでいるかのようです。
絵本の、最後のページの
2,3行の言葉と
背景の見開き一枚の絵
を受け止め、ストーリーを飲み込む――、
そこに絵本の醍醐味があります。
出来るだけ深いところで、味わいたい・・・
と願えば、否が応でもページをゆったりと眺めたくなります。
しかし、物語は、そして恐らく、現実の世界でも同じでしょうが、
見る者のそんな気持ちにお構いなく、
人間関係に思わぬ進展があり、
変化が生じます。
つまり、次の絵本を手に取らなくなるわけです。
ちょっとした意外なことが起こり、
唖然として、慌ててそちらに注意力のチャンネルを切り替える
という繰り返しの中で、涙に暮れている暇がありません。
また、ぶすっとした
ヒロインの、苛められっ子である
巨漢の少女が背負っている十字架が余りに重いです。
男向き、女向きというのではなく、
いばらの道を歩んで来た人が見れば、感動する映画
ということなんでしょうか。
この記事を書きあげてから、アップした予告編を見る度、
涙がぽたぽた流れ落ちます。
本当に感動する映画って、
熟成の時間が必要なのかもしれないですね。
ところで、映画製作の費用は、
制作総指揮を担当したオプラ・ウィンフリーが負担。
映画会社の企画ではないのですね。
純然たる個人の出資に頼って制作された映画ということです。
それにレ二―・クラビッツやマライヤ・キャリーという世界的なポップス歌手が
役者として加わり、見映えのしない役を演じ切ります。
これらのポップス歌手の参加は、
契約する相手が映画会社という強者でなく、
個人なので、
「映画の事業主は、自分たちだ」みたいな
浅ましいことを考えた上でのものではないでしょう。
きっと、演劇というアートを通して自己表現したかったのだろうと思います。
レ二―・クラビッツは、健康オタクで「彼女募集中のナース」です。
マライヤ・キャリーは、ソーシャル・ワーカーです。
レ二―と比べ、マライヤの方が幾らか格好よろしいが、
しかし、実は、女性版「刑事コロンボ」といった役どころです。
どすの利いた声で
「“家庭”と聞いて何が思い浮かぶ?」
などと、ある意味、少女を追い詰めます。
刑事コロンボですからね、もちろん、スッピンですわ。
信じられないでしょ?
物語への惚れこみがなければ、首を縦に振らなかった役柄のはずです。
子どもを虐待する母親役は、コメディアンのモ二―クが演じます。
これがまた、その迫真の演技力が見ものです。
怖いですよ・・・
コメディアンとしてはもう舞台に立てないのでは、
と心配になるほどむごい女の役を演じます。
さて、この映画を観終わって感じたことですが、生き抜く勇気だけでなく、
人としての気品をさえ与えられた気がしました。
まだ観ておられないなら、是非どうぞ。
僕のお勧めです。
ただ、R-15指定とかで、
ご家族では観に行かない方がいいのかも。
その点は、ご注意のほどを。

私もこの映画は見たいと思っています。
でも、内容がハードですよね。
覚悟して見んといけん映画じゃと思っています。
でも、お父さんにレイプされるいうのが信じられません。
色々困難なことに立ち向かっていく主人公に女性の方々は共感するけん、女性の方が多かったのでしょうね…
男性はおられんかったんでしょうか…?
最近、忠太さんの表現ちょっとエロ入ってますど。
そういうの、女の子はひきますど~~。
気をつけておくんなまし(笑)
…加速させたのは私じゃありませんよね……?(苦笑)
“一人だけで”という兵は、僕一人でしたね。
しかし、行った甲斐はありました。学ぶものが多かったです。映画を見て、過酷な体験があればこそ、人は光りえるんだな、と実感しました。
なお、この映画、実話を基に作られています。如何に事実が息苦しくとも、素直に受け止める必要があると思います。
ところで、僕のブログ記事、エロいですか?
どの点で、そう思われたのでしょうね。よくわかりませんが、きっと地が出たんでしょう。言い訳はしません。自分が聖人君子でないことは、この僕が一番よく承知してます。