のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

日本で、あまりに蔑ろにされている生存権。そこには、大きな認識不足がある

2016年03月22日 12時55分35秒 | 福祉の貧困
古道具上海リル @liruko さんのツイート。

――店に来る若者があまりにもカツカツすぎる。昨日も2000円の鞄を3カ月3回分割で買ってくれた人がいた。憲法の「健康で文化的な生活」とはカツカツの生活のことではなく、映画やライブや演劇や旅行行ったり本やCD買えたりすることも含まれる、というコンセンサスがほしい。でないと文化は死ぬよ〔13:59 - 2016年3月18日 〕――

「最低限度」という言葉の上っ面のイメージに引きずられて、

憲法25条(生存権)の趣旨が捻じ曲げられているように思います。

ちなみに、

条文は、次の通りです。

憲法第25条)
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
この条文を解釈するに当たって

無視すべきでないのは、

憲法第13条前段)
すべて国民は、個人として尊重される。

という規定と思います。

生存権は、

社会権の範疇に分類されます。

社会権の意義は、

その権利の誕生の背景を考えることで、

理解出来ます。

すなわち、

富める者と貧しき者との格差が開き、

その格差が個人がどんなにがんばって努力しても埋められないとすれば、

公正な競争が疎外されます。

その場合、

国家が介入し、格差故の不合理を排除する

必要があります。

そういう要求から是認されているのが

社会権です。

そして特に生存権は、

名前からして想像つきますように

「生存」が

保証される権利です。

ただ、その中身を考察するに当たっては、

上に述べましたように、

憲法第13条との関係を無視すべきではありません。

ポイントは、

「人はパンのみにて生きるにあらず」

という価値観の共有です。

キリスト教の経典にある言葉だからイヤというのであれば、

「金のために魂は売らない」

と言い直してもいいでしょ。

この世界観は、

日本人には強調しても強調しても

強調しすぎではないです。

なぜなら、

日本国民は、

年間3万人も自死するという現実があるからです。

この数、

米国の2倍、タイの3倍、ギリシャの9倍、フィリピンの12倍

だそうです

(拙稿「レネ・ダイグナン監督 映画『自殺者1万人を救う戦い』  @日本」

に掲載している動画(ビデオタイム、2:30~)視聴。*http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/63bbab50057a26df15a1dd7513dc6c37)。

米国という、

あの大きな国と比較してさえ、

2倍も死ぬってこと、信じられます?

日本では、

生き甲斐が無視されすぎです。

浜矩子教授が「decent」という英単語を使って、

「健康で文化的な最低限度」という表現の意味するところを説明されています。

☆ 記事URL:http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/30ff335e921f70dc731d7ca259200ff8

すなわち、

「――最低限の生活」とは

「まとも」であることだと説明されます。

知的障害者の

処遇のやり方をめぐって

「ノーマル(普通)」

であることが叫ばれてます

(「ノーマライゼーション」とは、日本語としてはこなれてませんが、

「普通化する動き」と訳していいでしょう)。

座敷牢に

閉じ込めるようなこと、

ノーマルとは言えないでしょ?

だからです。

経済的弱者についても同じことが言えるのです。

自分は、

普通に扱われていないという意識が生じるときって、

個人としての尊厳性が同時に奪われています。

それは、

「ノーマル(普通)」でない状態なんです。

「ノーマル」という、

この概念は、

「私が尊いようにあなたも尊い。あなたが尊いように私も尊い」

という人間の社会性(立場の互換性)の原点に

立ち返るってことです。

決してこれは、成功者の足を引っ張ることではないのです。

憲法解釈として、

「――最低限」という言葉は、

尺度として

量的に考えるのでなく、

質的に

個人として尊重される必要にして十分な条件として

考えるべきです。

そうでないと、

「まとも」という概念が収まらないでしょう。

今、話題の

保育園の問題に即して言うと、

――保育園とか介護施設の趣旨って、子育てや介護の負担を少しでも軽くしてあげて家族に人間らしい暮らしを取り戻してもらおうということであるべきだよね。生活保護と同じく、政府の考え方って、国のカネを使う人は生かさず殺さずのギリギリであるべきだ、というのはものすごく変な考え方だと思う。〔20:37 - 2016年3月23日 〕――

ということになります

(kaz hagiwara(萩原 一彦)@reservologicさんのツイート参照 )。

また、

「弱者の保護」という視点でばかりで

考えてはいけません。

「強者の保護」でもあるのです。

いずれにしても

個人は、

国家に依存する必要がありません。

換言すれば、

鎖につながれる必要などないのです。

それが社会的コンセンサスであってこそ、

強者も、真に強者であり得ます。

この対し、

新自由主義者の人たちって

判で押したように

「国に頼るな」

と宣言したがります。

酷い人になると、

ケネディの演説にある

「Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country.(国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい)」

という言葉を、

まるで彼が“滅私奉公”を訴えたかのように宣伝している人がいます。

元ミス東大さんらしいですが、

現在は、

まるで、○嫁です。

詭弁を弄してばかりいるから、人間離れした顔になったのでしょう。

無茶苦茶言うの、

大概にして欲しいです。

ケネディって、

民主主義が背広を着て歩いているような人です。

“滅私奉公”は語らんですよ。

こんな風に

ケネディの本意を踏み躙って伝える

「国に尽くせ」という

国民への指示、または、命令って何でしょう。

この要請って、自己責任論の裏返しの表現ですよね。

実は、

これらの上から目線の人らが犯している

致命的な論理矛盾は、

忘却しているある事実から生じています。

それは何かと言うと、

「自分こそが国に依存している」という事実です。

「利権」絡みで、

寄生虫のごとく富を吸い取ろうとしているのは、

依存者の発想です。

そこを直視したくないから、

必要以上に経済的困窮者を攻撃してしまうのだ

と思います。

これにつき、「教えて塾長!」というサイトにおいて、

伊藤真氏は、

25条を説明して

適切に

――国家に依存して貧困を救済してもらう恩恵的権利というよりむしろ、理不尽な政策や社会構造自体を排除する権利――

だと指摘されます。

☆ 記事URL:http://www.magazine9.jp/juku2/090415/

この観点は、

とても秀逸ではないでしょうか。

すなわち、格差は、

蓄財に勤しむ老人や貧しくなろうとした若者の願望によって引き起こされた結果でなく、

国民が依存する、

その政府によって作り出されたものなのです。

したがって、

政府に対する依存心を断ち切り、逆に、

――憲法、言論活動、投票行動などを通じて国家をコントロールする――

という逆転の発想ないしその気概が肝だ

ということになります。

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