のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

テレビ朝日世論調査 / 「安倍内閣支持率"5割切る"」 (13/07/16)

2013年07月17日 15時10分27秒 | Weblog
安倍内閣支持率"5割切る"政権発足後初・・・(13/07/16)


それらしい世論調査です。

しかし、信用できない

と思う気持ちが

強く、

世論誘導だとしか

受け取れません。

昨年の総選挙のこと

考えると、

また選挙で

インチキをするんだろうな

という思いが

心の奥底から噴き上げてきます。

しかし、そんなにも信頼できない選挙なのに

なぜ、有権者は、

投票権を

放棄してはならないか――。

思うに、

政治活動の当事者になるためです。

たとえインチキな

開票行為が

待っているにしても

投票に臨むことで、

開票の茶番劇を

暴く、

ないしは笑う、

当事者としての

リアリティを取得するのだ

と思います。

同じインチキでも、

その場に居合わせることで

見え方が

変わってきます。

例が悪いですけど、

死刑執行人のこと考えて見て下さい。

5人ほどの

人間が同時に

人を吊るすボタンを押すとします。

回線がつながっているのは、

1人です。

他4人は、結果的に、

その場に居合わせただけです。

しかし、“そこにいる”意味は充分過ぎるほど

あります。

「人を死に至らしめる」

行為の重さを

そうやって

分担することが

“文化”だからです。

善悪を別にして

責任を負いたくないことが

あります。

選挙とは、

そのような

(選び損ねた)

という判断の過ちを

みんなで

引き受ける技術ではないでしょうか。

だからこそ投票する人間は、

上のような

判断の過ち以外にも、

もし、「選挙」という

行政行為そのものにインチキがあるならば、

それを支える一員として

十字架を

背負うことになります。

社会的な動物としての

人間の

ただの習性に過ぎないものが

そうやって、

文化的な意味を

獲得するのだと思います。

言葉を変えれば、

ここまで

とんまな社会を作った

責任の一端が

自分にもあると認めればこそ、

逃げないで

受けて立ちます。

ところで、投票を

棄権する人に

無党派層が

多いと聞き及びます。

その方たちに一言。

誰かに

投票しても

それが個人への

信任である限りにおいて

無党派層であることに

変わりありません。

個人が

それぞれに無党派であるわけです。

どういう理由が

あって無党派のなのかは

問うところではありません。

政党に対して

信認の気持ちを表明するのが

憲法の

保障する政治信条の

積極的自由なら、

無党派でいることは、

消極的自由の現れです。

衆院選と違い、

参院選の場合は、

比例区においても

その自由が

確保されています。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿