TBSラジオ『爆笑問題の日曜サンデー』で、
爆笑問題の太田光さんが
「(手紙を)手渡しするっていう行為は、
日本人が昔から持っている
畏れみたいなものを感じない人の行為のような気がする」
と発言したようです。
この人が
“畏れ”
という単語を
使うんだな、と逆に驚きました。
ただ、申し訳ないけど、
共感できません。
思うに、山本太郎さんには、
畏れが
ないのではなく、
どんな権威を前にしても
手も出た、
足も出たと言うことでしょ?
それは、
背中に背負っているもの、
もしくは、
背負おうとしているものの
違いと言えます。
憲法を
世界遺産にしようとする太田さんにとって、
天皇も世界遺産なんでしょう。
話しかけるなどは、
そこで
パンツを脱ぐ行為に
等しいと
おっしゃっておられるわけですな。
しかし、
そのような理解が
好ましいのでしょうか。
「世界遺産」という性格付けをする限り、
そこに実際的な有用性を
認めないわけでしょ。
しかも所詮、
太田さん自身、
評論家に過ぎません。
積極的に
活動を期待する発想がないわけですね。
しかし、
王権の国、
イギリスの王族は、
案外に
社会に関わって、
生きてらっしゃいます。
すなわち、
イギリスなど、
王立の名で
文化的な貢献をする
施設が
多く建てられています。
日本では
ほとんどありません。
その点、
一考に値します。
だって、
歴史的に見ても、
古代から
救貧施設が
天皇の権威の下に
たくさん建てられたからです。
大阪は四天王寺
近くの「悲田院」の地名などは、
その名残りでしょう。
古来より
歴史の輝きの中で、
優しい光を発しているのは、
天皇なんです。
だから弱者である子ども、
生活に追われて
やむなくフクイチで
働いている
労働者にお力を
お貸し下さいと訴えるのは、
むしろ、
太古の思想に照らして
自然と思います。
ただ、
天皇ご自身が
庶民に
そう願われたところで、
応えようがない…
つまり、内閣の判断を待たないと何もできない――
という制度上の建前が
あるだけの話です。
爆笑問題の太田光さんが
「(手紙を)手渡しするっていう行為は、
日本人が昔から持っている
畏れみたいなものを感じない人の行為のような気がする」
と発言したようです。
この人が
“畏れ”
という単語を
使うんだな、と逆に驚きました。
ただ、申し訳ないけど、
共感できません。
思うに、山本太郎さんには、
畏れが
ないのではなく、
どんな権威を前にしても
手も出た、
足も出たと言うことでしょ?
それは、
背中に背負っているもの、
もしくは、
背負おうとしているものの
違いと言えます。
憲法を
世界遺産にしようとする太田さんにとって、
天皇も世界遺産なんでしょう。
話しかけるなどは、
そこで
パンツを脱ぐ行為に
等しいと
おっしゃっておられるわけですな。
しかし、
そのような理解が
好ましいのでしょうか。
「世界遺産」という性格付けをする限り、
そこに実際的な有用性を
認めないわけでしょ。
しかも所詮、
太田さん自身、
評論家に過ぎません。
積極的に
活動を期待する発想がないわけですね。
しかし、
王権の国、
イギリスの王族は、
案外に
社会に関わって、
生きてらっしゃいます。
すなわち、
イギリスなど、
王立の名で
文化的な貢献をする
施設が
多く建てられています。
日本では
ほとんどありません。
その点、
一考に値します。
だって、
歴史的に見ても、
古代から
救貧施設が
天皇の権威の下に
たくさん建てられたからです。
大阪は四天王寺
近くの「悲田院」の地名などは、
その名残りでしょう。
古来より
歴史の輝きの中で、
優しい光を発しているのは、
天皇なんです。
だから弱者である子ども、
生活に追われて
やむなくフクイチで
働いている
労働者にお力を
お貸し下さいと訴えるのは、
むしろ、
太古の思想に照らして
自然と思います。
ただ、
天皇ご自身が
庶民に
そう願われたところで、
応えようがない…
つまり、内閣の判断を待たないと何もできない――
という制度上の建前が
あるだけの話です。
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