電気ミント (I reject Abe) @denki_minto さんのツイートだ。
――便所レベルのただの落書きを大犯罪みたいに報道してる大本営的マスコミが怖い。 RT @asahi 首相ポスター脇に「平成のA級戦犯」 器物損壊容疑 http://t.asahi.com/if5q 〔20:20 - 2015年9月21日 〕――
言論において
支配的なマスコミは、
安倍某の議会での時間潰しな答弁を
問題にしたことは、一度もない。
あれは、
明白な言葉の牛歩戦術であったにもかかわらず、だ――。
議論して
噛み合わないことが
彼にあっては自慢だったと言うしかない。
しかし、
それを咎めだてしない
無批判な態度が言論界で貫かれた。
では、マスコミは、
終始、無言だったのか――。
野党の廊下での鴻池委員長の通行を妨害しただの
抵抗を責め立てる。
いわく、暴力的だ、と。
では、とことん、暴力を糾弾するのかと言うと、
そうではない。
佐藤正久という自衛隊上がりの、
武術を使った
暴力的制圧には沈黙を守る。
こんな風に
権力よりな発言、行動のみが許される
不正義は
見逃されていいことなのか。
国会の廊下で
野党の議員が立ち並び問責する程度のことを
“暴力”と呼び、
憲法無視という首相の無頼を見過ごすだけでなく、
批判者を騙し打ちにする
姑息な計略が公然となされている…
そして今、国会を離れ、
まるで重箱の隅を突くような攻撃の口実は、
「落書きするな」
ということ。
一体、日本には
少数派の意見陳述の権利はないのか。
議論が成り立たないとき、
どうして言いくるめられたことにされなければならないのか。
もし、抵抗することが
許されないなら、
少数者は、終始、笑われ、侮辱され、誤魔化される存在になるぞ。
一体に、日本の為政者に議論する心があったのか。
彼らの
頭にあるのは、
勝ち負けだけだった。
現に、
負けそうだから、
「憲法改正の発議は無理なので解釈改憲」
なんて抜け穴で、
憲法から憲法の精神を抜き去ろうとした。
あらゆるルールの
根柢になる「理」を蔑ろにして
「利」に走ったのは、
誰だったのか。
廃案にするには“時間稼ぎ”しかなかったのだ。
「議論しました」
というアリバイを作るために
200時間という
時間の浪費を安倍某に許したくせに、
「法案を通す」
ために
1分1秒の無駄を許さず、
牛歩を責める。
あるいは、投票に際して数珠を持っていたことを
国会の冒涜だと責める。
しかし、真に冒涜的だったのは、
「真理」を
軽んじる与党ではなかったのか。
戦争法案に
「平和のため」
という厚化粧を施し、
法案の危険を隠そうとしたのは誰か。
暴挙を
成し遂げた今、
「落書き」を騒ぎ立て、
規制しようとする。
しかし、そこに書かれてあることに
嘘が混じっているだろうか。
考えて見よ。
落書きに
「首相は、平成のA級戦犯」とある。
何のA級戦犯?
憲法破壊のだ。
そこにわずかにでも虚偽が混じっているか。
安倍某の鼻の下に
ちょび髭がついている。
それは、
「知らぬ間に」
改憲しようとする小ヒットラーを
揶揄したものだ。
その揶揄は不当だろうか。
為政者は、
その行為を犯罪と言って
取り締まる前に、
そういう形でしか政治的意見を
表明できない
追い詰められた庶民の声に耳を傾けるべきではないのか。
然るに、
現実は、逆の方向に向かって進んでいる。
つまり、本来ならば、
庶民を指す
“サイレントマジョリティ”
という言葉は、
マスコミや警察といった、
今や権力の手足となった組織に
あたかも、
次の事柄を命ずるがごとくだ。
すなわち、
政・財・官など、権力に近い者の、
声なき声を拾うために
存在せよ、と。
そしてその声が求めるのは、
デモ等で
抗う庶民の声の抹殺だ!
国会前で、
確かに
「民主主義とは何だ」
という群集の声が響き渡っている。
しかし、
だからと言って
彼らがサイレント・マジョリティを構成する
人びとの一部でなくなったわけではない。
何とならば、
彼らの十倍、百倍する者の声を
背中に背負っているからだ。
庶民を弾圧しよう、
監理しようとする側の人間は、
頭の中にある
人と人の
関係性の理解が逆になっている。
サイレント・マジョリティという用語は、
もともと、
沈黙を強いられる
庶民の声を拾うべく登場したはずだった。
今の日本の状況は、
為政者を
サイレント・マジョリティととらえ、
彼らの
気持ちを代弁すべく、
警察やマスコミが動いている。
すべてが逆なんだな、
白が黒。黒が白…
――便所レベルのただの落書きを大犯罪みたいに報道してる大本営的マスコミが怖い。 RT @asahi 首相ポスター脇に「平成のA級戦犯」 器物損壊容疑 http://t.asahi.com/if5q 〔20:20 - 2015年9月21日 〕――
言論において
支配的なマスコミは、
安倍某の議会での時間潰しな答弁を
問題にしたことは、一度もない。
あれは、
明白な言葉の牛歩戦術であったにもかかわらず、だ――。
議論して
噛み合わないことが
彼にあっては自慢だったと言うしかない。
しかし、
それを咎めだてしない
無批判な態度が言論界で貫かれた。
では、マスコミは、
終始、無言だったのか――。
野党の廊下での鴻池委員長の通行を妨害しただの
抵抗を責め立てる。
いわく、暴力的だ、と。
では、とことん、暴力を糾弾するのかと言うと、
そうではない。
佐藤正久という自衛隊上がりの、
武術を使った
暴力的制圧には沈黙を守る。
こんな風に
権力よりな発言、行動のみが許される
不正義は
見逃されていいことなのか。
国会の廊下で
野党の議員が立ち並び問責する程度のことを
“暴力”と呼び、
憲法無視という首相の無頼を見過ごすだけでなく、
批判者を騙し打ちにする
姑息な計略が公然となされている…
そして今、国会を離れ、
まるで重箱の隅を突くような攻撃の口実は、
「落書きするな」
ということ。
一体、日本には
少数派の意見陳述の権利はないのか。
議論が成り立たないとき、
どうして言いくるめられたことにされなければならないのか。
もし、抵抗することが
許されないなら、
少数者は、終始、笑われ、侮辱され、誤魔化される存在になるぞ。
一体に、日本の為政者に議論する心があったのか。
彼らの
頭にあるのは、
勝ち負けだけだった。
現に、
負けそうだから、
「憲法改正の発議は無理なので解釈改憲」
なんて抜け穴で、
憲法から憲法の精神を抜き去ろうとした。
あらゆるルールの
根柢になる「理」を蔑ろにして
「利」に走ったのは、
誰だったのか。
廃案にするには“時間稼ぎ”しかなかったのだ。
「議論しました」
というアリバイを作るために
200時間という
時間の浪費を安倍某に許したくせに、
「法案を通す」
ために
1分1秒の無駄を許さず、
牛歩を責める。
あるいは、投票に際して数珠を持っていたことを
国会の冒涜だと責める。
しかし、真に冒涜的だったのは、
「真理」を
軽んじる与党ではなかったのか。
戦争法案に
「平和のため」
という厚化粧を施し、
法案の危険を隠そうとしたのは誰か。
暴挙を
成し遂げた今、
「落書き」を騒ぎ立て、
規制しようとする。
しかし、そこに書かれてあることに
嘘が混じっているだろうか。
考えて見よ。
落書きに
「首相は、平成のA級戦犯」とある。
何のA級戦犯?
憲法破壊のだ。
そこにわずかにでも虚偽が混じっているか。
安倍某の鼻の下に
ちょび髭がついている。
それは、
「知らぬ間に」
改憲しようとする小ヒットラーを
揶揄したものだ。
その揶揄は不当だろうか。
為政者は、
その行為を犯罪と言って
取り締まる前に、
そういう形でしか政治的意見を
表明できない
追い詰められた庶民の声に耳を傾けるべきではないのか。
然るに、
現実は、逆の方向に向かって進んでいる。
つまり、本来ならば、
庶民を指す
“サイレントマジョリティ”
という言葉は、
マスコミや警察といった、
今や権力の手足となった組織に
あたかも、
次の事柄を命ずるがごとくだ。
すなわち、
政・財・官など、権力に近い者の、
声なき声を拾うために
存在せよ、と。
そしてその声が求めるのは、
デモ等で
抗う庶民の声の抹殺だ!
国会前で、
確かに
「民主主義とは何だ」
という群集の声が響き渡っている。
しかし、
だからと言って
彼らがサイレント・マジョリティを構成する
人びとの一部でなくなったわけではない。
何とならば、
彼らの十倍、百倍する者の声を
背中に背負っているからだ。
庶民を弾圧しよう、
監理しようとする側の人間は、
頭の中にある
人と人の
関係性の理解が逆になっている。
サイレント・マジョリティという用語は、
もともと、
沈黙を強いられる
庶民の声を拾うべく登場したはずだった。
今の日本の状況は、
為政者を
サイレント・マジョリティととらえ、
彼らの
気持ちを代弁すべく、
警察やマスコミが動いている。
すべてが逆なんだな、
白が黒。黒が白…
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