川村妙慶さんのエッセイ(PHP12月号)に、この「一水四見」という熟語が紹介して
ありました。仏教用語です。意味は、次のようです。
――
天人がその水を見ると、瑠璃の鏡に見える
人間が見ると、飲み水に見える
魚が見ると、住みかに見える
餓鬼が見ると、炎と見える
――
ここに記されてないのは、仏なら何を見るか、ですね。
何を見るんでしょうね?
いや、僕は、何を見たらいいのでしょう。
チアーは、水を見るのが好きで、水仕事を始めると、
このように炊事場にやって来ては水がどこに流れていくのか探っています。
案外に仏さまの目線に近いかも、ですね。
ありました。仏教用語です。意味は、次のようです。
――
天人がその水を見ると、瑠璃の鏡に見える
人間が見ると、飲み水に見える
魚が見ると、住みかに見える
餓鬼が見ると、炎と見える
――
ここに記されてないのは、仏なら何を見るか、ですね。
何を見るんでしょうね?
いや、僕は、何を見たらいいのでしょう。
チアーは、水を見るのが好きで、水仕事を始めると、
このように炊事場にやって来ては水がどこに流れていくのか探っています。
案外に仏さまの目線に近いかも、ですね。
仏さまの目線のチア~ちゃんなの??
神様かもしれません(^^)
幸福の神様~~♪
天人がその水を見ると、瑠璃の鏡に見える
人間が見ると、飲み水に見える
魚が見ると、住みかに見える
餓鬼が見ると、炎と見える
まだまだ中学生のイチゴには難しいけど・・
いいことばなんでしょうね♪
魚が好きそうだし・・・
人間のように悪い心は一つもないので
仏様なのかもしれないですね(^_^)
中学生なの? 知らなかった・・・
親父的気分でちょこっと解説。
この言葉ね、たとえば、特定のある人が嫌いになったとするでしょう。そのとき、自分の心を覗いたら分かると思うけど、その人の欠点に目が行ってるんです。でも、他のある人は、その人のいいところばっかり見ているとしたら、どうでしょう。あの人の気持ちが理解できないで、済ましていいものでしょうか。ある人から見て欠点ばかりの人が、他のある人から見ると長所ばかり・・・
これでは、話が通じません。しかし、両方の見方を同時に受容したとき、対話が成立します。
このように、人は皆、自分の中で対話しながら生きています。
落ち込んだとき、「なぜ、自分だけ?」という思いにとらわれがちです。そんなとき、「いよいよ面白くなってきたね」という見方を取り込むことができたら、無用な苦痛から解放されるでしょう。
ある困難に直面したとき、自分の力で、それを克服しようとしますよね。そのとき、そのような自分の思いのため苦しむわけです。
つまり、この熟語の教えるところは、自分の力の限界を越えようと思えば、「我こそは」というこだわりを捨てなさいということだと思います。
あ~って思い当たることが
私は最近魚か餓鬼だったかな~
いけない、いけない。
反省、反省です!
目からウロコです
チアーちゃんは、そうではないようですね
あるいあは、まだ子猫なので、好奇心の方が勝っているのかな?
仏なら、衆生の煩悩を洗らい流したあとの
神々しい光に見えるでは?
なんて、いろいろ想像してしまいます~
僕のブログ記事があずさんに、いい刺激になったようで嬉しいです。