のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

メッセージのないメッセージ性

2010年09月05日 08時50分14秒 | Weblog
昔、お袋に連れられて、寺の施餓鬼法要に出かけました。

沢山な人がお参りしてました。人いきれで部屋がむっとしてました。

夏ということもあったでしょう、

皆さん、手に手にハンカチなどお持ちになり、

滴り落ちる汗を拭ってらっしゃいました。

大きな扇風機が一つあり、

首を振って、涼しい風を送ってくれていました。

お経の読誦の声など、なんのその、

僕が心に願っていたのは、

扇風機の首がこちらを振り向いてくれることだけでした。

淡々と風を送る扇風機は、まるで菩薩の如くでした。

goo友のkayoさんの

「八月のあ・ら・か・る・と その5」

という記事を読んで、

そのときの体験が蘇りました。

そして、ふっと思い起こしたのは、

ゴッホの

「郵便配達人 ジョゼフ・ルーラン」

という絵画でした。

僕は、正直言って、この作品に感銘を受けたことはなかったです。

描かれているのが平凡な庶民だったから?

違います。

“仕事中”という味気ない時間帯にいる、

趣味もなく、伝えるべきメッセージも持ち合わさない、見るからにしょぼい、

つまらなさそうなモデルに思えたからです。

でも、それって、とんでもない考え違いかも、ですね。

最近、ようよう、それが飲み込めるようになってきました。

つまり、ゴッホという画家が終生、追い求めたテーマは、

普通の人の

ありふれてはいる、

しかし、皮膚がなめし皮になるような感触ある孤独ではなかったかということ、

その孤独は、

ゴッホといった、いわゆる表現者が抱え込んでいるものとは異質な、

日常に沈み込む孤独なんですね。

言うなれば、夏の暑い盛り、

首を振り振り、涼しい風を送り続ける扇風機の孤独です。

そう考えて、改めてゴッホの絵を見ると、不思議に癒されるものがありました。






blogram投票ボタン

最新の画像もっと見る

コメントを投稿