のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

牛かもしれん

2009年09月17日 00時06分57秒 | Weblog
 前の記事で「暗証番号が“知らぬ内”変更された」と書きながら、気づかなかっただけで、自分自身が変更したのではないかと、ふっと考えてしまいました。それで思い出したのですけれど、子供の頃、誰かから「おまえは牛だ」と指摘されたらどうしようと悩んでおりました。どうも自分が人間だという思いに根拠がないと、ある日のこと、思ったのでありました。笑われるかもしれませんが、結構、真剣に悩んでました。だから、今回も、「ひょっとしておまえ、牛?」と訊かれそうな気がし、修理担当の技術者相手に詰め寄れなかったのでした。

 難儀な性格してますね~~~~

 僕は、牛かもしれない…、こんな思いに取りつかれていたなんて、人にはなかなか言えません。インターネットに対する不信感に囚われながら、ブログを止めなかったのは、こんな打ち明け話ができるのはここだけ、という単純な思いからでは説明し切れません。でも、丸っきりの嘘というのでもないです。

 さて、「牛かもしれん」という思いに何か意味があったのか――。

 僕は、生まれついての異邦人だったのですかね。うわべとは異なる人格を抱え込んでいるという意味では、一人二役を演じていたのかも。。。

 ところで、一人二役と言えば、19世紀末の文学にその典型があります。有名なところでは、デュマの「岩窟王」(1848)、マーク・トゥエインの「乞食と王子」(1881)、スティーヴンスンの「ジーキル博士とハイド氏」(1886)などです。コナン・ドイルが描く推理小説にも、一人二役のキャラクターが登場します。異邦人感覚と言うのは、居場所が本来の自分にふさわしくない点において、一人二役を演じるのに似た面があるやもしれません。

 井上ひさし氏が一人二役の物語が描かれた19世紀末から20世紀初頭にかけての時代状況を説明して、次のように言ってます。

 ≪「個」の確立といえばかっこがいい、民主主義思想といえばこれまた様子がいい。それはそれで歴史の前進だが、正直いって息が詰まる。その息抜きがこの一人二役だった。人びとには「個」の確立というご立派な思想をご破算にする遊びが必要だったのであり、そして同時に「個」の確立なしには一人二役は成り立たない≫(小説「犯罪調書」所収・「ドル―ス=ポートランド株式会社事件」から)。

 「ご破算」という表現を見て、ハッとするものがありました。井上氏の文章にあるように「牛かもしれん」という思いは、“現実”を確かにご破算にしてます。ただ、僕にとっては息抜きでもなければ、遊びでもありませんでした。「現実」に溶け込めない、どこか宙に浮いている自意識、自我が生み出した幻影のようなものでした。言うなれば、やむなくして出てくる意識です。辛かったです。

 ん~、またムズいことを書いてしまった。。。 まぁ、何を言いたかったのかと言うと、どんな不都合なことがあっても、受け取りようによっては自分の利益に誘導できるということです。少なくとも思考実験はできます。

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2 コメント

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でもわからん! (shell blanc)
2009-09-17 12:13:37
え。。。へ・・・・わからない。。。

忠太さんは牛だったのか。。。

フッ。。。。何とも。。。。異邦人だとか*

ジキルとハイドだ??。。。もう・・・・

あ~。。。。。コメント入れづらいです。

とりあえず、お帰りなさい☆
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人間の皮をかぶった牛 (忠太)
2009-09-17 13:20:19

今流に言えば、草食系男子ってことになるのですかね。
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