国民の思いは、
「希望 VS 立民」の関係によく現れています
(下記〔資料〕参照)。
安倍政権打倒の旗印より、
確実な
「改憲」「安保法制容認」という公約を
拒絶したってことです。
これが言うなれば各論です。
総論は、
自民圧勝です。
この二つの方向は、
互いに全く相容れません。
希望の党の支持者は、
枝野の裏切りさえなければ、
希望が圧勝した、自民を打ち倒せたというのは、
それこそ
妄想に近い皮算用です。
今回、野党が獲得票は、
立民(55)+希望(50)+無所属(22)=127(<自民(284))です。
このデータを見る限り、
仮に枝野氏が立民を結党せず、対立がなかったとしても
自民に勝ちようがなかったのです。
にもかかわらず、
しつこく希望の支持者は、
枝野氏に対する敵愾心満々で、
彼さえ分派しなければ、
自民に勝てたという妄想を相変わらず
振り撒くのは、
明らかに利敵行為です。
僕は、
今回の選挙戦を通して学ぶべきは、
今までに見られない自民に対する不信感の強固さです。
ちなみに、
AとB、
互いに不信感が募っているとき、
たとえば、
Aが自分の選択如何によって相手方Bを利する可能性があるとき、
楽観的に考えて、自分の取り分の大きくなる方を選ぶ(1)でしょうか
それとも、悲観的に考えて、自分の損失を小さくする(2)という選択肢を選ぶでしょうか。
思うに、
切羽詰まっていればいるほど、あるいは、対立が深刻であるほど、
(2)を選ぶのではないでしょうか。
すなわち、何が自分の生命線かを考え、そこを死守することで
損失を最小限にしょうとするのではないですか
(この問題は、
自分の胸に手を当てて考えて下されば分かると思います。
相手を脅威と考えれば考えるほど、積極的に大きな網を張るのではなく、
「ここは譲らない」
と数えて行くような消極的思考法を取るはずです)。
希望が
呼び水としたのは、
「自民の打倒」です。
これに対して、
非・希望が見ていたのは、
「安保法制」という既成事実に圧し潰され、
「改憲」の流れに抗しきれず、押し流されてしまうことです。
その場合に生じる背筋が寒くなるような事態の具体性と
前者の抽象性と比較して考えて見て下さい。
そうすれば、
後者の立場の危機意識の強烈さが了解できます。
そしてそこまで理解が進むと、
自民党が圧勝する不自然さが際立って見えます。
国民がまるで2分されていて、あ互いに水と油のようです。
なぜ、こんなことになっているのか。
答は、一つですよ。
自民党圧勝というデータは、
作られたものだということです。
消極的に、
これ(憲法と国防の在り方)は譲渡さないという態度を示している国民と、
漠然と自民党を支持する国民との間に
齟齬があり過ぎます。
自然の姿において
大きな部分と小さな部分で
相似形が
あると言うでしょ
(→「フラクタル」現象)。
社会現象でも同じと思います。
つまり、「希望 VS 立民」の関係では、
国民意識として、
希望に対する警戒心がとても強いことが確認されました
(小さな図形)。
では、「自民 VS 反・自民」の関係(大きな図形)ではどうか。
やはり、自民に対する警戒感が
データから窺われるのじゃないでしょうか。
しかし、そんな形跡はない
という点は、
むしろ、情報に虚偽が混じっている証拠と理解すべきじゃないですか。
僕に言わせれば、
「尋常ならざる力」が選挙のとき、働いたのです。
それがまさに
開票時に作用したムサシにプログラミングされたものの正体ではないですかね。
この観点からすれば、
過度な希望の「恨み・つらみ」の強調は、
インチキ選挙という
問題から目を背かせる働き以外の何物でもないと思われます。
〔資料〕
「衆院選で大きく変わった野党勢力をどう考える?」
DAYS JAPAN Vol14 No.12 (2017年DES 12) コラム「Outlook」:斉藤美奈子さん
「希望 VS 立民」の関係によく現れています
(下記〔資料〕参照)。
安倍政権打倒の旗印より、
確実な
「改憲」「安保法制容認」という公約を
拒絶したってことです。
これが言うなれば各論です。
総論は、
自民圧勝です。
この二つの方向は、
互いに全く相容れません。
希望の党の支持者は、
枝野の裏切りさえなければ、
希望が圧勝した、自民を打ち倒せたというのは、
それこそ
妄想に近い皮算用です。
今回、野党が獲得票は、
立民(55)+希望(50)+無所属(22)=127(<自民(284))です。
このデータを見る限り、
仮に枝野氏が立民を結党せず、対立がなかったとしても
自民に勝ちようがなかったのです。
にもかかわらず、
しつこく希望の支持者は、
枝野氏に対する敵愾心満々で、
彼さえ分派しなければ、
自民に勝てたという妄想を相変わらず
振り撒くのは、
明らかに利敵行為です。
僕は、
今回の選挙戦を通して学ぶべきは、
今までに見られない自民に対する不信感の強固さです。
ちなみに、
AとB、
互いに不信感が募っているとき、
たとえば、
Aが自分の選択如何によって相手方Bを利する可能性があるとき、
楽観的に考えて、自分の取り分の大きくなる方を選ぶ(1)でしょうか
それとも、悲観的に考えて、自分の損失を小さくする(2)という選択肢を選ぶでしょうか。
思うに、
切羽詰まっていればいるほど、あるいは、対立が深刻であるほど、
(2)を選ぶのではないでしょうか。
すなわち、何が自分の生命線かを考え、そこを死守することで
損失を最小限にしょうとするのではないですか
(この問題は、
自分の胸に手を当てて考えて下されば分かると思います。
相手を脅威と考えれば考えるほど、積極的に大きな網を張るのではなく、
「ここは譲らない」
と数えて行くような消極的思考法を取るはずです)。
希望が
呼び水としたのは、
「自民の打倒」です。
これに対して、
非・希望が見ていたのは、
「安保法制」という既成事実に圧し潰され、
「改憲」の流れに抗しきれず、押し流されてしまうことです。
その場合に生じる背筋が寒くなるような事態の具体性と
前者の抽象性と比較して考えて見て下さい。
そうすれば、
後者の立場の危機意識の強烈さが了解できます。
そしてそこまで理解が進むと、
自民党が圧勝する不自然さが際立って見えます。
国民がまるで2分されていて、あ互いに水と油のようです。
なぜ、こんなことになっているのか。
答は、一つですよ。
自民党圧勝というデータは、
作られたものだということです。
消極的に、
これ(憲法と国防の在り方)は譲渡さないという態度を示している国民と、
漠然と自民党を支持する国民との間に
齟齬があり過ぎます。
自然の姿において
大きな部分と小さな部分で
相似形が
あると言うでしょ
(→「フラクタル」現象)。
社会現象でも同じと思います。
つまり、「希望 VS 立民」の関係では、
国民意識として、
希望に対する警戒心がとても強いことが確認されました
(小さな図形)。
では、「自民 VS 反・自民」の関係(大きな図形)ではどうか。
やはり、自民に対する警戒感が
データから窺われるのじゃないでしょうか。
しかし、そんな形跡はない
という点は、
むしろ、情報に虚偽が混じっている証拠と理解すべきじゃないですか。
僕に言わせれば、
「尋常ならざる力」が選挙のとき、働いたのです。
それがまさに
開票時に作用したムサシにプログラミングされたものの正体ではないですかね。
この観点からすれば、
過度な希望の「恨み・つらみ」の強調は、
インチキ選挙という
問題から目を背かせる働き以外の何物でもないと思われます。
〔資料〕
「衆院選で大きく変わった野党勢力をどう考える?」
DAYS JAPAN Vol14 No.12 (2017年DES 12) コラム「Outlook」:斉藤美奈子さん
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