〔資料〕
「歴史の偽造は許されない ――「河野談話」と日本軍「慰安婦」問題の真実」
日本共産党幹部会委員長 志位 和夫氏・文
☆ 記事URL:http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-03-15/2014031504_01_0.html
はじめに
日本軍「慰安婦」について政府の見解を明らかにした河野洋平官房長官談話(1993年8月4日、以下「河野談話」)が国政の重大な焦点となっています。
この間、一部勢力を中心に「河野談話」を攻撃するキャンペーンがおこなわれてきましたが、2月20日、日本維新の会の議員は、衆議院予算委員会の場で、(1)「慰安婦」を強制連行したことを示す証拠はない、(2)「河野談話」は韓国人の元「慰安婦」16人からの聞き取り調査をもとに強制性を認めているが、聞き取り調査の内容はずさんであり、裏付け調査もしていない――などと主張し、「新たな官房長官談話も考えていくべきだ」と「河野談話」の見直しを迫りました。
こうした攻撃にたいし、本来なら「河野談話」を発表した政府が、正面から反論しなければなりません。しかし、答弁に立った菅義偉官房長官は、それに反論するどころか、「当時のことを検証してみたい」、「学術的観点からさらなる検討を重ねていく必要がある」などと迎合的な対応に終始し、2月28日には政府内に「河野談話」の検証チームを設置することを明らかにしました。また、安倍晋三首相が、維新の会の議員に対して、「質問に感謝する」とのべたと報じられました。
「河野談話」見直し論は、歴史を偽造し、日本軍「慰安婦」問題という重大な戦争犯罪をおかした勢力を免罪しようというものにほかなりません。
この見解では、「河野談話」への不当な攻撃に反論するとともに、それをつうじて日本軍「慰安婦」問題の真実を明らかにするものです。
「河野談話」が認めた事実、それへの攻撃の特徴は何か
まず、「河野談話」が認めた事実とは何か、見直し派による「談話」攻撃の特徴はどこにあるかについて、見ていきます。
「河野談話」が認めた五つの事実
「河野談話」は、1991年12月からおこなってきた政府による調査の結論だとして、次の諸事実を認めました。「談話」にそのまま沿う形で整理すると、つぎの五つの事実が認定されています。
第1の事実。「長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた」(「慰安所」と「慰安婦」の存在)
第2の事実。「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」(「慰安所」の設置、管理等への軍の関与)
第3の事実。「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」(「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反して」いた=強制性があった)
第4の事実。「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」(「慰安所」における強制性=強制使役の下におかれた)
第5の事実。「戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」(日本を別にすれば、多数が日本の植民地の朝鮮半島出身者だった。募集、移送、管理等は「本人たちの意思に反して行われた」=強制性があった)
これらの諸事実の認定のうえにたって、「河野談話」は、「本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と表明しています。
さらに、「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」とのべています。
「慰安所」における強制使役にこそ最大の問題がある
「河野談話」が認めた諸事実のうち、「談話」見直し派が否定しようとしているのは、もっぱら第3の事実――「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反していた」=強制性があったという一点にしぼられています。(1)「慰安婦」を強制連行したことを示す証拠はない、(2)元「慰安婦」の証言には裏付けはない――こういって「河野談話」の全体を信憑(しんぴょう)性のないものであるかのように攻撃する――これが見直し勢力の主張です。
こうした攻撃の手口そのものが、日本軍「慰安婦」問題の本質をとらえない、一面的なものであることを、まず指摘しなくてはなりません。女性たちがどんな形で来たにせよ、それがかりに本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ、一たび日本軍「慰安所」に入れば監禁拘束され強制使役の下におかれた――自由のない生活を強いられ、強制的に兵士の性の相手をさせられた――性奴隷状態とされたという事実は、多数の被害者の証言とともに、旧日本軍の公文書などに照らしても動かすことができない事実です。それは、「河野談話」が、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」と認めている通りのものでした。この事実に対しては、「河野談話」見直し派は、口を閉ざし、語ろうとしません。しかし、この事実こそ、「軍性奴隷制」として世界からきびしく批判されている、日本軍「慰安婦」制度の最大の問題であることを、まず強調しなくてはなりません。
そのうえで、「河野談話」見直し勢力が主張する、“「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反していた」=強制性があったという「談話」の事実認定には根拠がない”という攻撃が成り立ちうるものであるかどうか。つぎに検討していきましょう。
「河野談話」にいたる経過を無視した「談話」攻撃
この攻撃の第一の問題点は、「河野談話」にいたる経過を無視した「談話」攻撃になっているということです。
日本軍「慰安婦」問題が、重大な政治・外交問題となったのは1990年からですが、それから1993年8月の「河野談話」にいたる経過をみると、つぎのような事実が確認できます。
(注)この見解では、「河野談話」にいたる事実経過の検証などのさいに、河野洋平元内閣官房長官と石原信雄元内閣官房副長官の発言を引用していますが、その出典は下記に記した通りです。
(出典a)『オーラルヒストリー アジア女性基金』(「財団法人 女性のためのアジア平和国民基金」編集・発行)に収録された河野氏のインタビュー(2006年11月16日)。
(出典b)同上書に収録された石原氏のインタビュー(2006年3月7日)。
(出典c)『歴史教科書への疑問』(「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」編)に収録された河野氏の講演と質疑(1997年6月17日)。
(出典d)朝日新聞に掲載された河野氏のインタビュー(1997年3月31日)。
韓国側から「強制連行の事実を認めよ」との訴えが提起される
まず、日本軍「慰安婦」問題で大きな被害をこうむった韓国から、「強制連行の事実を認めよ」という訴えが、さまざまな形で提起されます。
(1)1990年5月18日、韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領(当時)の来日を前にして、韓国の女性団体が、日本軍「慰安婦」問題について「日本当局の謝罪と補償は必ずなされなければならない」との共同声明を発表します。しかし、日本政府は、その直後に国会で「慰安婦」問題が議論になったさい、軍や官憲の関与を否定し、「慰安婦」の実態調査も拒否しました(1990年6月6日)。
(2)1990年10月17日、こうした日本政府の姿勢に対して、韓国の主要な女性37団体が共同声明を発表し、つぎの6項目からなる要求を提起します。
「一、日本政府は朝鮮人女性たちを従軍慰安婦として強制連行した事実を認めること
二、そのことについて公式に謝罪すること
三、蛮行のすべてを自ら明らかにすること
四、犠牲となった人々のために慰霊碑を建てること
五、生存者や遺族たちに補償すること
六、こうした過ちを再び繰り返さないために、歴史教育の中でこの事実を語り続けること」。
(3)1991年8月14日、韓国の元「慰安婦」の一人である金学順(キム・ハクスン)さんが、「日本政府は挺身(ていしん)隊〔「慰安婦」のこと〕の存在を認めない。怒りを感じる」として、初めて実名で証言します。
同年12月6日、金さんをふくむ韓国の元「慰安婦」3人(のちに9人)は、「組織的、強制的に故郷から引きはがされ、逃げることのできない戦場で、日本兵の相手をさせられた」として、日本政府を相手取って補償要求訴訟を提起しました。
日本国内でも、市民団体や研究者による真相究明を求める運動が起こりました。
日本政府、「慰安婦」に政府(軍)の関与認める
こうした事態をうけ、日本政府は、1991年12月から日本軍「慰安婦」問題について本格的な調査に乗り出します。
(1)1992年7月6日、加藤紘一官房長官(当時)が談話を発表し、関係資料を調査した結果として、「慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の衛生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められた」とし、「従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい」と表明しました。
こうして、加藤談話は、「慰安婦」問題での政府(軍)の関与を認めるものとなりました。慰安所の経営・監督にかかわる公文書には、「慰安所規定」も含まれており、「慰安所」における「慰安婦」の生活が自由のない強制的なものであったこと――強制使役であったことも、この調査によって明らかになりました。同時に、加藤長官が、「朝鮮人女性の強制徴用を示す資料はなかったのか」との問いに、「募集のしかたについての資料は発見されていない」と答えたことが、「強制連行は否定」と報道され、談話への強い批判が寄せられます。
(2)この調査に対しては、国内外から「調査が不十分」との批判があがります。とくに、韓国政府は、日本政府の調査を「評価する」と指摘する一方、「全貌を明かすところまでは至っていない」として、(1)今後も日本政府による真相糾明への努力を期待する、(2)韓国政府として独自の調査報告書を発表する――と表明しました。
1992年7月31日、韓国政府は、元「慰安婦」からの聞き取り調査も経て200ページを超える報告書(「日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書」)を発表し、韓国政府として「慰安婦の募集方法」などの追加調査を求めました。
“強制性を立証する日本側の公文書は見つからなかった”
(1)これらの事態を受けて、日本政府は再度、国内だけでなく国外まで広げて「慰安婦」問題の調査をすすめます。
この再調査では、「慰安婦」とされる過程での強制性、すなわち「本人の意思に反して慰安婦とされた」という事実を立証する公文書を見つけることが、大きな焦点の一つとなりました。しかし、日本政府の再調査でも、結局、日本側の公文書に関して言えば、そうした文書を見つけることはできませんでした。
それは、「談話」を発表した河野元官房長官が「女性を強制的に徴用しろといいますか、本人の意思のいかんにかかわらず連れてこい、というような命令書があったかと言えば、そんなものは存在しなかった。調べた限りは存在しなかった」(出典c)とのべ、「談話」をとりまとめる事務方の責任者だった石原信雄元官房副長官が「通達とか指令とかいろんな資料を集めたんですけど、文書で強制性を立証するようなものは出てこなかったんです」(出典b)と証言しているとおりです。
(2)強制的に「慰安婦」とされたことを立証する日本側の公文書が見つからなかったことは、不思議なことでも、不自然なことでもありません。拉致や誘拐などの行為は、当時の国内法や国際法でも、明々白々な犯罪行為でした。政府であれ、軍であれ、明々白々な犯罪行為を指示する公文書などを、作成するはずがありません。かりに、それを示唆するような文書があったとしても、敗戦をむかえるなかで、他の戦争犯罪につながる資料とともに処分されたことが推測されます。
河野氏も「こうした問題で、そもそも『強制的に連れてこい』と命令して、『強制的に連れてきました』と報告するだろうか」(出典d)、「そういう命令をしたというような資料はできるだけ残したくないという気持ちが軍関係者の中にはあったのではないかと思いますね。ですからそういう資料は処分されていたと推定することもできるのではないかと考えられます」(出典a)と同様の認識を示しています。
強制性を証明する日本側の文書が見つからなかったことをもって、強制的に「慰安婦」とされたという事実そのものを否定することは、まったく成り立たない議論です。
強制性を検証するために、元「慰安婦」への聞き取り調査をおこなう
(1)文書が見つからないもとで、日本政府は、「慰安婦」とされた過程に強制性があったかどうかについての最終的な判断を下すため、ここで初めて政府として直接に元「慰安婦」から聞き取り調査をおこなうことを決定し、調査団を韓国に派遣します。そして、元「慰安婦」16人からの直接の聞き取り調査をおこないます。
このように、元「慰安婦」からの聞き取り調査の目的は、強制的に「慰安婦」にしたという日本側の公文書が発見されないもとで、強制されたという主張が真実かどうかを、直接、被害者から聴取することで検証しようとするところにありました。
聞き取り調査の目的がここにあったことは、河野・石原両氏の証言からも明白です。河野氏は、「文書資料を見つけることも大事だけれども、いわゆる慰安婦だったという方から聞き取り調査を丁寧にやる方がいいということで、韓国で聞き取り調査をやることにした」(出典a)と証言しています。石原氏は、「強制性を立証できるような物的証拠」がないもとで、「元慰安婦の人たちにお会いして、その人たちの話から状況判断、心証をえて、強制的に行かされたかどうかを最終的に判断しようということにした」(出典b)とのべています。
(2)そして元「慰安婦」の人たちの証言を聞いた結果、日本政府は、「慰安所」における強制使役とともに、「慰安婦」とされた過程にも強制性があったことは間違いないという判断をするに至ります。そうした判断をするにいたった事情について、「談話」のとりまとめにあたった河野・石原両氏は、つぎのように証言しています。
河野氏は、「話を聞いてみると、それはもう明らかに厳しい目にあった人でなければできないような状況説明が次から次へと出てくる。その状況を考えれば、この話は信憑性がある、信頼するに十分足りるというふうに、いろんな角度から見てもそう言えるということがわかってきました」(出典a)とのべています。
石原氏は、「その報告の内容から、明らかに本人の意に反して連れて行かれた人、だまされた人、普通の女子労働者として募集があって行ったところが慰安所に連れて行かれたという人、それからいやだったんだが、朝鮮総督府の巡査が来て、どうしても何人か出してくれと割り当てがあったので、そういう脅しというか、圧力があって、断れなかったというような人がいた。何人かそういう人がいたので、総合判断として、これは明らかにその意に反して慰安婦とされた人たちが一六人のなかにいることは間違いありませんという報告を調査団の諸君から受けたわけです。総理も官房長官も一緒にその話を聞いたんです。結局私どもは、通達とか指令とかという文書的なもの、強制性を立証できるような物的証拠は見つけられなかったのですが、実際に慰安婦とされた人たち一六人のヒヤリングの結果は、どう考えても、これは作り話じゃない、本人がその意に反して慰安婦とされたことは間違いないということになりましたので、そういうことを念頭において、あの『河野談話』になったわけです」(出典b)とのべています。
こうして、「河野談話」では、朝鮮半島では「(慰安婦の)募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」ことが明記され、「慰安婦」とされる過程でも「本人たちの意思に反し」た=強制性があったことを、認めるに至ったのです。また、他の証言記録や資料も参照した上で、全体状況としては、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」ことが明記されたのです。
「河野談話」の作成は、もちろん河野氏個人によるものでなく、当時の総理大臣、官房長官、官房副長官、外務省、厚生省、労働省など関係省庁などが集団的に検討・推敲(すいこう)し、内閣の責任でおこなったものであることは、河野・石原両氏が証言していることです。
元「慰安婦」証言から強制性の認定をおこなった「河野談話」の判断は公正で正当なもの
(1)「河野談話」見直し派は、元「慰安婦」の証言について、「裏付け調査をしていない」ことをことさらに問題視していますが、これは聞き取り調査の目的を理解しない、ためにする議論です。
すでにのべてきたように、元「慰安婦」に対する聞き取り調査の目的は、日本軍「慰安婦」制度において、女性たちが「慰安婦」とされた過程に強制性があったか否かということを最大の焦点として、その実態と真相を究明することにありました。
それは、刑事裁判における証言のように、個別具体的な犯罪行為を特定して裁くことを目的としたものではありません。また、民事裁判における証言のように個々の被害事実を認定して賠償させることを目的とするものでもありません。
16人の元「慰安婦」の聞き取り調査は、「慰安婦」とされた方から直接に話を聞くことで、「意思に反して慰安婦とされた」という訴えに真実性があるかどうかを判断するということを最大の目的にしておこなわれたものです。この点で、十分に確信をもって強制性を判断できる証言を得たというのが聞き取り調査だったのですから、「裏付け調査」など、もとより必要とされなかったのです。
(2)もともと、元「慰安婦」の聞き取り調査について、「裏付け調査をしていない」とか、証言に「間違いがある」、「信憑性に疑問がある」などの批判は、いまに始まったことではありません。こうした批判にたいしては、当事者である河野氏が、すでに1997年の段階でおこなった一連の発言の中で、次のようにのべています。
「半世紀以上も前の話だから、その場所とか、状況とかに記憶違いがあるかもしれない。だからといって、一人の女性の人生であれだけ大きな傷を残したことについて、傷そのものの記憶が間違っているとは考えられない。実際に聞き取り調査の証言を読めば、被害者でなければ語り得ない経験だとわかる」(出典d)。
「局部的には思い違いがあるのではないか、こんなことはなかったのではないか、つまり、場所が違ってやしないかとか、何がどうだということはあったとしても、大筋において経験がなければ、体験がなければ、こんなことを証言できないと思える部分というのは、非常にあっちこっちにあるということははっきりしています」(出典c)。
「私はその証言を全部拝見をしました。『その証言には間違いがある』という指摘をされた方もありますが、少なくとも被害者として、被害者でなければ到底説明することができないような証言というものがその中にあるということは重く見る必要がある、というふうに私は思ったわけでございます。
……はっきりしていることは、慰安所があり、いわゆる慰安婦と言われる人たちがそこで働いていたという事実、これははっきりしています。それから慰安婦の輸送について軍が様々な形で関与したということも、これもまた資料の中で指摘をされていたと思います。
そういう状況下でもう一つは、……当時の社会情勢の中で軍が持っている非常に圧倒的な権力というものが存在した。他方、いわゆる従軍慰安婦であったと言われる方々からの証言というものを聞いてみても、それはもう明らかに被害者でなければ言えないような証言というものが聞かれた。等々それらを総合的に判断をすれば、これはそうしたこと(強制性)がなかったとは到底言えない。むしろそういうことがあったと言わざるを得ない状況であろう、というふうに私は判断をしたわけでございます」(出典c)。
河野氏は、かりに個々には「局部的に思い違い」などがあったとしても、16人の元「慰安婦」の証言の全体と当時の資料等を「総合的に判断」するならば、日本軍「慰安婦」制度において、「慰安婦」とされる過程で強制性が存在したことは否定できない事実だとの認定をおこなったとしています。
これは当然の責任ある判断です。当時の政府が、「河野談話」において、こうした立場にたって認定をおこなったことは、公正で正当なものでした。
(続く)
「歴史の偽造は許されない ――「河野談話」と日本軍「慰安婦」問題の真実」
日本共産党幹部会委員長 志位 和夫氏・文
☆ 記事URL:http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-03-15/2014031504_01_0.html
はじめに
日本軍「慰安婦」について政府の見解を明らかにした河野洋平官房長官談話(1993年8月4日、以下「河野談話」)が国政の重大な焦点となっています。
この間、一部勢力を中心に「河野談話」を攻撃するキャンペーンがおこなわれてきましたが、2月20日、日本維新の会の議員は、衆議院予算委員会の場で、(1)「慰安婦」を強制連行したことを示す証拠はない、(2)「河野談話」は韓国人の元「慰安婦」16人からの聞き取り調査をもとに強制性を認めているが、聞き取り調査の内容はずさんであり、裏付け調査もしていない――などと主張し、「新たな官房長官談話も考えていくべきだ」と「河野談話」の見直しを迫りました。
こうした攻撃にたいし、本来なら「河野談話」を発表した政府が、正面から反論しなければなりません。しかし、答弁に立った菅義偉官房長官は、それに反論するどころか、「当時のことを検証してみたい」、「学術的観点からさらなる検討を重ねていく必要がある」などと迎合的な対応に終始し、2月28日には政府内に「河野談話」の検証チームを設置することを明らかにしました。また、安倍晋三首相が、維新の会の議員に対して、「質問に感謝する」とのべたと報じられました。
「河野談話」見直し論は、歴史を偽造し、日本軍「慰安婦」問題という重大な戦争犯罪をおかした勢力を免罪しようというものにほかなりません。
この見解では、「河野談話」への不当な攻撃に反論するとともに、それをつうじて日本軍「慰安婦」問題の真実を明らかにするものです。
「河野談話」が認めた事実、それへの攻撃の特徴は何か
まず、「河野談話」が認めた事実とは何か、見直し派による「談話」攻撃の特徴はどこにあるかについて、見ていきます。
「河野談話」が認めた五つの事実
「河野談話」は、1991年12月からおこなってきた政府による調査の結論だとして、次の諸事実を認めました。「談話」にそのまま沿う形で整理すると、つぎの五つの事実が認定されています。
第1の事実。「長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた」(「慰安所」と「慰安婦」の存在)
第2の事実。「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」(「慰安所」の設置、管理等への軍の関与)
第3の事実。「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」(「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反して」いた=強制性があった)
第4の事実。「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」(「慰安所」における強制性=強制使役の下におかれた)
第5の事実。「戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」(日本を別にすれば、多数が日本の植民地の朝鮮半島出身者だった。募集、移送、管理等は「本人たちの意思に反して行われた」=強制性があった)
これらの諸事実の認定のうえにたって、「河野談話」は、「本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と表明しています。
さらに、「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」とのべています。
「慰安所」における強制使役にこそ最大の問題がある
「河野談話」が認めた諸事実のうち、「談話」見直し派が否定しようとしているのは、もっぱら第3の事実――「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反していた」=強制性があったという一点にしぼられています。(1)「慰安婦」を強制連行したことを示す証拠はない、(2)元「慰安婦」の証言には裏付けはない――こういって「河野談話」の全体を信憑(しんぴょう)性のないものであるかのように攻撃する――これが見直し勢力の主張です。
こうした攻撃の手口そのものが、日本軍「慰安婦」問題の本質をとらえない、一面的なものであることを、まず指摘しなくてはなりません。女性たちがどんな形で来たにせよ、それがかりに本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ、一たび日本軍「慰安所」に入れば監禁拘束され強制使役の下におかれた――自由のない生活を強いられ、強制的に兵士の性の相手をさせられた――性奴隷状態とされたという事実は、多数の被害者の証言とともに、旧日本軍の公文書などに照らしても動かすことができない事実です。それは、「河野談話」が、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」と認めている通りのものでした。この事実に対しては、「河野談話」見直し派は、口を閉ざし、語ろうとしません。しかし、この事実こそ、「軍性奴隷制」として世界からきびしく批判されている、日本軍「慰安婦」制度の最大の問題であることを、まず強調しなくてはなりません。
そのうえで、「河野談話」見直し勢力が主張する、“「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反していた」=強制性があったという「談話」の事実認定には根拠がない”という攻撃が成り立ちうるものであるかどうか。つぎに検討していきましょう。
「河野談話」にいたる経過を無視した「談話」攻撃
この攻撃の第一の問題点は、「河野談話」にいたる経過を無視した「談話」攻撃になっているということです。
日本軍「慰安婦」問題が、重大な政治・外交問題となったのは1990年からですが、それから1993年8月の「河野談話」にいたる経過をみると、つぎのような事実が確認できます。
(注)この見解では、「河野談話」にいたる事実経過の検証などのさいに、河野洋平元内閣官房長官と石原信雄元内閣官房副長官の発言を引用していますが、その出典は下記に記した通りです。
(出典a)『オーラルヒストリー アジア女性基金』(「財団法人 女性のためのアジア平和国民基金」編集・発行)に収録された河野氏のインタビュー(2006年11月16日)。
(出典b)同上書に収録された石原氏のインタビュー(2006年3月7日)。
(出典c)『歴史教科書への疑問』(「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」編)に収録された河野氏の講演と質疑(1997年6月17日)。
(出典d)朝日新聞に掲載された河野氏のインタビュー(1997年3月31日)。
韓国側から「強制連行の事実を認めよ」との訴えが提起される
まず、日本軍「慰安婦」問題で大きな被害をこうむった韓国から、「強制連行の事実を認めよ」という訴えが、さまざまな形で提起されます。
(1)1990年5月18日、韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領(当時)の来日を前にして、韓国の女性団体が、日本軍「慰安婦」問題について「日本当局の謝罪と補償は必ずなされなければならない」との共同声明を発表します。しかし、日本政府は、その直後に国会で「慰安婦」問題が議論になったさい、軍や官憲の関与を否定し、「慰安婦」の実態調査も拒否しました(1990年6月6日)。
(2)1990年10月17日、こうした日本政府の姿勢に対して、韓国の主要な女性37団体が共同声明を発表し、つぎの6項目からなる要求を提起します。
「一、日本政府は朝鮮人女性たちを従軍慰安婦として強制連行した事実を認めること
二、そのことについて公式に謝罪すること
三、蛮行のすべてを自ら明らかにすること
四、犠牲となった人々のために慰霊碑を建てること
五、生存者や遺族たちに補償すること
六、こうした過ちを再び繰り返さないために、歴史教育の中でこの事実を語り続けること」。
(3)1991年8月14日、韓国の元「慰安婦」の一人である金学順(キム・ハクスン)さんが、「日本政府は挺身(ていしん)隊〔「慰安婦」のこと〕の存在を認めない。怒りを感じる」として、初めて実名で証言します。
同年12月6日、金さんをふくむ韓国の元「慰安婦」3人(のちに9人)は、「組織的、強制的に故郷から引きはがされ、逃げることのできない戦場で、日本兵の相手をさせられた」として、日本政府を相手取って補償要求訴訟を提起しました。
日本国内でも、市民団体や研究者による真相究明を求める運動が起こりました。
日本政府、「慰安婦」に政府(軍)の関与認める
こうした事態をうけ、日本政府は、1991年12月から日本軍「慰安婦」問題について本格的な調査に乗り出します。
(1)1992年7月6日、加藤紘一官房長官(当時)が談話を発表し、関係資料を調査した結果として、「慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の衛生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められた」とし、「従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい」と表明しました。
こうして、加藤談話は、「慰安婦」問題での政府(軍)の関与を認めるものとなりました。慰安所の経営・監督にかかわる公文書には、「慰安所規定」も含まれており、「慰安所」における「慰安婦」の生活が自由のない強制的なものであったこと――強制使役であったことも、この調査によって明らかになりました。同時に、加藤長官が、「朝鮮人女性の強制徴用を示す資料はなかったのか」との問いに、「募集のしかたについての資料は発見されていない」と答えたことが、「強制連行は否定」と報道され、談話への強い批判が寄せられます。
(2)この調査に対しては、国内外から「調査が不十分」との批判があがります。とくに、韓国政府は、日本政府の調査を「評価する」と指摘する一方、「全貌を明かすところまでは至っていない」として、(1)今後も日本政府による真相糾明への努力を期待する、(2)韓国政府として独自の調査報告書を発表する――と表明しました。
1992年7月31日、韓国政府は、元「慰安婦」からの聞き取り調査も経て200ページを超える報告書(「日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書」)を発表し、韓国政府として「慰安婦の募集方法」などの追加調査を求めました。
“強制性を立証する日本側の公文書は見つからなかった”
(1)これらの事態を受けて、日本政府は再度、国内だけでなく国外まで広げて「慰安婦」問題の調査をすすめます。
この再調査では、「慰安婦」とされる過程での強制性、すなわち「本人の意思に反して慰安婦とされた」という事実を立証する公文書を見つけることが、大きな焦点の一つとなりました。しかし、日本政府の再調査でも、結局、日本側の公文書に関して言えば、そうした文書を見つけることはできませんでした。
それは、「談話」を発表した河野元官房長官が「女性を強制的に徴用しろといいますか、本人の意思のいかんにかかわらず連れてこい、というような命令書があったかと言えば、そんなものは存在しなかった。調べた限りは存在しなかった」(出典c)とのべ、「談話」をとりまとめる事務方の責任者だった石原信雄元官房副長官が「通達とか指令とかいろんな資料を集めたんですけど、文書で強制性を立証するようなものは出てこなかったんです」(出典b)と証言しているとおりです。
(2)強制的に「慰安婦」とされたことを立証する日本側の公文書が見つからなかったことは、不思議なことでも、不自然なことでもありません。拉致や誘拐などの行為は、当時の国内法や国際法でも、明々白々な犯罪行為でした。政府であれ、軍であれ、明々白々な犯罪行為を指示する公文書などを、作成するはずがありません。かりに、それを示唆するような文書があったとしても、敗戦をむかえるなかで、他の戦争犯罪につながる資料とともに処分されたことが推測されます。
河野氏も「こうした問題で、そもそも『強制的に連れてこい』と命令して、『強制的に連れてきました』と報告するだろうか」(出典d)、「そういう命令をしたというような資料はできるだけ残したくないという気持ちが軍関係者の中にはあったのではないかと思いますね。ですからそういう資料は処分されていたと推定することもできるのではないかと考えられます」(出典a)と同様の認識を示しています。
強制性を証明する日本側の文書が見つからなかったことをもって、強制的に「慰安婦」とされたという事実そのものを否定することは、まったく成り立たない議論です。
強制性を検証するために、元「慰安婦」への聞き取り調査をおこなう
(1)文書が見つからないもとで、日本政府は、「慰安婦」とされた過程に強制性があったかどうかについての最終的な判断を下すため、ここで初めて政府として直接に元「慰安婦」から聞き取り調査をおこなうことを決定し、調査団を韓国に派遣します。そして、元「慰安婦」16人からの直接の聞き取り調査をおこないます。
このように、元「慰安婦」からの聞き取り調査の目的は、強制的に「慰安婦」にしたという日本側の公文書が発見されないもとで、強制されたという主張が真実かどうかを、直接、被害者から聴取することで検証しようとするところにありました。
聞き取り調査の目的がここにあったことは、河野・石原両氏の証言からも明白です。河野氏は、「文書資料を見つけることも大事だけれども、いわゆる慰安婦だったという方から聞き取り調査を丁寧にやる方がいいということで、韓国で聞き取り調査をやることにした」(出典a)と証言しています。石原氏は、「強制性を立証できるような物的証拠」がないもとで、「元慰安婦の人たちにお会いして、その人たちの話から状況判断、心証をえて、強制的に行かされたかどうかを最終的に判断しようということにした」(出典b)とのべています。
(2)そして元「慰安婦」の人たちの証言を聞いた結果、日本政府は、「慰安所」における強制使役とともに、「慰安婦」とされた過程にも強制性があったことは間違いないという判断をするに至ります。そうした判断をするにいたった事情について、「談話」のとりまとめにあたった河野・石原両氏は、つぎのように証言しています。
河野氏は、「話を聞いてみると、それはもう明らかに厳しい目にあった人でなければできないような状況説明が次から次へと出てくる。その状況を考えれば、この話は信憑性がある、信頼するに十分足りるというふうに、いろんな角度から見てもそう言えるということがわかってきました」(出典a)とのべています。
石原氏は、「その報告の内容から、明らかに本人の意に反して連れて行かれた人、だまされた人、普通の女子労働者として募集があって行ったところが慰安所に連れて行かれたという人、それからいやだったんだが、朝鮮総督府の巡査が来て、どうしても何人か出してくれと割り当てがあったので、そういう脅しというか、圧力があって、断れなかったというような人がいた。何人かそういう人がいたので、総合判断として、これは明らかにその意に反して慰安婦とされた人たちが一六人のなかにいることは間違いありませんという報告を調査団の諸君から受けたわけです。総理も官房長官も一緒にその話を聞いたんです。結局私どもは、通達とか指令とかという文書的なもの、強制性を立証できるような物的証拠は見つけられなかったのですが、実際に慰安婦とされた人たち一六人のヒヤリングの結果は、どう考えても、これは作り話じゃない、本人がその意に反して慰安婦とされたことは間違いないということになりましたので、そういうことを念頭において、あの『河野談話』になったわけです」(出典b)とのべています。
こうして、「河野談話」では、朝鮮半島では「(慰安婦の)募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」ことが明記され、「慰安婦」とされる過程でも「本人たちの意思に反し」た=強制性があったことを、認めるに至ったのです。また、他の証言記録や資料も参照した上で、全体状況としては、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」ことが明記されたのです。
「河野談話」の作成は、もちろん河野氏個人によるものでなく、当時の総理大臣、官房長官、官房副長官、外務省、厚生省、労働省など関係省庁などが集団的に検討・推敲(すいこう)し、内閣の責任でおこなったものであることは、河野・石原両氏が証言していることです。
元「慰安婦」証言から強制性の認定をおこなった「河野談話」の判断は公正で正当なもの
(1)「河野談話」見直し派は、元「慰安婦」の証言について、「裏付け調査をしていない」ことをことさらに問題視していますが、これは聞き取り調査の目的を理解しない、ためにする議論です。
すでにのべてきたように、元「慰安婦」に対する聞き取り調査の目的は、日本軍「慰安婦」制度において、女性たちが「慰安婦」とされた過程に強制性があったか否かということを最大の焦点として、その実態と真相を究明することにありました。
それは、刑事裁判における証言のように、個別具体的な犯罪行為を特定して裁くことを目的としたものではありません。また、民事裁判における証言のように個々の被害事実を認定して賠償させることを目的とするものでもありません。
16人の元「慰安婦」の聞き取り調査は、「慰安婦」とされた方から直接に話を聞くことで、「意思に反して慰安婦とされた」という訴えに真実性があるかどうかを判断するということを最大の目的にしておこなわれたものです。この点で、十分に確信をもって強制性を判断できる証言を得たというのが聞き取り調査だったのですから、「裏付け調査」など、もとより必要とされなかったのです。
(2)もともと、元「慰安婦」の聞き取り調査について、「裏付け調査をしていない」とか、証言に「間違いがある」、「信憑性に疑問がある」などの批判は、いまに始まったことではありません。こうした批判にたいしては、当事者である河野氏が、すでに1997年の段階でおこなった一連の発言の中で、次のようにのべています。
「半世紀以上も前の話だから、その場所とか、状況とかに記憶違いがあるかもしれない。だからといって、一人の女性の人生であれだけ大きな傷を残したことについて、傷そのものの記憶が間違っているとは考えられない。実際に聞き取り調査の証言を読めば、被害者でなければ語り得ない経験だとわかる」(出典d)。
「局部的には思い違いがあるのではないか、こんなことはなかったのではないか、つまり、場所が違ってやしないかとか、何がどうだということはあったとしても、大筋において経験がなければ、体験がなければ、こんなことを証言できないと思える部分というのは、非常にあっちこっちにあるということははっきりしています」(出典c)。
「私はその証言を全部拝見をしました。『その証言には間違いがある』という指摘をされた方もありますが、少なくとも被害者として、被害者でなければ到底説明することができないような証言というものがその中にあるということは重く見る必要がある、というふうに私は思ったわけでございます。
……はっきりしていることは、慰安所があり、いわゆる慰安婦と言われる人たちがそこで働いていたという事実、これははっきりしています。それから慰安婦の輸送について軍が様々な形で関与したということも、これもまた資料の中で指摘をされていたと思います。
そういう状況下でもう一つは、……当時の社会情勢の中で軍が持っている非常に圧倒的な権力というものが存在した。他方、いわゆる従軍慰安婦であったと言われる方々からの証言というものを聞いてみても、それはもう明らかに被害者でなければ言えないような証言というものが聞かれた。等々それらを総合的に判断をすれば、これはそうしたこと(強制性)がなかったとは到底言えない。むしろそういうことがあったと言わざるを得ない状況であろう、というふうに私は判断をしたわけでございます」(出典c)。
河野氏は、かりに個々には「局部的に思い違い」などがあったとしても、16人の元「慰安婦」の証言の全体と当時の資料等を「総合的に判断」するならば、日本軍「慰安婦」制度において、「慰安婦」とされる過程で強制性が存在したことは否定できない事実だとの認定をおこなったとしています。
これは当然の責任ある判断です。当時の政府が、「河野談話」において、こうした立場にたって認定をおこなったことは、公正で正当なものでした。
(続く)
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