北方領土問題につき、
述べます。
サンフランシスコ平和条約で
日本が千島を放棄しました。
争いのもとは、
この「千島」の範囲の解釈に起因します。
日本政府は、
国後と択捉は千島に含まれないとします。
しかし、放棄当時、
この両島は「南千島」と呼ばれ、
外務省条約局長も両島が千島に含まれると返答しました
(反面、歯舞・色丹は、
含まれないという解釈なわけです)。
それを前提にして考えると
日本政府の主張には無理がありそうです。
1955年、
日ソ平和条約に向けた交渉で
フルシチョフは、
国後と択捉が千島に含まれるとする
積極解釈の反面で、
歯舞・色丹については
「千島に含まれない」という消極解釈を取り、
後者につき、
返還する意向を示しました。
実際、56年の日ソ共同宣言では
平和条約締結後の歯舞・色丹二島返還を明記したのでした。
ところが、突然、横やりが入りました。
横やりを入れたのは、
アメリカです。
日ソ接近を嫌ったのです。
もし、二島返還で合意すれば、
「我が国はは沖縄と小笠原を返還しない」
と日本を脅してきました。
慌てたのは外務省です。
放棄した千島のうち、
新たなアメリカの要求に従い、
「南千島の国後・択捉は、日本の領土だ」
と主張を豹変させ、
歯舞・色丹を合わせて「北方領土」と呼び始めました。
このような経緯があって、
「歯舞・色丹の先行返還」と「国後・択捉の継続交渉」
という、
アメリカの横槍が入る前の段階に戻った上で、
着実な漸次返還を実現しようとしました。
それが2000年頃の日ソ交渉でした
(鈴木宗男代議士を中心にして、
かなり具体的な活動がすすみ始めていました。
残念ながら、検察特捜部が動き、頓挫)。
55年段階で
領土返還を妨害したのはアメリカでした。
私たちは、
それを忘れるべきじゃないです。
外交交渉の帰趨を決するのは、
「元々、我が国の固有の領土だ」
という主張の当否よりも、
むしろ外交交渉の努力の積み上げに依存します。
尖閣問題も北方領土問題も
根底にあるのは同じ、ということですな。
かかる交渉積み上げの歴史を
知らない、
たわけた付和雷同者の群れが、
「権力願望が満タンでございます」と
顔に書いてある、
たとえば、
アメリカに弱い
官僚の代弁が本領である
朝日新聞の記者やら、
一見、
同紙を批判する論調の、
しかし、実は、
ごみ売り新聞の主筆そっくりという、
すなわち、
アメリカの手先をもって
矜持とする
石原都知事のような
御仁に煽られて
勢力を増す事態になれば、
立派に外交交渉の足手まといになってくれます。
<資料>
1956年10月19日
日ソ共同宣言(日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言)
内閣総理大臣 鳩山一郎 が日本を代表しました。ソビエトの代表は、ソヴィエト連邦大臣会議議長第一代理 エヌ・エス・フルシチョフです。
(リンク)
[9項のみ抜粋]
9 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,両国間に正常な外交関係が回復された後,平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国の要請にこたえかつ日本国の利益を考慮して,歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし,これらの諸島は,日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。
[出典:東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室データベース『世界と日本』日本政治・国際関係データベース]
述べます。
サンフランシスコ平和条約で
日本が千島を放棄しました。
争いのもとは、
この「千島」の範囲の解釈に起因します。
日本政府は、
国後と択捉は千島に含まれないとします。
しかし、放棄当時、
この両島は「南千島」と呼ばれ、
外務省条約局長も両島が千島に含まれると返答しました
(反面、歯舞・色丹は、
含まれないという解釈なわけです)。
それを前提にして考えると
日本政府の主張には無理がありそうです。
1955年、
日ソ平和条約に向けた交渉で
フルシチョフは、
国後と択捉が千島に含まれるとする
積極解釈の反面で、
歯舞・色丹については
「千島に含まれない」という消極解釈を取り、
後者につき、
返還する意向を示しました。
実際、56年の日ソ共同宣言では
平和条約締結後の歯舞・色丹二島返還を明記したのでした。
ところが、突然、横やりが入りました。
横やりを入れたのは、
アメリカです。
日ソ接近を嫌ったのです。
もし、二島返還で合意すれば、
「我が国はは沖縄と小笠原を返還しない」
と日本を脅してきました。
慌てたのは外務省です。
放棄した千島のうち、
新たなアメリカの要求に従い、
「南千島の国後・択捉は、日本の領土だ」
と主張を豹変させ、
歯舞・色丹を合わせて「北方領土」と呼び始めました。
このような経緯があって、
「歯舞・色丹の先行返還」と「国後・択捉の継続交渉」
という、
アメリカの横槍が入る前の段階に戻った上で、
着実な漸次返還を実現しようとしました。
それが2000年頃の日ソ交渉でした
(鈴木宗男代議士を中心にして、
かなり具体的な活動がすすみ始めていました。
残念ながら、検察特捜部が動き、頓挫)。
55年段階で
領土返還を妨害したのはアメリカでした。
私たちは、
それを忘れるべきじゃないです。
外交交渉の帰趨を決するのは、
「元々、我が国の固有の領土だ」
という主張の当否よりも、
むしろ外交交渉の努力の積み上げに依存します。
尖閣問題も北方領土問題も
根底にあるのは同じ、ということですな。
かかる交渉積み上げの歴史を
知らない、
たわけた付和雷同者の群れが、
「権力願望が満タンでございます」と
顔に書いてある、
たとえば、
アメリカに弱い
官僚の代弁が本領である
朝日新聞の記者やら、
一見、
同紙を批判する論調の、
しかし、実は、
ごみ売り新聞の主筆そっくりという、
すなわち、
アメリカの手先をもって
矜持とする
石原都知事のような
御仁に煽られて
勢力を増す事態になれば、
立派に外交交渉の足手まといになってくれます。
<資料>
1956年10月19日
日ソ共同宣言(日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言)
内閣総理大臣 鳩山一郎 が日本を代表しました。ソビエトの代表は、ソヴィエト連邦大臣会議議長第一代理 エヌ・エス・フルシチョフです。
(リンク)
[9項のみ抜粋]
9 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,両国間に正常な外交関係が回復された後,平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国の要請にこたえかつ日本国の利益を考慮して,歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし,これらの諸島は,日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。
[出典:東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室データベース『世界と日本』日本政治・国際関係データベース]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます