最高栽の裁判官につき、国民審査を認める根拠は、裁判官に対し民主的なコントロールを及ぼす趣旨であることは間違いないでしょう。しかし、裁判という最も公平性を要求される権力行使において、民衆による逆裁定ともいうべき国民審査を認める合理的な必要性はどこにあるでしょうか。
国民審査制は、憲法制定当時、アメリカのミズーリ―州において採用されていた制度を取り込んだもののようです。しかし、それは、裁判所が違憲判断を下し、議会の決定を覆すことができる権能を有するがため、「司法による政治支配」という弊害が生じることを嫌悪した結果にほかなりません。
日本では、そのような「司法による政治支配」が生じる恐れがあるでしょうか?
これに関しては、まったくない、と断言できるほどに日本の裁判所は違憲判断を下すに際し抑制的です。身も蓋(ふた)もない言い方をすれば、臆病なんです。しかし、なぜかマスコミは、投票するよう奨励しています。投票の持つ意味が理解されているのでしょうか。通説・判例によれば、国民審査により生じる効果は、リコール(解職)です。8月25日の朝刊には、裁判官の「趣味/最近読んで面白かった本」などの紹介がありました。そのような個人の嗜好(好き嫌い)で、裁判官の適性や民意からの遊離度を判断し、リコールにつなげてよいと本気で考えているのでしょうか。良識を疑いました。目を覆いたくなるような幼さです。ジャーナリストはいても、もうジャーナリズムは崩壊したのかと、暗澹(あんたん)たる思いになりました。
※判断留保のためには、投票用紙を受け取らないという形での抵抗が可能なようです。(→最高裁判所裁判官の国民審査のこと)
国民審査制は、憲法制定当時、アメリカのミズーリ―州において採用されていた制度を取り込んだもののようです。しかし、それは、裁判所が違憲判断を下し、議会の決定を覆すことができる権能を有するがため、「司法による政治支配」という弊害が生じることを嫌悪した結果にほかなりません。
日本では、そのような「司法による政治支配」が生じる恐れがあるでしょうか?
これに関しては、まったくない、と断言できるほどに日本の裁判所は違憲判断を下すに際し抑制的です。身も蓋(ふた)もない言い方をすれば、臆病なんです。しかし、なぜかマスコミは、投票するよう奨励しています。投票の持つ意味が理解されているのでしょうか。通説・判例によれば、国民審査により生じる効果は、リコール(解職)です。8月25日の朝刊には、裁判官の「趣味/最近読んで面白かった本」などの紹介がありました。そのような個人の嗜好(好き嫌い)で、裁判官の適性や民意からの遊離度を判断し、リコールにつなげてよいと本気で考えているのでしょうか。良識を疑いました。目を覆いたくなるような幼さです。ジャーナリストはいても、もうジャーナリズムは崩壊したのかと、暗澹(あんたん)たる思いになりました。
※判断留保のためには、投票用紙を受け取らないという形での抵抗が可能なようです。(→最高裁判所裁判官の国民審査のこと)
なんて全く考えたことなかったです。
この審査方法って、最高裁判官の名前
やその扱った事件を覚えている人は、
やっぱり少ないと思うんです。
だから白紙で出す人が多いと思うんですが、
白紙というのは承認したことなんですよ。
(今回しっかりと注意書きを読みました)
だから、やっぱり意味のない審査だと思います。
ところで、コメント、ありがとう。嬉しかったです。この記事は、前におびちゃんのブログ記事に対してしたコメントの補足説明だったからです。
嬉しさついでに、この制度につき、もう少し深く突っ込んだ解説をします。
それは、この制度の発祥の地、ミズーリ―州に関連する事情です。
リンカーンが奴隷制解放を唱え、南北戦争を起こしました。しかし、北軍の勝利に終わり、奴隷は解放されたというのは、あくまで建前です。奴隷制は、そんな簡単に消滅したと言えるほど単純なものではありません。そのひとつの例証が、この記事で取り上げた“国民審査制”の発明です。この制度を制定した目的は、奴隷解放を是とする裁判官の排除にあったと思われます。ミズーリ―州は、南北戦争当時、北軍としてリンカーンに与しました。しかし、ミズーリ―州自体は、奴隷州です。ということは、心の底では奴隷あってこその繁栄だと、大多数の白人が考えたとして不思議ではありません。工業の恩恵は頂戴するけれど、奴隷も温存したいというのが本心だったと思われます。その際、邪魔になるのが裁判官です。アメリカの裁判官は、日本の場合と違って、法律の違憲審査を躊躇しません。「悪法は法ではない」というのが信念としてあるからです。ミズーリ―州の人たちは、そのような裁判官を恐れたはずです、何時「あなた達のしていることは、不当な人種差別だ」と宣言されるだろうか、と。
日本国憲法9条において、戦争放棄が定められたとき、草案起草者は、公布の直前になって議論の土俵に乗らなかった「前項の目的を達するため」という文言を2項に挿入し、再軍備の布石としました。同様に、憲法の精神を踏みにじる方策としてミズーリ―州の反動法である「国民審査」の規定を取り入れたわけです。
警察予備隊に始まって自衛隊にまで発展する再軍備の道程を振り返ったとき、この国民審査制の規定の役割の大きさを思います。つまり、この規定は、憲法に何が書いてあってもそれに従うな、任命権者の総理大臣の顔色を窺っておればよい、それが民意であり、逆らえば解雇だというメッセージを暗黙のうちに裁判官に送り続けていたのです。「司法の政治支配」という言葉は、そのような理屈を述べ立てる文脈の中で使われていました。
思うに、裁判官の国民から付託された責務は、“憲法の番人”として行動することに尽きるのではないでしょうか。もし、裁判官としての資質に問題があるなら、そのときこそ、国民審査制によりリコールすればいいと思います。なお、論点が急に具体的になりますが、前に話題にした死刑判決の是非を、最高裁の個々の裁判官がどう考えているかなどについては、それ以前に死刑制度存置の問題として、別途、政治決着をつけるべき事柄、というのが僕の基本的な認識です。