(1)で述べた、この臓器移植法改定の際になされた虚報を知って、マイクロソフト社のセキュウリティ警告の「発信元を信用しますか」と尋ねる文言を想起しました。マスコミもいい加減ですね! 国民である僕たちは、日々、批判精神を失わないようにし、新聞やテレビを見るときは、いつも「発信元を信用しますか」という警告があるものとして、情報を受け取らないといけないのだと痛感しました。
さて、A案提案者、ならびにマスコミ関係者は、なぜ誤報と言ってよい情報操作をしたのか。社会的な責任を問われるべきと思います。倫理的にも問題です。
A案を提案した中山太郎議員(医師)は、国会で次の通り公言して憚(はばか)らなかったようです。
「A案のように法的脳死をすべて人の死とする場合であっても、家族の同意がなければ判定作業そのものがなされないので法的に脳死の診断が下されることはないことは強調されるべきである。逆に、尊厳死を求める人たちにとって、脳死判定はその意志の具現化の手段でもある。したがって、脳死は人の死であるとすることによって、脳死を人の死と認める人たちにとっても、認めない人たちにとっても、リヴィングウィルを尊重できるシステムを作ることができると考える(「衆院本会議第37号速記録」)。
彼の言い分を、その主張の文脈を通して分析しましょう。
まず、前段では、「家族の同意」という安全ピンがあるので、診断が下せないため、脳死であっても脳死でない、つまり、脳死≠脳死ということがあるから心配するな、と述べています。家族を植物人間として眺めて居たければ、それもOKなわけです。医師といえど、家族の判断を待たず勝手に診断の上、臓器移植というわけには行きません。
しかし、しかしですよ、臓器移植を避けるため診断を回避し得ても、延命治療のための診断は必要でしょう。その際、「脳死をすべて人の死とする」という大前提がありますから、医者は治療しようにも、相手が植物人間の場合は、存在として死者扱いせざるを得ないのです。当然のことながら、医療費は保険の対象となりません。全額、実費負担です。
心理面でも家族の負担は、半端ではないと思います。テレビを見ていましたら、臓器移植法が改定されたとき、思わず笑みを浮かべていた心臓や腎臓に重い疾患を抱えている人達の群れ!
「彼らを見殺しにするのか」という声は、マスメディアに大きく取り上げられていました。小松氏は、「この叫びがいかに善意に支えられていようとも、それは残酷きわまりない恫喝でもある。なぜなら、叫びの木霊は、長期脳死の子どもと生活を続ける家族にとっては、我が子の生身にメスを入れ、拍動中の心臓をえぐり出すことへの要求として響くからである」と述べておられます。同感です。
衆院のわずか8時間ほどの審議で決すべき事柄だったのでしょうか。何のためにそんなに早く決したのか?
「ばらまき」という言葉がありますが、もし「ばらまき」とすれば、ばらまかれたのは人の命です。
次に、中段。「尊厳死を求める人たちにとって、脳死判定はその意志の具現化の手段でもある」とあります。これが本音なのでしょうね。注意しておかなければならないのは、尊厳死の対象は、脳死状態に限らないことです。現に、森鴎外が描いた「高瀬舟」という小説に描かれている尊厳死の事例は、脳死者が相手ではありません。日本救急医学会によると「救急医療における終末期医療に関する提言(ガイドライン)」を公表し、脳死を始めとした四種類を治療停止可能な対象と定めています。医師が回復不能と診断すれば、死亡したと認定してよいのではないか、ということです。
この考え方の怖いところは、対象は原理的にいくらでも拡張しえるということです。たとえば、人工透析をしている者は、現今日本では26万人ほどいます。脳死による人の死が認められ、中には、これで堂々と移植手術を受けうるようになったと素直に喜んでいらっしゃる方もいらっしゃるでしょう。しかし、見方を変えれば、人工透析を受けている方も尊厳死の対象になりうるのです。臓器の機能不全が回復不能な程度に重度だという点だけ取り出せば、脳死の状態の人と区別がつきません。脳死は、脳の重度な機能不全で、機能不全という点では他の臓器の場合と違いがないからです。心臓ぺースメーカーの力を借りて生活している心不全の患者の場合だって同じです。脳は、単に臓器の一つです。他の臓器と比較し、脳が「特別である」とは言えません。根拠なく、もし言えば、疑似科学と非難されます。
1981年、アメリカで「有機的統合性」なる概念が捻出されました。発案者は、米国大統領委員会です。曰く、死とは、有機的統合性を消失させることである。有機的統合性の無二の司令塔は脳であるから、脳が機能を停止したとき、死体として扱ってよい云々。
この説は、科学的に破綻しました。脳が機能停止したとしても、有機的統合性を保ちつつ生き続ける事例が後を絶たないからです。また、脳死判定の後、さぁ、これからこいつの臓器を引きづり出してやるぞ、ということになって医者がメスを入れようとした途端、意識が回復! この後、手術されそうになった人が
「メスをもって、何をするつもりや!」と怒ったかどうかまでは知りませんが、社会復帰をした事例があるそうです(NBC News, 2008. 3. 23)。この始末、この様、どう思います?
長期脳死状態になった我が子を看病して、回復を願うのは、ある意味、親として当然です。むしろ逆に、願わない方が妙です。もっと言えば、虐待の末に脳死に至らせたと考えていいケースと疑うべきです。親の判断だけでドナーにしえるなら、虐待の格好の隠ぺい工作に利用できます。それを病院ぐるみでするのを、許してしまっていいのでしょうか。まさに親と一緒になって、社会全体で子どもの命を蹂躙することになります。
最後、後段です。「脳死を人の死と・・・(中略)…認めない人たちにとっても」とあり、法を改定しても、脳死を人の死と認めない立場が存続しうるような表現になってますが、これは完全な詭弁ですね。そんな立場は存立しようがないからです。多数決の下に改定されることによって、一律に脳死が人の死と規定されたことになります。また、これに続け、「リヴィングウィルを尊重できるシステムを作ることができる」と結論づけてあります。リヴィングウィルというカタカナ用語は、ドナーの生への思い、意欲が臓器提供を受けた者の中で活きる関係を指したものでしょう。しかし、本人の意思を問わずになされる臓器提供に、そのような意欲(Will)を認めるのは背理としか言いようがありません。
思うに、この改定は、総じて新自由主義の医学の世界への適用と言っていい内容です。つまり、安易なんですね。「移植でしか助からない」という忙(せわ)しない悲観的な断言の、何という胡散(うさん)臭さ! そして、これが裏返ったときの「移植すれば助かる」という楽観的な見方のまがまがしさ! これらが対になって、思考停止を誘うわけです。需要のあるところ必ず供給がある。なければ、作るまで。あるいは、こっちにあるものをあっちに動かせば見えざる手が諸事万端、困難を全て解決!・・・なんてね、そんなに事は簡単なのでしょうか。
移植についての延命効果を統計的に調べた唯一といってよい論文に、こんな報告があるそうです。心臓移植の必要を宣告されて9カ月以上、移植の順番を待ちながら内科治療を続けた場合、そのまま心臓移植をしない方が1年生存率高い、と。
自分がどんな末路を迎えるのか、誰にもわかりません。しかし、日本の国は、今、最弱者の脳死者を破棄する道を選んだわけです。次は、認知症者でしょうか。その内、棄民が当たり前になり、“臓器移植をしない無駄死に”は、一部特権的な富裕層にしか許されない最高の贅沢になるかもしれませんね。冗談抜きで、そう思います。
さて、A案提案者、ならびにマスコミ関係者は、なぜ誤報と言ってよい情報操作をしたのか。社会的な責任を問われるべきと思います。倫理的にも問題です。
A案を提案した中山太郎議員(医師)は、国会で次の通り公言して憚(はばか)らなかったようです。
「A案のように法的脳死をすべて人の死とする場合であっても、家族の同意がなければ判定作業そのものがなされないので法的に脳死の診断が下されることはないことは強調されるべきである。逆に、尊厳死を求める人たちにとって、脳死判定はその意志の具現化の手段でもある。したがって、脳死は人の死であるとすることによって、脳死を人の死と認める人たちにとっても、認めない人たちにとっても、リヴィングウィルを尊重できるシステムを作ることができると考える(「衆院本会議第37号速記録」)。
彼の言い分を、その主張の文脈を通して分析しましょう。
まず、前段では、「家族の同意」という安全ピンがあるので、診断が下せないため、脳死であっても脳死でない、つまり、脳死≠脳死ということがあるから心配するな、と述べています。家族を植物人間として眺めて居たければ、それもOKなわけです。医師といえど、家族の判断を待たず勝手に診断の上、臓器移植というわけには行きません。
しかし、しかしですよ、臓器移植を避けるため診断を回避し得ても、延命治療のための診断は必要でしょう。その際、「脳死をすべて人の死とする」という大前提がありますから、医者は治療しようにも、相手が植物人間の場合は、存在として死者扱いせざるを得ないのです。当然のことながら、医療費は保険の対象となりません。全額、実費負担です。
心理面でも家族の負担は、半端ではないと思います。テレビを見ていましたら、臓器移植法が改定されたとき、思わず笑みを浮かべていた心臓や腎臓に重い疾患を抱えている人達の群れ!
「彼らを見殺しにするのか」という声は、マスメディアに大きく取り上げられていました。小松氏は、「この叫びがいかに善意に支えられていようとも、それは残酷きわまりない恫喝でもある。なぜなら、叫びの木霊は、長期脳死の子どもと生活を続ける家族にとっては、我が子の生身にメスを入れ、拍動中の心臓をえぐり出すことへの要求として響くからである」と述べておられます。同感です。
衆院のわずか8時間ほどの審議で決すべき事柄だったのでしょうか。何のためにそんなに早く決したのか?
「ばらまき」という言葉がありますが、もし「ばらまき」とすれば、ばらまかれたのは人の命です。
次に、中段。「尊厳死を求める人たちにとって、脳死判定はその意志の具現化の手段でもある」とあります。これが本音なのでしょうね。注意しておかなければならないのは、尊厳死の対象は、脳死状態に限らないことです。現に、森鴎外が描いた「高瀬舟」という小説に描かれている尊厳死の事例は、脳死者が相手ではありません。日本救急医学会によると「救急医療における終末期医療に関する提言(ガイドライン)」を公表し、脳死を始めとした四種類を治療停止可能な対象と定めています。医師が回復不能と診断すれば、死亡したと認定してよいのではないか、ということです。
この考え方の怖いところは、対象は原理的にいくらでも拡張しえるということです。たとえば、人工透析をしている者は、現今日本では26万人ほどいます。脳死による人の死が認められ、中には、これで堂々と移植手術を受けうるようになったと素直に喜んでいらっしゃる方もいらっしゃるでしょう。しかし、見方を変えれば、人工透析を受けている方も尊厳死の対象になりうるのです。臓器の機能不全が回復不能な程度に重度だという点だけ取り出せば、脳死の状態の人と区別がつきません。脳死は、脳の重度な機能不全で、機能不全という点では他の臓器の場合と違いがないからです。心臓ぺースメーカーの力を借りて生活している心不全の患者の場合だって同じです。脳は、単に臓器の一つです。他の臓器と比較し、脳が「特別である」とは言えません。根拠なく、もし言えば、疑似科学と非難されます。
1981年、アメリカで「有機的統合性」なる概念が捻出されました。発案者は、米国大統領委員会です。曰く、死とは、有機的統合性を消失させることである。有機的統合性の無二の司令塔は脳であるから、脳が機能を停止したとき、死体として扱ってよい云々。
この説は、科学的に破綻しました。脳が機能停止したとしても、有機的統合性を保ちつつ生き続ける事例が後を絶たないからです。また、脳死判定の後、さぁ、これからこいつの臓器を引きづり出してやるぞ、ということになって医者がメスを入れようとした途端、意識が回復! この後、手術されそうになった人が
「メスをもって、何をするつもりや!」と怒ったかどうかまでは知りませんが、社会復帰をした事例があるそうです(NBC News, 2008. 3. 23)。この始末、この様、どう思います?
長期脳死状態になった我が子を看病して、回復を願うのは、ある意味、親として当然です。むしろ逆に、願わない方が妙です。もっと言えば、虐待の末に脳死に至らせたと考えていいケースと疑うべきです。親の判断だけでドナーにしえるなら、虐待の格好の隠ぺい工作に利用できます。それを病院ぐるみでするのを、許してしまっていいのでしょうか。まさに親と一緒になって、社会全体で子どもの命を蹂躙することになります。
最後、後段です。「脳死を人の死と・・・(中略)…認めない人たちにとっても」とあり、法を改定しても、脳死を人の死と認めない立場が存続しうるような表現になってますが、これは完全な詭弁ですね。そんな立場は存立しようがないからです。多数決の下に改定されることによって、一律に脳死が人の死と規定されたことになります。また、これに続け、「リヴィングウィルを尊重できるシステムを作ることができる」と結論づけてあります。リヴィングウィルというカタカナ用語は、ドナーの生への思い、意欲が臓器提供を受けた者の中で活きる関係を指したものでしょう。しかし、本人の意思を問わずになされる臓器提供に、そのような意欲(Will)を認めるのは背理としか言いようがありません。
思うに、この改定は、総じて新自由主義の医学の世界への適用と言っていい内容です。つまり、安易なんですね。「移植でしか助からない」という忙(せわ)しない悲観的な断言の、何という胡散(うさん)臭さ! そして、これが裏返ったときの「移植すれば助かる」という楽観的な見方のまがまがしさ! これらが対になって、思考停止を誘うわけです。需要のあるところ必ず供給がある。なければ、作るまで。あるいは、こっちにあるものをあっちに動かせば見えざる手が諸事万端、困難を全て解決!・・・なんてね、そんなに事は簡単なのでしょうか。
移植についての延命効果を統計的に調べた唯一といってよい論文に、こんな報告があるそうです。心臓移植の必要を宣告されて9カ月以上、移植の順番を待ちながら内科治療を続けた場合、そのまま心臓移植をしない方が1年生存率高い、と。
自分がどんな末路を迎えるのか、誰にもわかりません。しかし、日本の国は、今、最弱者の脳死者を破棄する道を選んだわけです。次は、認知症者でしょうか。その内、棄民が当たり前になり、“臓器移植をしない無駄死に”は、一部特権的な富裕層にしか許されない最高の贅沢になるかもしれませんね。冗談抜きで、そう思います。
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