毎日新聞が
「230万人はどのように戦死したのか」
と題して、
230万人と推計される
戦没者数を
死地別に書き込んだ
地図を
アップしてました。
☆ 記事URL:http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data1.html
これです。
どの戦場でも
戦死者の6~8割が「餓死」という世界でも例がない惨状です。
このデーターの参考にした資料は、
「インパール作戦」に参加した中隊長が記した手記なようです。
歴史学者・藤原彰氏が独自分析されたようです。
毎日新聞の
上掲サイトに次のような記述がありました(〔餓死、戦病死が約6割 兵站軽視のツケ〕参照)。
――「中隊310人のうち、戦死40人、戦病死96人、患者42人」と記録していたことなどに着目。同作戦が展開されたビルマ・インド方面の戦没者約18万5000人のうち、約78%に当たる約14万5000人を戦病死者ではないかと推定した――と。
盛田隆二 / Ryuji Morita@product1954さんが
――日本軍の「ブラック企業」体質は70年前から現在に一直線に繋がっている〔23:20 - 2014年8月15日 〕――
というツイートをされています。
さもありなんですな、残念ですが――。
半藤一利さんがインタビューで仰る通り、
戦前の日本は、
近代国家の体をなしていなかったのだろうと思います。
――「戦没者230万人」という数字はそのことを端的に示していると思います。国民を戦地に送り込むならば、国家は責任を負わなければなりません。いつ、どこで、どのように戦没したのか。確実に把握していなければならない。ところが、「戦没者230万人」という大枠のみが残り、具体的なデータは部分的にしか残っていません。――
というくだりを読んで、
情なさでいっぱいになりました。
戦死者の6~8割が「餓死」という数値さえ
推測に基づくのです。
普通、戦争犯罪は、
相手国からなされるものです。
しかし、日本軍の場合には、
「敵は、本能寺ならぬ、日本の司令部にある」
という頂けない事情が背景にあります。
自軍を壊滅させるのは、
司令部に指導力がないからです。
棚からぼた餅で
勝利が舞い込んでくるように
考えていて、
兵站への配慮がまったくなかったのです。
そのくせ、
根こそぎ動員をしました。
そんなことをすれば、
負けるべくして負けてしまいます。
しかし、軍の指導部に
その配慮ができませんでした。
追い詰められたからそうなったのでなく、
国民は端から人間ではなかった、
ということでしょう。
言うならば、将棋の駒ならばらこそ
降伏が許されませんでした。
陸軍の特攻作戦を指揮した冨永恭次は、
出撃前の訓示で
「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」
と豪語する一方、
自分は敵前逃亡で生き延びたと言います
(ウィキペディア「富永恭次」の項目参照*http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E6%81%AD%E6%AC%A1)。
結局は、ただの口約束に終わったわけです。
でも、この大将、岸信介などと同じで、全然、良心の痛みなど、
持たなかったでしょうね。
不幸にして、
日本軍のリーダーは、
そういう輩ばっかりでした。
なぜ、こんな愚か者に指図されて戦わねばならなかったのか。
ひとつは、
真珠湾やマレー半島などにおける緒戦の戦果が、
目をくらませましたということが
挙げられます。
もっと根本的には、
天皇を中心とする司令部が
本質的に
‟他人任せ”だったからです。
すなわち
「靖国の神」
という
人ならぬ死者に任せっ切りにしてしまったから
愚かなことが平気で行われ、
反省どころか、
逆に、どんどんそれが美化されて行ったわけです。
結果として、
戦陣訓を人に押しつけるばかりの戯けが戦闘を指揮して、
大本営発表という
嘘が罷り通るようになりました。
それを私達は、
後の世代に教訓として
伝えていかねばならないでしょう。
「230万人はどのように戦死したのか」
と題して、
230万人と推計される
戦没者数を
死地別に書き込んだ
地図を
アップしてました。
☆ 記事URL:http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data1.html
これです。
どの戦場でも
戦死者の6~8割が「餓死」という世界でも例がない惨状です。
このデーターの参考にした資料は、
「インパール作戦」に参加した中隊長が記した手記なようです。
歴史学者・藤原彰氏が独自分析されたようです。
毎日新聞の
上掲サイトに次のような記述がありました(〔餓死、戦病死が約6割 兵站軽視のツケ〕参照)。
――「中隊310人のうち、戦死40人、戦病死96人、患者42人」と記録していたことなどに着目。同作戦が展開されたビルマ・インド方面の戦没者約18万5000人のうち、約78%に当たる約14万5000人を戦病死者ではないかと推定した――と。
盛田隆二 / Ryuji Morita@product1954さんが
――日本軍の「ブラック企業」体質は70年前から現在に一直線に繋がっている〔23:20 - 2014年8月15日 〕――
というツイートをされています。
さもありなんですな、残念ですが――。
半藤一利さんがインタビューで仰る通り、
戦前の日本は、
近代国家の体をなしていなかったのだろうと思います。
――「戦没者230万人」という数字はそのことを端的に示していると思います。国民を戦地に送り込むならば、国家は責任を負わなければなりません。いつ、どこで、どのように戦没したのか。確実に把握していなければならない。ところが、「戦没者230万人」という大枠のみが残り、具体的なデータは部分的にしか残っていません。――
というくだりを読んで、
情なさでいっぱいになりました。
戦死者の6~8割が「餓死」という数値さえ
推測に基づくのです。
普通、戦争犯罪は、
相手国からなされるものです。
しかし、日本軍の場合には、
「敵は、本能寺ならぬ、日本の司令部にある」
という頂けない事情が背景にあります。
自軍を壊滅させるのは、
司令部に指導力がないからです。
棚からぼた餅で
勝利が舞い込んでくるように
考えていて、
兵站への配慮がまったくなかったのです。
そのくせ、
根こそぎ動員をしました。
そんなことをすれば、
負けるべくして負けてしまいます。
しかし、軍の指導部に
その配慮ができませんでした。
追い詰められたからそうなったのでなく、
国民は端から人間ではなかった、
ということでしょう。
言うならば、将棋の駒ならばらこそ
降伏が許されませんでした。
陸軍の特攻作戦を指揮した冨永恭次は、
出撃前の訓示で
「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」
と豪語する一方、
自分は敵前逃亡で生き延びたと言います
(ウィキペディア「富永恭次」の項目参照*http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E6%81%AD%E6%AC%A1)。
結局は、ただの口約束に終わったわけです。
でも、この大将、岸信介などと同じで、全然、良心の痛みなど、
持たなかったでしょうね。
不幸にして、
日本軍のリーダーは、
そういう輩ばっかりでした。
なぜ、こんな愚か者に指図されて戦わねばならなかったのか。
ひとつは、
真珠湾やマレー半島などにおける緒戦の戦果が、
目をくらませましたということが
挙げられます。
もっと根本的には、
天皇を中心とする司令部が
本質的に
‟他人任せ”だったからです。
すなわち
「靖国の神」
という
人ならぬ死者に任せっ切りにしてしまったから
愚かなことが平気で行われ、
反省どころか、
逆に、どんどんそれが美化されて行ったわけです。
結果として、
戦陣訓を人に押しつけるばかりの戯けが戦闘を指揮して、
大本営発表という
嘘が罷り通るようになりました。
それを私達は、
後の世代に教訓として
伝えていかねばならないでしょう。
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