東北に行く際、
どうしても寄っていきたい場所がありました。
畏友ブログ友の、kayo(伊藤歌夜子)さんの展覧会の会場でした。
しかし、辿り着いたのは、
いや~、恒例の「迷い子」を
やっちゃいました。
看板に「白山」って、書いてあるでしょ?
ここじゃないんですね、
行先は、「亀田」です。
(おっと)
とばかり引き返し、やっと辿り着きました。
ギャラリーの入口です。
「第4回 アート・ウオッチング 写真展」をやってます。
会場内では、いろんな作家さんが
作品を展示してました。
すべてを説明し切れるものではありません。
ただ、全体の作品群の印象として
思い出したのが
赤瀬川原平氏の呼びかけになる
「トマソン」でした。
もし、この概念の意味が分らないという方は、
ネットで検索して調べてみて下さい。
僕なりの理解では、
「こんなものがなぜここにある?」
と大なり、小なり考え、
それを楽しむ
芸術運動と言ってよいものです。
展覧会には
個性的な写真が所狭しと並んでました。
その中で、
“凝視したくない”と感じたものをあえて選び
紹介します
(へそ曲がりだから、こういう選択をするんですかな。
許してやってください)。
まずは、
お地蔵さんの写真を撮り溜めたものでした
(半間 道子さんの作品)。
沢山あるお地蔵さんに供えられた
玩具等を見ていて、
無念の死を遂げた子どもさんのことを
考えてしまいました。
そして一枚、一枚の写真に
「こんなものがなぜここにある?」
と思ってしまいました。
たとえば、機関車、
たとえば、草履、と。
で、意外なのは、それらに地蔵群に混じって、
供養料を記した看板の写真が
あって当然だろうと言わんばかりに自己主張していたこと。
kayoさんの解説によると、
作家さんは、これによって
現実を取り戻して頂きたかったと…
(何と、お優しい!)。
話が変わるようですが、
よく、ワークショップって、
ありますよね。
人と人を取りつなぐ
現代都市生活者の孤独を癒すイベントです。
有意義な取り組みとは思います。
しかし、
こうした催しごとの危険性として
あまりに刺激的で、情緒に満ちた世界だと
入り込み過ぎてしまって
現実に戻れなくなる
ということがあると思います。
だからこそ、お地蔵さんの写真を撮られた方の、
踏み込んで欲しい、
しかし、また日常の世界に戻ってね、
という作家の幾分お節介な配慮に、人間らしい温かみを
感じました。
それが新鮮でした。
でも、正直言って、
僕一人では気づけなかったな。
ありがとう、kayoさん、
丁寧な解説に合点が行きました。
比較のため、もう一枚、
上とは対照的な写真を紹介しておきます。
古びたプレハブ・個室トイレの集合写真です
(玉川 勝之さんの作品です。
普段は金属を使う造形を手掛けておられるそうです)。
僕は、この写真を見て、
ロシアにあるという
核廃棄物を積み込んだコンテナが
無数に破棄された地域を写した衛星写真を
思い起こしました。
こちらの作品の特徴として、
お地蔵さんの画像に見たような
現実に引き戻す装置はついてませんでした。
映っているは、
まさに現実そのものだからでしょうか。
ただ、現実的と言っても、
廃棄物から立ち昇る、もしくは、
覆う影として、また光として、
何やらまといついてるようだったです。
どうしても寄っていきたい場所がありました。
畏友ブログ友の、kayo(伊藤歌夜子)さんの展覧会の会場でした。
しかし、辿り着いたのは、
いや~、恒例の「迷い子」を
やっちゃいました。
看板に「白山」って、書いてあるでしょ?
ここじゃないんですね、
行先は、「亀田」です。
(おっと)
とばかり引き返し、やっと辿り着きました。
ギャラリーの入口です。
「第4回 アート・ウオッチング 写真展」をやってます。
会場内では、いろんな作家さんが
作品を展示してました。
すべてを説明し切れるものではありません。
ただ、全体の作品群の印象として
思い出したのが
赤瀬川原平氏の呼びかけになる
「トマソン」でした。
もし、この概念の意味が分らないという方は、
ネットで検索して調べてみて下さい。
僕なりの理解では、
「こんなものがなぜここにある?」
と大なり、小なり考え、
それを楽しむ
芸術運動と言ってよいものです。
展覧会には
個性的な写真が所狭しと並んでました。
その中で、
“凝視したくない”と感じたものをあえて選び
紹介します
(へそ曲がりだから、こういう選択をするんですかな。
許してやってください)。
まずは、
お地蔵さんの写真を撮り溜めたものでした
(半間 道子さんの作品)。
沢山あるお地蔵さんに供えられた
玩具等を見ていて、
無念の死を遂げた子どもさんのことを
考えてしまいました。
そして一枚、一枚の写真に
「こんなものがなぜここにある?」
と思ってしまいました。
たとえば、機関車、
たとえば、草履、と。
で、意外なのは、それらに地蔵群に混じって、
供養料を記した看板の写真が
あって当然だろうと言わんばかりに自己主張していたこと。
kayoさんの解説によると、
作家さんは、これによって
現実を取り戻して頂きたかったと…
(何と、お優しい!)。
話が変わるようですが、
よく、ワークショップって、
ありますよね。
人と人を取りつなぐ
現代都市生活者の孤独を癒すイベントです。
有意義な取り組みとは思います。
しかし、
こうした催しごとの危険性として
あまりに刺激的で、情緒に満ちた世界だと
入り込み過ぎてしまって
現実に戻れなくなる
ということがあると思います。
だからこそ、お地蔵さんの写真を撮られた方の、
踏み込んで欲しい、
しかし、また日常の世界に戻ってね、
という作家の幾分お節介な配慮に、人間らしい温かみを
感じました。
それが新鮮でした。
でも、正直言って、
僕一人では気づけなかったな。
ありがとう、kayoさん、
丁寧な解説に合点が行きました。
比較のため、もう一枚、
上とは対照的な写真を紹介しておきます。
古びたプレハブ・個室トイレの集合写真です
(玉川 勝之さんの作品です。
普段は金属を使う造形を手掛けておられるそうです)。
僕は、この写真を見て、
ロシアにあるという
核廃棄物を積み込んだコンテナが
無数に破棄された地域を写した衛星写真を
思い起こしました。
こちらの作品の特徴として、
お地蔵さんの画像に見たような
現実に引き戻す装置はついてませんでした。
映っているは、
まさに現実そのものだからでしょうか。
ただ、現実的と言っても、
廃棄物から立ち昇る、もしくは、
覆う影として、また光として、
何やらまといついてるようだったです。
本当に現れましたね!
市内の人でも分かりにくい場所なのによくぞいらしてくださいました。何遍お礼を言っても足りません。
大概、展覧会のレセプションで作家のギャラリー・トークがある事が多いです、これを聞くのと聞かないのでは作品を感受するのに違いが出ると思います。
観る人がどう感受するかは自由だとよく言いますが、作家は意図した事がその通り伝わる事を本当は願っているのです。
私のは、今更ですが切り捨てられたばかりのバラの花の山、枯れた花では無い事が生々しく哀しい姿に映りました、勿論大震災のショックと悲しみの大きさとリンクしていたのです、セシュウムの雨にうたれながら・・残酷な情景でした。
玉川さんもあまりの現実的な「その場」に撮ってすぐさま逃げたーと言ってましたよ(--;
写真として再現された、ほとんど実寸大のバラの花の群れを初めて目にしたとき、実を言いますと、ご自分で刈り取ったものではないか…という疑いを、一瞬、持ちました。
しかし、それは、誤解だったわけです。情け容赦のない災害のすさまじさと、「セシュウムの雨」という目に見えない脅威を前にして立ちすくむkayoさんの瑞々しい感性がぎっしりつまった、本文では触れませんでしたが、ギャラリー・トークの必要性を痛感させられる一枚でした。