のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

特別攻撃隊(特攻隊)に選ばれた事を光栄に感じる気持ちについて

2013年12月25日 05時01分57秒 | Weblog
「永遠のゼロ」、

もし、この映画を批判したいなら、

実物を見ておく必要があります。

それが

この映画を見た動機でした。

館内に、

若い人たちがいました。

「日本の軍国化」が

気になって

いたたまれなくなりました。

しかし、

彼らの目を信じることにして、

最後まで

見ました。

結末を知りたくない人が

いるでしょう。

ネタばれの可能性が

あるので、

映画を実際、

見たいと思う人は、

こっから先、

読まない方がいいかも、です。

さて、この映画のテーマは、

「愛する人のため死ねない」

という意識は、

「愛する人のために死ぬ」

という思いに

変換可能ではないか――

問題提起だったと思います。

変換は、思うに、

可能でしょう。

ただ、そのためには

ある状況変化が

前提されないとダメです。

それは、

その愛する人の死です。

アニメ界の大御所、

宮崎駿氏が

「永遠のゼロ」の

原作者、

百田尚樹氏への嫌悪感を

露骨にして

「新たな神話を作ろうとしている」

と言いました。

「神話」という非難をする根拠は、

この映画にある

欺瞞性を

指摘したかったからだろうと思います。

欺瞞とは要するに、

虚偽を

虚偽と知りながら、

真実として

伝える行為でしょう。

僕なりに

その虚偽について

取り上げますと

上記、テーマにある

「愛する人」が

入れ替わっているのに、

“入れ替わっていない”と言う誤解を

映画を見ている人に

与えている

ということです。

すなわち、

愛する妻、子どもが

いつの間にか

師弟愛で結ばれた相手に

すり代っています。

そこを見抜けないと

「特攻」

という史上最悪と言ってよい

愚劣な戦闘行為を

(日本的で、とても美しい精神性の顕れ)

として理解する

向きが

後に続くのではないかと

恐れます。

さて、愛する人のすり替えがないとします。

単純に

「愛する人のために死ぬ」ことが

テーマだったとして、

その具体的な姿を問う映画だったとします。

これに関して、

忘れられない人物がいます。

「上原良司」という特攻隊員です。

かつて、

この方につき触れました

(拙稿「特攻隊員、上原良司の残した言葉 / 『あゝ祖国よ恋人よ』」参照/リンク)。

遺書に残した次の件が印象的です。

「空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事は確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事でも強いて考えうれば、彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何も云う権利もありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。こんな精神状態で征ったならもちろん、死んでも何にもならないかも知れません。故に最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です」。

この人の場合、

特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思うのは、

その戦闘行為が

「死んでも何にもならない」という

思いあるが故です。

すなわち、意味のない死だから

その死を自分が引き受ける――

という形での犠牲に、

特攻隊の正当化が語られています。

意味のない死、つまり、

“自殺”

であることを身をもって示すという、

この発想は、

「日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ。…敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ。今日覚メズシテイツ救ワレルカ。俺タチハソノ先導ニナルノダ。日本ノ新生ニサキガケテ散ル。マサニ本望ジャナイカ」

という吉田満著『戦艦大和ノ最期』に伝えられている

臼淵大尉の言葉に重なります。

ここまで覚悟した死なら、

「犬死ではない」

という理解は、

かえって偽善です。

宮崎駿氏が、

インタビューで述べた

映画「永遠のゼロ」のコメントであろう

次の言葉に

その気持ちがよく現れています

(拙稿「宮崎駿監督 /『〈零戦の物語〉により神話を捏造しようとしている』」参照/リンク

「今、零戦の映画企画があるらしいですけど、それは嘘八百を書いた架空戦記を基にして、零戦の物語をつくろうとしてるんです。神話の捏造をまだ続けようとしている。『零戦で誇りを持とう』とかね。それが僕は頭にきてたんです。子供の頃からずーっと!」

さて、最後に

上掲書『戦艦大和ノ最期』に関連して、

臼淵大尉が

触れた日本側の

「日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ」

という点につき、

一言します。

文中の

「進歩」は何を意味するか――。

思うに、

この言葉は、

下記に紹介するサイト「木全賢のデザイン相談室」にある

人間工学の発想と言い換えて良いでしょう。

「人間を守るという製品に求められる当然の思想(有用性)」を指します。

たとえば、戦闘機が

弾丸で穴だらけの状態で帰還したとき、

その扱い方の差として

歴然としたものがあったようです。

米国は、

自国戦闘機の弱点を探る機会として

徹底的に利用しました。

日本は、

軍の機密事項として情報公開はもとより、

「弱点の究明」など

そもそも利敵行為として排斥されました。

神国日本に、

弱点などないということです。

「要は、パイロットの根性の問題」

として、

片付けられました。

その結果、

開戦当時はなかった日米両機、

すなわち、

米国のグラマンと

日本のゼロ戦との間に、

次のような違いが生じました。

一つは、パイロットの後部の鋼材の有無です。

もう一つは、

エンジン部の被覆膜の有無です。

ゼロ戦は、いずれも考慮の外に置きました

(拙稿「有意性と有益性」参照/リンク)。

つまり、日本軍は、

「攻めの論理」ばかりで

「守り」への配慮が

欠如していました。

小回りが利くという利点を

追及するあまり、

安全性への配慮がいい加減だったのです

(柳田邦男著「ゼロ戦コンセプトの成功と失敗」参照)。

人間工学がアメリカで始まった背景として、

木全賢氏が

「人間を守るという製品に求められる当然の思想(有用性)があります。日本にはその思想がなかった。ゼロ戦の設計思想は、戦争という状況がどれほど命を軽視してしまうかという実例です。

 そこに人間のためのデザインはありません。」という、

ほとんどゼロ戦について、

糾弾に近い指摘をされています

(「木全賢のデザイン相談室」の記事「戦争とモダンデザイン」参照/リンク)。

同氏が引用される

「アメリカの戦車にはエスケープハッチ(脱出口)がついていたが、

日本やソ連の戦車にはない」という

田宮俊作著「田宮模型の仕事」に記された発見など、

福島の原発事故以降、

益々、その思いを深くさせます。

野田佳彦が

政権交代の意義を120%台無しにして、

その後、

岸信介という戦犯にして

売国奴な男を、

祖父ゆえに崇拝する安倍晋三が

政権を握り、

取り返しのつかない事態に立ち至ってます。

すべては、

インチキ選挙をプロデュースした

官僚の責任なのですが、

残念至極、

無念な話です。


<追記-2013-12-25 05:01:57>

ネタばれに細心の注意を施し、

上記論考では

直接、

結末に触れるようなことは避けました。

その結果、

不本意ながら、

結末の記述を抑制しました。

それが

参議院議員の三原じゅん子

という

無神経な元女優さんが

ツイッターで

ネタばれ

お構いなしの

ツイートをしてましたので

それにつき

コメントする形で、

映画の

結末につき

改めて論評させて頂きました。

よければ、

ご参照のほどを。

タイトルは、

「三原じゅん子‏さん、映画「永遠の0」を語る」です。

☆ 記事URL:http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/a3c1cccbaae602e6c65cb9b5e546f4af

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