のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

介護、ここ1カ月

2009年10月23日 12時25分10秒 | Weblog
 お袋、施設ではずっと以前から失禁があるようでした。しかし、自宅での失禁など、思いもよらなかったです。別に、施設を責めるつもりはありません。それだけ認知症者の介護は手がかかるということです。

 しかし、最近になって、自宅でも失禁するようになりました。一対一介護でも、どうしようもないところに来ているんだなと思うと、気が沈みます。お袋は、足腰が弱まって、立位が困難になりつつあります。声をかけるにも苦痛が伴うので、リハビリパンツの中でしてくれていいよ、という諦めに似た気持ちに陥ります。しかし、他方では、寝たきりになったらどうしようという不安にも襲われるわけです。

 勝手なものです。しかし、本当のところを白状しますと、一番参るのは、甘えられるときですね。そばにいて欲しいという思いを直截に訴えられたとき、イライラ度が一挙に高まります。親は、いつまでも親でいて欲しい、という欲望にも近い願いが湧き起ります。そこで、思ったのは、しかし、そのような願望は振り捨てた方がいいのかもしれないということ――。

 たとえば、昨日、また、「どうしたん。頭のてっぺん、禿げてるやん」という軽口を言われました。それからしばらく、会話が弾みましたよ。対等であるって、こんなにも楽しいのだ、ということを改めて感じました。

 手を握ってあげること!

 頭を肩に依りかからせてあげること!

 一緒に歌を歌ってあげること!

 そして、時折りは、嘘のない範囲で本人の美点に感心してあげること!

 どれもこれも、自分が子という立場にいることを忘れないと、素直に実行できないことばかりです。子育てと介護は似ているところがあります。しかし、決定的に違うのは、このように、介護者の側に甘えられることに対する抵抗感が常につきまとってくることです。ある意味、これは宿命的な負荷です。しかし、そこをよく理解したならば、克服できなくはない制約でしょう。

 目線の高さを同じにすること、これは、教育に限らず、福祉全般に言える必要な態度です。なぜって、本人にとって最適な環境とは何か、それを知りたくば、本人に尋ねるのが一番だからです。もし、対等な関係を築けなければ、本心など、なかなか聞き出せるものではありません。

 数日前、次のような亀の玩具を入手しました。衝動買いですが。




 モデルは、ガラパゴス諸島に生息するカメですね。お袋は、当初、気味悪いと言って拒絶的でした。でも、この玩具、下から手をさしこんで動かせるようになってるんですね。で、手をさしこんでお袋に話しかけると笑って返事してくれました。このやり方で、幾らか気持ちを引き出すのに成功しました。まさに,会話のツールであれば、何でもありという気がします。





 人形は、軍手でも作れます。一度は、挑戦したいです。乞う、ご期待!

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