1968年10月号で、田中角栄は、今日出海との対談で、こう言っています。
<昭和60(1985)年に世界はどうなるか、
そのときに世界の中の日本はどういう立場にあって、
どうしなければならないのか、
そういう前提で私は都市政策を考えておるのです>
まさにその1985年の2月7日に竹下登が叛旗をひるがえして、
田中派の中堅・若手で創政会を設立しました。
同年2月27日、角栄は脳梗塞に倒れ、政治活動が不可能になってしまいます。
たかが雑誌での発言。しかし、雑誌への思い入れを推し量るに足る
エピソードがあります。84年、矢吹俊吉という「現代」の記者が
角栄にインタビューを行った際のことです。
記者の質問を無視して、戦後の政界の裏話を語り始めたそうです。
途中、宮沢喜一の訪問を告げられたのに
「取材中だ、追い返せ!」の一言。そのままノンストップで3時間、
話し続けたそうです。
ちなみに、その記事は、94年2月号に「田中角栄独白録『わが戦後秘史』」
として載っているようです。角栄が逝去した93年12月16日になって、
取材した記者がふらふらの状態で「あ、あの原稿があった」と、やっと思い出し
掲載するに至ったとのことです。
こうして、この記事が角栄の遺書のように発表されました。
そんな逸話を知って、確かに、雑誌上の発言であっても、85年が彼にとって
「特別な年」だったんだろうな、と想像します。
(昭和60年か、いよいよ来年だな・・・)という思いが
角栄にあったことでしょう。
94年2月号に掲載された記事の取材は、
そんな気合いの入った年になされたのだと思います。
何故、85年を目途にしたのか、僕には分かりません。
しかし、角栄にとっては、区切りになる年だった。
彼の気持ちを理解するには、それで十分でしょう。そして、よりによって
彼の下にあった「言語明瞭。意味不明瞭」の竹下登が、
85年に叛旗をひるがえしたのです。
怒りはいかほどだったか――。
カリスマの末路と言ってしまえばそれまでですが、
一抹の哀れさを感じます。
さて、ここで質問です。
竹下登には七奉行と呼ばれた子分ができました。
この七奉行の内、最年少だった小沢一郎を党の幹事長に推し、
竹下派を分裂させるきっかけを作った同派のまとめ役だった人って、だ~れ?
答え:金丸信
<昭和60(1985)年に世界はどうなるか、
そのときに世界の中の日本はどういう立場にあって、
どうしなければならないのか、
そういう前提で私は都市政策を考えておるのです>
まさにその1985年の2月7日に竹下登が叛旗をひるがえして、
田中派の中堅・若手で創政会を設立しました。
同年2月27日、角栄は脳梗塞に倒れ、政治活動が不可能になってしまいます。
たかが雑誌での発言。しかし、雑誌への思い入れを推し量るに足る
エピソードがあります。84年、矢吹俊吉という「現代」の記者が
角栄にインタビューを行った際のことです。
記者の質問を無視して、戦後の政界の裏話を語り始めたそうです。
途中、宮沢喜一の訪問を告げられたのに
「取材中だ、追い返せ!」の一言。そのままノンストップで3時間、
話し続けたそうです。
ちなみに、その記事は、94年2月号に「田中角栄独白録『わが戦後秘史』」
として載っているようです。角栄が逝去した93年12月16日になって、
取材した記者がふらふらの状態で「あ、あの原稿があった」と、やっと思い出し
掲載するに至ったとのことです。
こうして、この記事が角栄の遺書のように発表されました。
そんな逸話を知って、確かに、雑誌上の発言であっても、85年が彼にとって
「特別な年」だったんだろうな、と想像します。
(昭和60年か、いよいよ来年だな・・・)という思いが
角栄にあったことでしょう。
94年2月号に掲載された記事の取材は、
そんな気合いの入った年になされたのだと思います。
何故、85年を目途にしたのか、僕には分かりません。
しかし、角栄にとっては、区切りになる年だった。
彼の気持ちを理解するには、それで十分でしょう。そして、よりによって
彼の下にあった「言語明瞭。意味不明瞭」の竹下登が、
85年に叛旗をひるがえしたのです。
怒りはいかほどだったか――。
カリスマの末路と言ってしまえばそれまでですが、
一抹の哀れさを感じます。
さて、ここで質問です。
竹下登には七奉行と呼ばれた子分ができました。
この七奉行の内、最年少だった小沢一郎を党の幹事長に推し、
竹下派を分裂させるきっかけを作った同派のまとめ役だった人って、だ~れ?
答え:金丸信
よく分からないですね。
小泉さんって、存在感があるようで
政権から離れた途端、いないも同じ・・・
「現代」で記事になった回数もたったの1回
切りだそうです。
頭が痛くなるほど、連綿と続く田中角栄の特集記事が持つ毒々しさからしても、政治家としての存在感に圧倒的な違いがあり、唖然としてしまいます。
辺見庸など、本当にどんなふうに思っていらっしゃるでしょうね。僕も気になります。
ま、とりあえず、年末のあわただしさに、やることの優先順位を間違えないようにして、いい年を迎えたいものだと思います。
では、やることのその一、御挨拶です。
♪kayoさん、来年もよろしくお願いしま~す。
何がなにして何とやら~~ってな感じで
私なんぞ、てんでちんぷんかんぷんでございますが
政治がここまで脆弱で弱っちくなった今日、必然的に力強いヒーローを人々は求めるのでしょうね
そのイメージに角栄さんとか浮かんで来るのでしょうか?
確かに強烈でした!!
まだ乙女の私なぞ政治などまるで解らず
“いやだぁ~ 土建屋のオヤジじゃん!”
などとめっそうもない事を言い放っておりましたが・・
辺見庸氏など今の世の中どんな風に見ているのでしょうね?
あの骨太の氏の意見など聞いてみたいと思いますが・・
ま、ひとつ来年もお付き合いのほど宜しくお願いつかまりまする
よく書いてもらえましたね!
機会があれば、僕もとうふさのため色紙書かせてもらいます。
そういうわけで、来年もよろしく!!!
この人、竹下さんの親戚なのですが~
それだけの理由で、竹下派の経世会の会長に収まったと受け取れなくもない。それが問題と思うのです。
「政治って分かり難い」に共感です。しかしだからと言って、同族会社よろしく、姻戚関係や血縁関係という分かりやすい尺度で組織作りを行ってもらいたくないです。そう思いませんか…
難しい話はこれぐらいにして――。
エルモリアさん、来年もよろしく。コメント、ありがとうさんでした
そういえば、うちに角栄さん直筆の
色紙があったなぁ・・・
何か難しい言葉が書いてあった・・
どこ行ったかなぁ・・
今年は楽しいコメをありがとうヾ(=^▽^=)ノ
来年もどうぞよろしくお願いします♪
良いお年を( '∇^*)^☆♪
それでも、チンプンカンプンでした
今年は忠太さんとも出遭えて、愉しいブログを拝見させていただきました。
これかれも、どうぞよろしくお願いいたしますね
よいお年をお迎えください!
みんな忘れ去っているだろうなと思いながら、この記事を書きました。複雑な気分です。
ところで、白い花さん、こちらこそ、お世話になりました。ユニークなブログ、これからも書き続けて行って下さいね。
なぜなのでしょうかね?
来年も中身ぎっしりの読み応えあるブログ、
期待しています。
お世話になりました。
マムたん、頼りない忠太をこれからもよろしく頼んます! 寂しがり屋・・・だからね、また、これからもコメント、面倒でも時間の許す限り、やってやって下さい。
正月は、寝正月ばい、ばいのばいですたい。 チアー
ブログを始め、忠太さんに初めてお声をかけて頂き
多くの友達にも巡り会えました。
ここ迄続けて来れたのも忠太さんの暖かい
励ましがあったからと思っております。
心より感謝しています。
本年中はお世話になりました。
どうぞ良いお年をお迎えください。
チアーちゃんも初めてのお正月楽しんでね。
来年もよろしくお願いいたします。
武蔵ニャンニャン mu-mamu