のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

娘さんの形見という大切なナイフを、脅すために持ち出したのはなぜ?

2010年07月08日 12時04分55秒 | Weblog
裁判員裁判第一号で、「識者」が

プロの法律家なら決して訊くことのない、

裁判員らしい質問だと褒めあげ、讃えたのは、

この質問らしいですよ。

「娘さんの形見という大切なナイフを、脅すために持ち出したのはなぜですか」

(岩波書店刊「世界」7月号に掲載された佐木隆三氏の論稿、「吹き込まれた生気」参照)。

前から気になっているところでした(裁判員裁判第1号被告人の刑の確定参照)。

また、佐木隆三という作家こそ、

「識者」とされた人物だということも知りました。

確かに、上に掲げた問いは、法律の専門家なら、しなかったでしょうね。

裁かれるべきは、被告人の“父親らしさ”ではないからです。

あくまで、お向かいの整体師の女性の死への関与が判断の対象です。

しかし、専門家でなくとも、

何が論点なのかが分かっているなら、訊くはずもない事柄です。

被告人は、この質問に対し、次のように答えたそうです。

「台所に刺身包丁や出刃包丁もあったけれど、

そんなものを持ちだしたら危険だから、

刃渡り10センチのナイフにしたんです」云々。



このようなやり取りに先立って、

凶器のナイフは、

「病死した娘が使っていたもので、

海でアワビを獲っていたから、形見だと思って玄関先の道具箱に入れいた」

という被告人の説明がなされたようです。

その説明に誘発されたのでしょうね。

質問をされたのは、

41歳の栄養士さんだったらしいです。

自分の父親に思いを馳せ、娘として、父親に自分の形見は、

まかり間違っても犯罪の道具にしないで欲しい

という願いを込め、

尋ねられたのだろうと思います。

自分と被告人の接点を見つけられなくて、

たまたま出た「娘」という言葉に反応してしまった気持ち、

分からないわけではないです。

しかし、「娘として許せない」と言うのでは、

説得力に欠けます。

だって、被告人は、実際には質問をした裁判員の父親ではないからです。

それに、形見もくそもあれへん、あんた、生きとるやん、と思いました。

こんな感傷的な質問のため、

被告人の言動に何の重きも置かれなくなったとしたら、

それは、不正義そのものです。



もっと言うと、被告人にとって、娘さん愛用のナイフは、犯行時、

お守りのような働きしたのかもしれないのです。

唐突でしょうか。

僕は、ありえる話と思います。

被告人にとって、被害者は“悪魔”のような存在だったのかもしれません。

“悪魔”とくれば、必要なのは、お守りでしょ、やっぱ。

このような想定は不謹慎でしょうか。

ここで、不謹慎と考えてしまえば、被告人の人権が危うくなるのです。

冷静に被告人の発言を受け止める限り、

殺意を否定しています。

刃渡り10センチのナイフなどは、

殺人の凶器として相応(ふさわ)しくないとも言えそうです。

にもかかわらず、

「殺人の意図(故意)があったとは考えにくい」

と誰も指摘しなかったのは、

やはり論点が共有されていなかったせいではないか、と思います。



「識者」は、被告人の返答につき、

「これは苦しい弁明」と決めつけています。

しかし、根拠は、一つきりです。

「国選弁護士が渋い表情になった」ということです。

弁護士の表情を見れば、

被告人の考えを読みとれるかのような強弁のなさり方です。

小説家らしいと言えば、誠に、らしいです。

しかし、裁判は、ドラマではないのです。

この点、氏は、何か勘違いされているように見受けられます。

ドラマ構成なら、弁護士を

被告人の心を“映し出す”鏡のような存在として描くことも許されるでしょう。

しかし、事実は、小説より奇なりです。

佐木氏の思いに反し、

被告人にとっては、「苦しくない弁明」だったかもしれません。

実態は、被告人の余りに堂々とした態度に起因して生じた

「識者」の錯視だったのかもしれないし、

二人いた国選弁護士の間を、

一匹の蚊がすりぬけた結果なのかもしれないのです。

そういうことを、考えて見ないといけません。





さて、被告人は、被害者にも落ち度があった理由として、

口論のさなか、「国の世話になっているのに生意気言うな」

と侮辱されたことを挙げています。

生活保護の受給者であること自体は、

心がけ次第で何とかなるものではありません。

そんな、どうにもならんことを責められ、

被告人が追い詰められた心理状況は、想像つきます。

被告人は、犯行当日の朝を振り返り、

「やむなく出かけることにしたら、喧嘩になりました。

言い負かされそうになったので、

脅すためナイフを突きつけたら、『やれるものならやってみろ』と言われ、

引っ込みがつかなくなって、刺したんだと思います」と、

殺傷行為のなされた状況を述べています。

しかし、裁判の過程において、

被害者の攻撃的な態度につき、証拠調べ等をした形跡がありません。

その辺りの経緯を、佐木氏は、

こんな風に説明します。

「前夜に1リットルもの焼酎を飲み、

迎え酒までした72歳の老人が、犯行に至る状況を細かく記憶してるとは思えない。

証人として付近の住民三人が出廷したけれども、

被害者が「やれるものならやってみろ」と発言したことを裏付けるものは皆無だった」と。



でも、考えて見て下さい。

幾ら酒を飲んでも、酩酊状態にならない人は、ごまんといます。

高齢者であるほど、アルコール耐性ができあがり、

被告人が事件当日のことを正確に覚えていたとしても不思議ではありません。

これは、科学的にも立証可能なことです。

また、「やれるものならやってみろ」と発言したことを

裏付けるものは皆無だったと、この人は、述べるけれど、

逆に、発言していないことを裏付ける証拠もまた、皆無だったわけでしょ。

また、この発言が、そもそも問題になるのは、

被害者の態度が被告人を見下すものであったかという脈絡でです。

この発言のみを切り離し、近視眼的に事件の背景を探ると、

木を見て、森を見ずということになりかねません。

仮に当該発言を証拠立てるものがなかったとします。

しかし、その場合でも、被告人が外出しようとしていたとき、

一旦は、レモンチューハイを飲み、

被害者の立ち去るのを待った、

という事実に被害者の抑圧的な、

ある種の被告人に対する精神的支配が認められるのではないでしょうか。

「被害者に落ち度があった」という表現に抵抗があるなら、

「被害者にも加害者の一面があった」と考えればよろしいかと思います。



被告人は、若い頃、「住吉連合」という暴力組織に属し、

初犯は傷害致死で前科11犯です。

普通の人にとって、共感を持ちにくい、どうもドン引きする相手です。

しかし、裁判は、被告人に即さないと

裁判を通して伝えようとする、人としての良心の声が届きません。

その点に関連して、裁判員は法律の素人でも、

対する被告人の方が暴力の元プロで、

皮肉なことに、

その分、法律の運用の仕方に詳しかった

という特異性が、この裁判では注目に値しました。

つまり、情状を酌量せず、しかも量刑相場を持ち込まない、

その結果、

検察官の求刑内容をなぞるような判決を下せば、

被告人の予想を裏切ったことになります。

暴力の元プロなんてのが相手だから、予想を裏切って正解って?

そりゃ、ないです。

刑法の大原則に、罪刑法定主義というのがあります。

これは、相手がやくざであろうがなかろうが

例外を許さないほどのものであるから、

大原則なのです。

なぜ、法律の形で、

「罪」と「罰」が規定して置くかというと、

市民の理性を信頼し、「罪」を犯すなら、

これこれの「罰」を覚悟してやれと言う考え方が根本にあるからです。

量刑に相場があるとすと、

その相場に従った処罰を想定して罪を犯す、という事態が発生します。

となると、罰の内容について、

相場の根拠がなくとも、あるのに同じということです。

これにつき、「識者」は、

相場などは、考えないで置こう、とする立場を選んでおられるようです。

すなわち、――テレビでもしゃべってましたね、

覚えていらっしゃる方もいるでしょう――

量刑相場というのは業界用語だから、普通の市民の常識と相いれないだろう、

裁判は生きものであり、それぞれの情状により判断すべきで、

専門家が相場を持ちだすのは、

いかがなものか、というコメントに識者の考えが現れています。



この「業界用語」だからという理由づけに、

僕は、とても違和感を覚えました。

裁判官を、魚市場に出入りする魚屋さんとか、

工事現場で働く土建屋さんと同列に置いて

ことの是非を論じようとしているかのようだからです。

別に、裁判官の仕事を神聖視するつもりは毛頭ありません。

しかし、彼ら、裁判官に与えられた権限は、国家権力の行使そのものなのです。

量刑という権力の行使に当たっては

国家のご威光の下、「自由裁量」にゆだねられるところがどうしても残ります。

この自由裁量、被告人から見て、ブラックボックスです。

何が出てくるか分からない。

ただし、民衆に寄り添うような性質を持ってなければならない、

時代劇の「遠山の金さん」の刺青のようなもんです。

どういうことか、

この時代劇を例にとって、もう少しお話します。

見せ場は、いつも、こんな具合です。

審議がこう着状態に入るや、

藪から棒に、刺青判官様が膝を立てたと思いきや、片肌脱いで

「この桜吹雪が目に入らねぇか」と言います。

そうすると、

「あ、あ、あなたは、き、金さん…」

みたいな感動場面があって、

関係者一同がへなへな。

お白州に座らされた悪党も恐れ入ります。

刑の言い渡しが行われ、

最後は、主役の「これにて一件落着」の宣言で終わります。

ところで、この結末ですが、

一件落着する要素として、

主役の奉行所判官が、証拠に直接に接している点を挙げられるでしょう。

現代の裁判においても同じだ、と言えるのではないでしょうか。

つまり、自由裁量というブラックボックスは、

証拠に直接、接する

裁判官への信頼を介して、

司法を円滑に作動させるためのシステムです。

ただ、乱用され、その結果、

量刑が事案ごとにばらばらでは、裁判の公平性が疑われますし、

裁判員も不安を覚えます。

そこで、自由裁量を内在的に規制する原理として

「量刑相場」なる、量刑のノウハウがあることを説明するとともに、

実際的な観点から、軽減率は求刑の何割ぐらい?

という問いに、裁判所は率直に答えるのが妥当です。

また、裁判官が今まで、誇(ほこ)りを持ってしていたことなら、

答えるのがむしろ当然だと言えるでしょう。

「量刑相場」という語彙の適否は、別の問題です。



刑罰の目的は、復讐にあるのではありません。

犯行当時、持てなかった規範意識を犯罪者の皆さんに持って頂くために行うものです。

この罪には、この程度の刑罰が下るというのは、

国家と国民との間で交わす約束事です。

別な言い方をすれば、

下される刑罰について犯罪を犯す国民に予測性を与えるのが法の趣旨です。

法治国家である限り、その約束に従って刑を科すべきなのは、当然です。

「相場」が長い期間、通用していたのであれば、

事実上、法として機能するのは、自然の成り行きです。

前にも書きましたけど、刑罰を課す根拠は、被告人に説得的でないと

適性な犯罪抑止力につながらないのです。

ただ、罪の軽重を問わず、犯罪の根絶が全てに優先すると言うなら、

軽微な罪でも死刑にすればいいということになります。

それは、可笑しいでしょう。

相場も、無視できないものとして、裁判所に尊重されてきたのは、

苛酷さを回避し、穏当な順法精神を育てるためではなかったのでしょうか。

今一度、考えて頂きたいテーマです。




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