昨年のNHKの大河ドラマ「篤姫」に
天璋院(篤姫)が夫の徳川家定に続いて、
息子、家茂を亡くす回がありました。
丁度その頃、脚本家の田淵さんも、夫を亡くされたそうです。
「何を食べても味がせぬ。何を見ても心が動かぬ…」
というヒロインのセリフを聞きながら、
ああ、こんな甘っちょろいもんじゃなかったな・・・
と思わず正気に戻って自分のセリフにダメ出し。
そして再び涙にくれたそうです。
ところが、これほどの深い嘆き悲しみのドン底にあって、
ちらっと頭をもたげたのが“前向き癖”とも言える性分。
<「ウェーン。もうママ、今度は年下の人と恋愛するからぁ」
中学生の息子に取りすがり、
泣きながらこう言ったのは、なんと夫が亡くなった日。
「今日の今日に言うなよぉ」
我が息子、泣きながらも言ったものでした>とのこと。
落ち込んだときの対処法として、彼女はこう述べます。
<落ちるところまで落ちた自分の姿を思い描くのです。
しかも徹底的に克明に。
仕事柄、そういうのは得意なんですね。
それで、一度とことん落ち込んでしまうと、
「なぁ~んだ、今はぜんぜんマシじゃない」と思い直すことができる>と。
辛いとき、前向きになるポイントは、
このようなドン底を思い描く能力かもしれません。
しかし、ここがドン底という場面で、役に立ちません。
だって、想像するまでもなく、
ドン底が目の前に転がっているのだから…
それでも、前向きでいるコツは、
何が起きても、
自分が決めたとする生きる態度そのものでしょう。
つまり、どんな不条理な出来事も自分が呼び寄せた以上、
「何か意味がある」という風な腹の括り方をすることです。
彼女は、それを「100%自己責任」という言葉で
解説しておられました。
僕も、幼い時から、自分が望んだように
生れついたと考えてきました。
そのように考えると、確かに正面から運命に立ち向かえます。
これからの田淵さんが楽しみです。
失意からすっきり脱出してもらいたいものです。
天璋院(篤姫)が夫の徳川家定に続いて、
息子、家茂を亡くす回がありました。
丁度その頃、脚本家の田淵さんも、夫を亡くされたそうです。
「何を食べても味がせぬ。何を見ても心が動かぬ…」
というヒロインのセリフを聞きながら、
ああ、こんな甘っちょろいもんじゃなかったな・・・
と思わず正気に戻って自分のセリフにダメ出し。
そして再び涙にくれたそうです。
ところが、これほどの深い嘆き悲しみのドン底にあって、
ちらっと頭をもたげたのが“前向き癖”とも言える性分。
<「ウェーン。もうママ、今度は年下の人と恋愛するからぁ」
中学生の息子に取りすがり、
泣きながらこう言ったのは、なんと夫が亡くなった日。
「今日の今日に言うなよぉ」
我が息子、泣きながらも言ったものでした>とのこと。
落ち込んだときの対処法として、彼女はこう述べます。
<落ちるところまで落ちた自分の姿を思い描くのです。
しかも徹底的に克明に。
仕事柄、そういうのは得意なんですね。
それで、一度とことん落ち込んでしまうと、
「なぁ~んだ、今はぜんぜんマシじゃない」と思い直すことができる>と。
辛いとき、前向きになるポイントは、
このようなドン底を思い描く能力かもしれません。
しかし、ここがドン底という場面で、役に立ちません。
だって、想像するまでもなく、
ドン底が目の前に転がっているのだから…
それでも、前向きでいるコツは、
何が起きても、
自分が決めたとする生きる態度そのものでしょう。
つまり、どんな不条理な出来事も自分が呼び寄せた以上、
「何か意味がある」という風な腹の括り方をすることです。
彼女は、それを「100%自己責任」という言葉で
解説しておられました。
僕も、幼い時から、自分が望んだように
生れついたと考えてきました。
そのように考えると、確かに正面から運命に立ち向かえます。
これからの田淵さんが楽しみです。
失意からすっきり脱出してもらいたいものです。
「落ちるとこまで落ちた」後が大事なんですよね。
でも、まさに「自己責任」。
這い上がってくるのは、自分にしかできないんだものね。
生まれ落ちたことがどん底ね。
それを知ったら・・・
怖いものがなくなったわ。。。
誰かに助けて欲しいですよね。助けてもらえそうな気もする。それが人間でしょう。
しかし、「天は、自ら助くる者を助く」でしたかね、正しい教えと思います。
☆obichanさんへ
底つき感覚って、財産です。お大切に!
篤姫は観ていないので、よくは解りませんが、
物事すべて(人間の感情である、喜怒哀楽にも)
一枚の紙のようなもので、裏表があります。
耐えがたい絶望や悲しみ、あるいは有頂天になるほどの悦び
でも、それは単に1面だけを見ているだけに過ぎません。
裏も表も、しっかり見据えることが大切だと思います。
「いいことを思えば、いいことが起こる」「悪いことを思えば悪いことが起こる」という理解でよろしいか?
それなら少し違うように思います。
むしろ、エルモリアさんの言う「物事すべて裏表がある」の方がすっくりきます。
田淵さんは、夫が死んで悲嘆に暮れるところ、辛うじて、自分が引き寄せたという理解をしようとなさっています。
そうやって、自分の落胆する気持ちを抑え、“何かの意味がある”として現実を受け入れようとなさっているのだと思います。
その場合、意味付けしているのは、普段、意識に上らない自分です。天の采配と言った方がいいような、条理を越えた本来の自分の意志(!)の意、と受け取りました。
程度の種類も大きさも様々だと思うけど、そんな時人はどう乗り越えるのだろう・・
脚本家の田淵さんの様な想像力は持ち合わせないけれど
「100パーセント自己責任」と捉えるのは強いですね。
でも確かに自分を振り返っても「何か」のせいにしているうちは浮び上れないんですよね
這い上がるのは究極の「自己愛」でした
私の場合。。
一番嫌なのが「取り返しのつかない思い出」。
こういうモノのストックがあると、気が滅入ること、この上ない。自分を投げ出したくなります。。。
それもありかな、という気がします。
生という岸辺に繋ぎとめているのが自己愛でしょうね。
kayoさんのコメントが誰かを励ますでしょう。
生きている間は、誰かを支え、自分も支えられる実感のなかにいたいですね。