昭和16年帝国陸軍主計課は戦力を精密に分析し、そのデーターを基に
政府の総力戦研究所が日米開戦シュミレーションを行ったようです。
結論は、日本必敗でした。
ところが、その結論には緘口令が敷かれ、開戦に踏み切ることになりました。
当時の軍令部総長、永野修身は、
「戦うも亡国、戦わざるも亡国。
しかしながら、戦わずして滅びるは
日本人の魂まで滅びる真の亡国なり」
と言い放ったそうです。
石破氏は、こうした開戦に至る歴史や戦後の経緯について、
学校できちんと教えていないのは極めて重大な問題だと指摘されます。
確かに、「戦うも亡国」と「戦わざるも亡国」の間で揺れながら、
前者に立ち戻った精神の脆弱さは承知して置かねばならないでしょう。
しかし、それで十分かというと、違うでしょうね。
軍人が国家の一大事を決するなど、あってはならないことなのですから、
その可能性を根こそぎ奪っておく必要があります。
ところで、何故、軍人に国家の一大事を任せられないか――。
答えは、暴力だけで、事の当否を決める戦争の性質にこそあります。
戦争は、特に日本では、All or Nothingでした。
それは、子供の考えなのです。
石破氏は、自衛官の特徴として、
「その純粋さ、使命感の強さは、
何かのきっかけで一つの色に染まりやすい」とされ、
「彼らの一途さにつけ込んで、ときに迎合し、
時に思想的に扇動したりすると非常に危ない」と憂えられます。
まさに子供のイメージでしょう。
その評価に抗いがたい真実を認めればこそ、日本国憲法は、
軍人のコントロールにつき、極めて悲観的な見方をしています。
戦争放棄を定め、
軍隊を持たないことにしたのは、そのためです。
先の大戦を、教訓として忘れないためには
その悲観を受け継いでいく必要があるように思えます。
しかしながら、自衛隊は、その名にかかわらず、軍隊です。
軍隊がある以上、武力の存在を否定し得ず、
そして武力を操る軍人も。。。いる。。。
つまり、危ない武器を持った子供がうじゃうじゃいるわけですよ。
このように、憲法が想定しない事態に至っている以上、
文民統制規定がないのは、法の不備と言えそうです。
しかし、憲法9条は、文民統制の代わりに、そこより一歩踏み込んで
武力放棄を選び取りました。そのことにより、
統制を不必要なものにしました。
言い換えれば、文民統制の花をでなく、実を手にしたわけです。
しかし、手にしたはずの実が腐って無くなってしまったのですから、
再軍備の兆候に即して、統制の必要が生じ、
統制の正当性も生じた言えます。憲法から容認されこそすれ、
否定されない考え方のはずです。
解釈論としては、それで十分ではないでしょうか(いわゆる勿論解釈)。
それを越えて、超法規的な文民統制の“原理”を想定すべきでしょうか。
僕は、否と思います。
次に、人権との関係を述べます。
ケインズではないですけど、ミクロで見れば、
個々には、自衛官にも“いい人”がいることでしょう。
しかし、マクロでみれば、自衛官に“いい人”は、いないんです。
なぜなら、彼らの有事での任務は、人殺しだからです。
国家防衛のためという大義名分が与えられはするけど、
究極的には、どれほど沢山な人間をいっぺんに消去しえるか
という点に、彼らの存在意義はかかると思います。
だとすると、人権規定の多くは、彼らには適用されない、
もしくは例外的に類推適用される特殊な場合もある
という風に、人権規定の適用を
抑制的に考えるのが正しいのではないでしょうか。
人権とは、世界性のある普遍的な権利です。
だから、人である限り、抽象的には自衛官も人権を有します。
しかし、人権が権利たりえる権利性は、
本来的に国家の統制に反逆する自由から生まれ出たものです。
したがって、自衛官がその職にあってなお
無限定に人権規定で守られるとすると、クーデターも許容されるでしょう。
そのような権利は、
行使し得ないと考えるのが妥当です。
石破氏は、「自衛官は、思想・信条の自由を当然有しているが、
表現・結社の自由については、文民統制の『原理』がそれに優先する。
文民統制の『原理』は、それが『原理』であるがゆえに、
憲法の明文規定に優先する」とされます。
これを読んで、いくら文民統制が必要としても、結論として
簡単に「憲法の明文規定に優先する」と言いきってしまう同氏の姿勢に
危ういものを感じました。
こういう大上段な物言いが、
結局のところ、田母神氏につけ込まれる隙となったのです。
たとえば、東大の学園祭にて田母神氏がやる講演の前、彼を大臣室に呼んで、
「貴方は私の最高の専門的助言者だ」とあえて言ったそうです。
そんなことを告げるから、スーパーアドバイザーとして、田母神氏に
「『私にも言わせて欲しい』の心意気がいま自衛官に求められている」
などと、主張されたのだと思います。
政府の総力戦研究所が日米開戦シュミレーションを行ったようです。
結論は、日本必敗でした。
ところが、その結論には緘口令が敷かれ、開戦に踏み切ることになりました。
当時の軍令部総長、永野修身は、
「戦うも亡国、戦わざるも亡国。
しかしながら、戦わずして滅びるは
日本人の魂まで滅びる真の亡国なり」
と言い放ったそうです。
石破氏は、こうした開戦に至る歴史や戦後の経緯について、
学校できちんと教えていないのは極めて重大な問題だと指摘されます。
確かに、「戦うも亡国」と「戦わざるも亡国」の間で揺れながら、
前者に立ち戻った精神の脆弱さは承知して置かねばならないでしょう。
しかし、それで十分かというと、違うでしょうね。
軍人が国家の一大事を決するなど、あってはならないことなのですから、
その可能性を根こそぎ奪っておく必要があります。
ところで、何故、軍人に国家の一大事を任せられないか――。
答えは、暴力だけで、事の当否を決める戦争の性質にこそあります。
戦争は、特に日本では、All or Nothingでした。
それは、子供の考えなのです。
石破氏は、自衛官の特徴として、
「その純粋さ、使命感の強さは、
何かのきっかけで一つの色に染まりやすい」とされ、
「彼らの一途さにつけ込んで、ときに迎合し、
時に思想的に扇動したりすると非常に危ない」と憂えられます。
まさに子供のイメージでしょう。
その評価に抗いがたい真実を認めればこそ、日本国憲法は、
軍人のコントロールにつき、極めて悲観的な見方をしています。
戦争放棄を定め、
軍隊を持たないことにしたのは、そのためです。
先の大戦を、教訓として忘れないためには
その悲観を受け継いでいく必要があるように思えます。
しかしながら、自衛隊は、その名にかかわらず、軍隊です。
軍隊がある以上、武力の存在を否定し得ず、
そして武力を操る軍人も。。。いる。。。
つまり、危ない武器を持った子供がうじゃうじゃいるわけですよ。
このように、憲法が想定しない事態に至っている以上、
文民統制規定がないのは、法の不備と言えそうです。
しかし、憲法9条は、文民統制の代わりに、そこより一歩踏み込んで
武力放棄を選び取りました。そのことにより、
統制を不必要なものにしました。
言い換えれば、文民統制の花をでなく、実を手にしたわけです。
しかし、手にしたはずの実が腐って無くなってしまったのですから、
再軍備の兆候に即して、統制の必要が生じ、
統制の正当性も生じた言えます。憲法から容認されこそすれ、
否定されない考え方のはずです。
解釈論としては、それで十分ではないでしょうか(いわゆる勿論解釈)。
それを越えて、超法規的な文民統制の“原理”を想定すべきでしょうか。
僕は、否と思います。
次に、人権との関係を述べます。
ケインズではないですけど、ミクロで見れば、
個々には、自衛官にも“いい人”がいることでしょう。
しかし、マクロでみれば、自衛官に“いい人”は、いないんです。
なぜなら、彼らの有事での任務は、人殺しだからです。
国家防衛のためという大義名分が与えられはするけど、
究極的には、どれほど沢山な人間をいっぺんに消去しえるか
という点に、彼らの存在意義はかかると思います。
だとすると、人権規定の多くは、彼らには適用されない、
もしくは例外的に類推適用される特殊な場合もある
という風に、人権規定の適用を
抑制的に考えるのが正しいのではないでしょうか。
人権とは、世界性のある普遍的な権利です。
だから、人である限り、抽象的には自衛官も人権を有します。
しかし、人権が権利たりえる権利性は、
本来的に国家の統制に反逆する自由から生まれ出たものです。
したがって、自衛官がその職にあってなお
無限定に人権規定で守られるとすると、クーデターも許容されるでしょう。
そのような権利は、
行使し得ないと考えるのが妥当です。
石破氏は、「自衛官は、思想・信条の自由を当然有しているが、
表現・結社の自由については、文民統制の『原理』がそれに優先する。
文民統制の『原理』は、それが『原理』であるがゆえに、
憲法の明文規定に優先する」とされます。
これを読んで、いくら文民統制が必要としても、結論として
簡単に「憲法の明文規定に優先する」と言いきってしまう同氏の姿勢に
危ういものを感じました。
こういう大上段な物言いが、
結局のところ、田母神氏につけ込まれる隙となったのです。
たとえば、東大の学園祭にて田母神氏がやる講演の前、彼を大臣室に呼んで、
「貴方は私の最高の専門的助言者だ」とあえて言ったそうです。
そんなことを告げるから、スーパーアドバイザーとして、田母神氏に
「『私にも言わせて欲しい』の心意気がいま自衛官に求められている」
などと、主張されたのだと思います。
戦争は絶対あってはならないと思います。
私は戦後生まれですが、仲の良かったおばあちゃんや、自分の祖母から戦争の辛さ、悲惨さは嫌というほど聞かされています。
何の罪もない人が、ただ一部の国を動かす人によって犠牲になる…耐えられません。
それから、人権問題。
誰だって人権はあります。
障害があろうと、怪我があろうと、仕事がなかろうと。
それを無視した政治はやはり子供だと思わざるを得ません。
偉そうなことを書いてしまってすみません。
こんな若輩者でも戦争はあってはならないと思うのですから、先輩方はもっと強くそう思うことと思います。
秩序を完全に無視して、「誰でも良かった」的行動をする輩が出てくる。しかし、その行動は突発的な行動のように見えてもそれ以前に多くの場合当人しか分かり得ない多くの思考のコンフュージョン(confusion)が発生し、自らの思考回路のコントロールを失ってしまう。[lack thought](思考力を欠く)、まさに先般の国会での国防のナンたらカンたら氏の発言は幼稚園の子が「先生オッパイおおきいね」的発言と何ら変わりなしでしようね。しかし、此処で問題なのは彼の行動ノミならずその行動を何ら諌める事無くと言うか容易に発言指せた国会議員の有象無象達でしょう。此れは失礼、先生方宜しく頼みますよ。
戦争があっていいかどうかに関しては、先輩後輩は、関係ないと思います。それに、ままさんは、優しい方と思います。
平和な世の中がいつまでも続くといいですね。
☆paro3さんへ
そりゃあ、幼稚園児が「先生、おっぱい大きいね」は、頂けませんね。。。
それで、僕がもし、同じ言葉を吐くとどうなるか、つい考えてしまいました。
張り倒されるんでしょうね。
国防のナンたらカンたら氏が張り倒されなかったのは、国会の先生方はジョークと受け取りになられたからでしょう。そうです。そうに違いありません。
洗脳されてしまったのですよね。
戦争は、そうゆとこが恐ろしい。
平和がなによりなのに
なぜ、わからない人がいるのかなぁ。。
それから撃ち合いが始まる。仲間が殺されたら、その仕返し。
その内、どっちが先に撃ったかなどどうでもよくなって、果てしなく殺し合う。そして、敵を「皆殺し」にしないと、自分が生きていけないような世界を自ら作り上げてしまうのですね。。。