綾戸智恵さんがPHP7月号で苦労について、鉄砲の弾に喩え説明してらっしゃいます。飾らない彼女らしい言葉ですね。すぱっとしてそうな性格にも相応しいです。そんな彼女の、介護に関するコメントを紹介します。
「私の人生、離婚もあった、大変な病気もあった。どれも飛んできた弾だけど、それを一つ一つすり抜ければ、ちゃんと次の日はやってきた。
介護もその弾の一つです。もちろん、介護しないですめばそれに越したことはないでしょう。でも、きちゃったんだからしょうがない。
介護は私の人生の中に含まれていたことだから、放棄はできない。介護をやめるのは、人生をやめることだから。ただそれだけです。
歌ですか? 歌はね、人生のおまけみたいなもの。弾をすり抜けて、今、生きているだけで最高。歌えるときが来たら、また歌えばいいと思っています」。
もう一つ、引用させて頂きます。
「今も(母に)お説教されますよ。五十歳過ぎても娘は娘。
『人様にあんなこと言うたらあかん。失礼や』
なんて。でも、時々夜中にうつろになって私のことを『お母ちゃん』と呼ぶこともあるんです。自分の立場が上になったり下になったりするんですね。
実は介護で一番難しいのは、母は今この瞬間どの位置にいるんだろうと見極めることなんです」。
綾戸さんの文を読みながら、4,5日前のお袋のことを思い出しました。その話をします。デイサービスから帰ってきたお袋が僕に向かって何か言いたげでした。しきりに
「かめへんか(構わないか)」と尋ねていました。
「何が構わないのか?」
向き直り、訊き返すと次のように表現が変化しました。
「かまわえへえんか」
↓
「かわえへええか」
(いったい何やねん・・・?)という感じですね。こういう言い方、10回ぐらいしてました。それが突如、
「かわへえ~」と縮まったと思ったら、
「かわいい!」に、いきなり変化。変化は、瞬間です。瞬間の一語でした。
「かわいい」という言葉が出たとき、両手を広げて、お袋は満面の笑みでした。我が人生で「可愛い」と評価されたのは、これが生まれて初めての体験のような気がします。しかし、素直には喜べない。
第一、「可愛い」は50代後半のおっさんに言うセリフではないですよね。自慢ではないですが、僕は子供の頃、ほったらかしでも大丈夫な子や、と思われていたはずなのです。実際、そう宣言され、ほったらかしにされていたような気がします。しかし、親は親、時を超えて息子が可愛く見え、終に、そのタブー表現(?)に挑戦したくなったということでしょうか。言われて不思議な感覚がありました。。。
(何を、今さらたわけたことを!)
と思いながらも、ちょっと嬉しかったりしました。
お袋は、このとき、30歳代の母親の位置にいたのだと思います。
綾戸さんに話を戻します。彼女は、弾をすり抜けるコツとして否定語を使わないことを挙げておられます。
「単純な話、『ねえ、これ食べない?』は『ない』が入っているから禁句。代わりに言うのは『これ、食べて!』です。
『そんなことしちゃダメ』の代わりに『こっちをしたほうが楽しいよ』。
『お昼、行かない?』よりも元気いっぱい『お昼、行こッ!』」という具合です。
苦労をすり抜けられるかどうかは別にして、確かに否定語は通じ難いです。それにまた、相手方から見て「風呂、入れへんか?」「入らへん」という風に、要求を拒否しやすいという面があるようです。たとえばお袋の場合、大好きな饅頭でさえ「食べへんか?」と勧めると「はあ?」と返答されるときが多いです。
思うに、介護されている人間の尊厳を守ることは大切です。その点、否定語は、他の人間の要求を拒否しやすいという意味で、メリットがあります。“押しつけ”を避けられるわけで、相手の尊厳性を認める第一関門を、まずは突破という場面がきっとあることでしょう。しかし、何かして欲しいと願うときは、綾戸さんのように強気で、自信たっぷりに「入ろう」「食べよう」という風な誘いかけをする方がいいのかも、ですね。だって、断り難いですから、その分、誘いかけられた方が勢いで納得する可能性があります。つまり、注射を打つとか、本人が嫌がりそうな話題を出すとき、「さあ、注射を打ってしまおう!!」と笑顔で元気づける方が良いということです。心配顔で「打たへんか?」などと訊こうもんなら、「打たへん」でお終い・・・ということになりかねません。それでは困るわけですね。
「私の人生、離婚もあった、大変な病気もあった。どれも飛んできた弾だけど、それを一つ一つすり抜ければ、ちゃんと次の日はやってきた。
介護もその弾の一つです。もちろん、介護しないですめばそれに越したことはないでしょう。でも、きちゃったんだからしょうがない。
介護は私の人生の中に含まれていたことだから、放棄はできない。介護をやめるのは、人生をやめることだから。ただそれだけです。
歌ですか? 歌はね、人生のおまけみたいなもの。弾をすり抜けて、今、生きているだけで最高。歌えるときが来たら、また歌えばいいと思っています」。
もう一つ、引用させて頂きます。
「今も(母に)お説教されますよ。五十歳過ぎても娘は娘。
『人様にあんなこと言うたらあかん。失礼や』
なんて。でも、時々夜中にうつろになって私のことを『お母ちゃん』と呼ぶこともあるんです。自分の立場が上になったり下になったりするんですね。
実は介護で一番難しいのは、母は今この瞬間どの位置にいるんだろうと見極めることなんです」。
綾戸さんの文を読みながら、4,5日前のお袋のことを思い出しました。その話をします。デイサービスから帰ってきたお袋が僕に向かって何か言いたげでした。しきりに
「かめへんか(構わないか)」と尋ねていました。
「何が構わないのか?」
向き直り、訊き返すと次のように表現が変化しました。
「かまわえへえんか」
↓
「かわえへええか」
(いったい何やねん・・・?)という感じですね。こういう言い方、10回ぐらいしてました。それが突如、
「かわへえ~」と縮まったと思ったら、
「かわいい!」に、いきなり変化。変化は、瞬間です。瞬間の一語でした。
「かわいい」という言葉が出たとき、両手を広げて、お袋は満面の笑みでした。我が人生で「可愛い」と評価されたのは、これが生まれて初めての体験のような気がします。しかし、素直には喜べない。
第一、「可愛い」は50代後半のおっさんに言うセリフではないですよね。自慢ではないですが、僕は子供の頃、ほったらかしでも大丈夫な子や、と思われていたはずなのです。実際、そう宣言され、ほったらかしにされていたような気がします。しかし、親は親、時を超えて息子が可愛く見え、終に、そのタブー表現(?)に挑戦したくなったということでしょうか。言われて不思議な感覚がありました。。。
(何を、今さらたわけたことを!)
と思いながらも、ちょっと嬉しかったりしました。
お袋は、このとき、30歳代の母親の位置にいたのだと思います。
綾戸さんに話を戻します。彼女は、弾をすり抜けるコツとして否定語を使わないことを挙げておられます。
「単純な話、『ねえ、これ食べない?』は『ない』が入っているから禁句。代わりに言うのは『これ、食べて!』です。
『そんなことしちゃダメ』の代わりに『こっちをしたほうが楽しいよ』。
『お昼、行かない?』よりも元気いっぱい『お昼、行こッ!』」という具合です。
苦労をすり抜けられるかどうかは別にして、確かに否定語は通じ難いです。それにまた、相手方から見て「風呂、入れへんか?」「入らへん」という風に、要求を拒否しやすいという面があるようです。たとえばお袋の場合、大好きな饅頭でさえ「食べへんか?」と勧めると「はあ?」と返答されるときが多いです。
思うに、介護されている人間の尊厳を守ることは大切です。その点、否定語は、他の人間の要求を拒否しやすいという意味で、メリットがあります。“押しつけ”を避けられるわけで、相手の尊厳性を認める第一関門を、まずは突破という場面がきっとあることでしょう。しかし、何かして欲しいと願うときは、綾戸さんのように強気で、自信たっぷりに「入ろう」「食べよう」という風な誘いかけをする方がいいのかも、ですね。だって、断り難いですから、その分、誘いかけられた方が勢いで納得する可能性があります。つまり、注射を打つとか、本人が嫌がりそうな話題を出すとき、「さあ、注射を打ってしまおう!!」と笑顔で元気づける方が良いということです。心配顔で「打たへんか?」などと訊こうもんなら、「打たへん」でお終い・・・ということになりかねません。それでは困るわけですね。
私も、介護が何かも分からず同居し悪戦苦闘?していますが、周りから聞こえてくる「否定形は使わない!」ということ何とか守ろうとしています。確かに、はっきり言いたい時もあります。
先日、娘が「おばあちゃん、3歳児シリーズみたいね。」と、私の耳元で囁きました。娘に助けられた気がして、思わず微笑んでしまいました。
となる日記でした。
私は介護にはまだ携わったことがないのですが、
将来養護教諭になった時には
さまざまな児童生徒を相手にすることになります。
その時、不登校の児童生徒がいた時にはきっと、
○○しない?ではなく、○○しよう!
のほうが明らかにいいと思うのです。
これは普段の生活でもそうですよねぇ。
否定的な表現が入るよりも、すんなり、
じゃぁそうしよっか!ってなりますものね^^
いいお話、ありがとうございます、
疲れて帰ってきてからこの日記、最高です!!
ありがとうございました(*´∇`*)
今日の記事とても心に響きました。
僅かな語尾のアクセントでもいろんな意味がこもります。
ましてや、否定語を使ってるときは自分自身が
行きたくない、したくないけど、そんな時も使いますね。
無意識に使ってる時もあります。
これからは、行こう、食べよう、と積極的な言葉を
使うように自戒します。
とても大切な事教えて頂きました。
有り難う。
介護していて、煮詰まってき出してるのが自分でも解るときです。そんなとき、どうしても大声になります。物にも八つ当たりします。そういうとき、愛猫、チアーは、なんや、なんやと言わんばかりに、お袋と僕の間に割って入ってきます。
人間の大声、しかも男性の罵声に近い声は、猫のような小動物にとって脅威と思います。猫のことだから、餌が欲しいということだけの理由でそこにいるのかもしれません。しかし、平然と間に入って来て、体を舐める猫ちゃんの姿態を見るにつけ、これでもまだ日常生活の範囲だと妙に安心し、我に返ったりします。お嬢さんの一言で、癒されたとおっしゃるkikusinoさんと、状況として似たものがあるのかもしれませんね。
正直言いますと、共同生活者としては3歳の子供どころか、猫にさえ劣るな、というのが実感です。事実として、わが親のそんな姿を受け入れるのはとても辛いです。
老いると、辛抱が足りなくなります。それから、記憶力が減退します。その結果、同じことを何度も言ったり、要求内容がころころ変わります。
しかし、見方を変えれば(親の側からするとという意味ですが)、人生最後の我が子へのギフトなのかもしれません。
「さぁ、私を今こそ越えて見なさい」というメッセージを自分の老いた姿を見せることで伝えてくれているのだ、と僕には思えます。
養護教諭になり、ご活躍になられる日が楽しみです。頑張って下さいね。
まずは、むーちゃんにお試しですね。
「さあ、写真を撮ろう!」
忠太さんお元気そうでよかったです。
今回のお話大変タメになりました。
私も否定形をよく使います。
考えるきっかけを頂きました。
介護、大変そうですね。
忠太さんの心情を思うと言葉に詰まります。
どうか、忠太さんまでお倒れならないように、
お気を付け下さいね。
うちのじい様は身体介護は無いものの認知症が進んでいます
物忘れ外来に連れて行きたいのだけど、断固としてNO! 私の言い方が悪いのだなと今日のブログを読んで思いました。
ブログで消化不良を起こしていたのかもしれません。あっちを突っつき、こっちを突っつきしている内に、上から天井が落ちてきた!という感じです。
さしずめにっこさんは、レス救隊ですかね。温かいお言葉ありがとうございます。しかし、助け出されても、まだ体勢を立て直すのに時間を要しそうです。本格復旧まで、もう少し待って下さいね。
強いストレスに対する精神的な赤信号ですね。
介護で鬱になる人って多いようです。自殺率の高さがそれを物語っています。
実を言うと、僕のお袋も物忘れチェックなどされると不機嫌になるタイプでね、専門外来に連れて行けないです。原因が分かっても治癒の見込みはないだろうから(まっ、いいか)で済ませています。参考までに言いますと、任意後見人のため診断が必要という場合は、医師でありさえすれば、普通の内科、皮膚科等の診察でOKなようです。