悲喜こもごも

写真と株の徒然日記(^o^)v

吾妻屋(清閑荘)

2024-09-30 01:09:42 | 昭和の記憶と令和の今
祖父などはこの地域を「新地」と呼んでいました。
海神新地、海神遊郭とは赤線地帯という地域でした。
そこで・・・
赤線(あかせん)は、GHQによる公娼廃止指令(1946年)から、売春防止法の施行(1958年)までの間に、半ば公認で売春が行われていた日本の地域である。(ウィキペディア)
そして吾妻屋という妓楼の建物が2009年2月14日放火により焼失。
今はこんな感じ・・・


実はこの建物に小学校の同級生が住んでいたので、当時何度か入ったことがあります。
上がり框から廊下がピカピカだったけど、全体的に昼でも暗い感じでした。
また友達の家は壁では無く、襖や障子で仕切られていたと思います。
そして思い当たる節が、時々その友人が
「今日はオジサンが来るからて言われたから帰れない・・・」
と言っていました。
「伯父さんなら、お小遣いもらえるじゃん、早く帰った方が」
と返していたのですが、今思えば!
そんな思い出の吾妻屋(静閑荘)の前には、今でも当時のままの柱が

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