独楽の旅

元気で山野を歩き、心を癒してくれたものは立ちどまって気ままに写し、ブログに載せ、自分で存分に楽しむのが無上の喜びです。

1001 - 【 ようこそ爺のブログ 独楽の旅へ 】

2021年06月15日 | [案内]

(2012年11月に妻が逝き、没一生活になってからの記録です)



F-15J は F-4 と共に私・爺が日本の空を初飛行した記念すべき機種です。
 (F15J の初飛行は 1981,8,26 初飛行)

 (爺のF15Jの総飛行時間は 約620時間です)
( F-4は約1,200時間です)


ホームページ 【爺の雑記帳】 と共に    

      ブログ [思いつ記] も観てください  
そして
     [ホームページ と スライドの一覧]
    クリックして開いて下さい
生活


下記は私の[E-mail]です
感想・連絡に使って下さい
[ mailto: hdktom@gmail.com ]


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 政府指定機関のデータに依ると2016年の
 日本人男子零歳児の平均寿命は 80.98歳 とのことです
  (女性は男性より 平均で 6,16歳 長生きできるそうです  幸せですね)

 爺は既にその平均年齢を過ぎて平均余命は約8歳とのことです
 そして、15年後には私も百歳になります、  その時になっても呆けずに、
 毎度の食事が美味しく頂け、足腰丈夫で動ける事を願ひながら
 日々生活の歩みを折にふれて書き残すこのブログはそのまま私の
   * 私の [タイムカプセル] であり
   * [自分史の1ページ] でもあります
 日々気ままに、そして時に熱意をもって、
 私が [独り旅で楽めた内容] をそのまま書き残していきます
 これが私の心身保健の礎になると信じ、日々努力して書き残していきます

 どこまで 充実した内容 にできるかわかりませんが
 熱意だけは失わずに毎日を活きていき、その足跡を記録し残していきます
 独り旅で観る自然界は全て私に新しい知識と活力を与えてくれます

 爺がブログを立ち上げて10年余が経ちました  過日、
 妻が逝き、題名を『爺のブログ』から『独楽の旅』に変え
 日々の活き方も変えてゆく決心をしました
 そのひとつの区切りとして
 中身を見易くするために最初から順次連番付けをして整理してみました

 その中で記憶に残る目立った [旅] を次にピックアップしてみました
 もし、暇な時刻がありましたら訪ねて観てくださると嬉しい限りです

 (01)  (1972,07,21)   爺の雑記帳- [ F104J のトラブル ] 【 F104J 社内試験飛行で遭遇の重大トラブル】
 (02)  (2000,07,21)   爺の雑記帳- [ 北海道10日間車の旅 ] 『 三菱友人4人と車で北海道一周の旅 』
 (03)  (2002,03,06)   爺の雑記帳- [ 出逢いのお遍路 ] 『 2 回目の四国通し独り歩きお遍路 』
 (04)  (2004,08,01)   爺の雑記帳- [ 富士夜間登山 ] 『 10 回目の富士夜間登山 』
 (05)  (2006,03,08)   爺の雑記帳- [ 百八寺のお遍路 ] 『 3回目 四国通し独り歩きお遍路 』
 (06)  (2004,08,25)   [スライド]-  『 孫の一皓君と2人で御嶽山登山 』
 (07)  (2005,08,28)   [スライド]-  『 孫の一皓君、陸人君と3人で御嶽山登山 』
 (08)  (2008,08,03)   [スライド]-  『 孫の一皓君、陸人君と3人で御嶽山登山 』
 (09)  (2012,12,27)   Blog -415 -  [ 山 陰 ・ 山 陽 ] 『 津和野,萩,錦帯橋,厳島神社 2日間の旅 (阪急) 』
 (10)  (2013,03,04)   Blog -424 -  [ カンボジア ] 【 カンボジア 5日間の旅 (クラツリ) 】
 (11)  (2013,04,10)   Blog -430 -  [ 宮 古 島 ] 『 宮古島八重干瀬(やびじ) 3日間の旅 (阪急) 』
 (12)  (2013,07,25)   Blog -447 -  [カナダ] 【カナダ(ナイヤガラ,カルガリ,ロッキー,バンクーバー) 8日間の旅(阪急)】
 (13)  (2013,10,31)   Blog -455 -  [ 東寺 ] 『 京都御所,延暦寺,東寺 日帰りのバス旅 (クラツリ) 』
 (14)  (2013,11,22)   Blog -458 -  [ 世界遺産 石 見 銀 山 ] 『 石見銀山自家用車で4日間の旅 (個人) 』
 (15)  (2013,12,30)   Blog -462 -  [ 北海道 納沙布岬 襟裳岬 ] 『 年末年始の北海道 4日間の旅 (クラツリ) 』
 (16)  (2014,01,07)   Blog -463 -  [ 高 蔵 寺 ] 『 高蔵十ヵ寺巡り日帰りバス旅 (東鉄) 』
 (17)  (2014,04,09)   Blog -477 -  [ 元 善 光 寺 ] 『 元善光寺舞台桜 日帰りバス旅 (名鉄) 』
 (18)  (2014,05,19)   Blog -485 -  [ 南 米 ]【南米(マチュペチュ,イグアスの滝,クスコ,ナスカ) 10日間の旅(阪急)】
 (19)  (2015,04,26)   Blog -514 -  [ 屋久島 ] 『 屋久島,鹿児島 3日間の旅 (阪急) 』
 (20)  (2015,05,06)   Blog -515 -  [ 熊 野 三 山 ] 『 熊野三山,勝浦 2日間の旅 (名鉄) 』
 (21)  (2015,05,11)   Blog -516 -  [ 欧 州 ] 【 ヨーロッパ(ドイツ,スイス,フランス,ロンドン) 9日間の旅 (阪急) 】
 (22)  (2015,08,01)   Blog -518 -  [ 京 都 貴 船 ] 『 京都貴船の川床料理 日帰りのバス旅 (名鉄) 』 
 (23)  (2015,08,26)   Blog -521 -  [ 中 国 ] 【 中国四川省(九寨溝・黄龍・楽山・成都) 10日間の旅 (阪急) 】
 (24)  (2016,02,02)   Blog -540 -  [ カリブ海 クルーズ ] 【 カリブ海 ク ルーズ 10日間の旅 (クルプラ) 】
 (25)  (2016,03,16)   Blog -541 -  [ モ ロ ッ コ ] 【 モロッコ,サワラ砂漠 10日間の旅 (阪急) 】
 (26)  (2016,05,13)   Blog -543 -  [ 西地中海 クルーズ ] 【 西地中海 クルーズ 11日間の旅 (てるみ) 】
 (27)  (2016,10,15)   Blog -547 -  [ ス ペ イ ン ] 【 スペイン 10日間の旅 (阪急) 】
 (28)  (2017,05,11)   Blog -568 -  [ 台 湾 ] 【 台湾ハイライト 4日間の旅 (クラツリ) 】
 (29)  (2017,07,05)   Blog -569 -  [ 北欧3ヶ国 ] 【 北欧3ヵ国 8日間の旅 (クラツリ) 】
 (30)  (2017,08,17)   Blog -570 -  [ 鳥 取 ] 『 山陰鳥取1泊 (餘部見学) のバス旅 (クラツリ) 』
 (31)  (2017,11,14)   Blog -574 -  [ニュージランドクルーズ]【ニュージランドクルーズ16日間の旅(クラツリ)】
 (32)  (2018,02,03)   Blog -577 -  [ 南極 クルーズ ] 【 南極紀行ク ルーズ16日間の旅 (阪急) 】
 (33)  (2018,07,12)   Blog -582 -  [ 南アフリカ ] 【 南アフリカゴールデンルート9日間の旅 (阪急) 】 


  

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参考: [AB版の大きさは]
  


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610-【新型コロナワクチン摂取(2回)完了】

2021年06月14日 | [クルーズ]
(2021/06/15)
  コロナワクチン摂取(2回)を終りました


  * ワクチン摂取 (1回目):2021/5/22(土)
    利き腕の反対の左腕上腕部に摂取
    摂取後のi痛みなど体調の変化はなし
    2回目接種の予約は その場で医師が実施完了

  2回目の摂取は2週間の間隔を置いて実施

  * 2回目のワクチン摂取:2021/6/12(土)  
    2回目の摂取予約は1回目の摂取会場で取得
    1回目と同じ左腕上腕部に摂取
    摂取後上腕部に数日間軽い痛みあり

609 -【篠岡さわやかウオーキング】 (2020/10/21 水)

2020年10月21日 | [ウオーキング]
     

今年3月、中国武漢市で発生した [新型コロナウイルス(COVID19)] はその後世界中に蔓延し、対策に手遅れ感のあったトランプ政権下の米国やインド、ブラジルで多くの患者が発生し、今日現在(10月21日)世界の患者は4千万人を越えており、死者も実に110万人に達しております。
役員の尽力で毎月地域の集会所で開催されていた「篠岡の集い」も4月から密が避けられない老人の集会はできなくなり世話役の方も気を揉んでおられますが仕方ない事です
 

 
 
 
 
         


今日は以前から計画されていたウオーキングが雲一つない好天の元、約50人が参加して行われました
ウオーキングには何一つ申し分ない天気でコロナで沈みがちな気分も全て吹き飛んでしまうような天気に恵まれ準備体操を終わって定刻の10時に勢いよく出発していきました
グループはロングコース(約7km)を歩く人とショ-トコース(約6km)を歩く人の2つのグループに分れロングコースから出発していきました
私はショートコースを選び10時10分ごろ一緒になって出発していきました

交通が混まない道程が設定されており楽しく歩いてきました
成果は次の通りです:
 コース行程:地図のとおり
 歩き時間:約2時間
 歩 数:9400歩

608 -【 快晴の空に中秋の名月 】(2020/10/01)

2020年10月01日 | [クルーズ]

今夜は中秋の名月だと聞き、晴れた夜空に輝く名月を拝みたいと望んでおりました
3月からのコロナ禍でいつもの早朝日課にしていた近所を歩くウオーキングを体なまりの少ない間にと久しぶりに歩いてきました
今夜は薄曇りで夜の名月の鑑賞は余程幸運でない限り鑑賞は望めないだろうと思える空模様でした
TVの天気予報でも東海地方は半分半分の見通しでした
 最近は電算のお陰で天気予報が恐ろしいほど的中する時代になってきたのです
その予報が無理だろうと云うのだから諦めざるをえないと思って時間が経過して夜を迎えました

処が夕方、外に出てみると空は八割がた雲のない濃い緑の空が天空に広がり全くの杞憂だったのです
東の空、低いところに黄色スコープの位置を替えながら丸い名月を写していきました
次の日が満月だとTVで云っていました

607 -【 UNICEF に献金して戦後の過去に恩返し 】(2020/09/10)

2020年09月10日 | [クルーズ]

[紺綬褒章]


2次大戦の末期から敗戦の日を経て10年近くの間、日本人は日々の衣食住の生活に真に困窮して生き残れるかどうかの日々を過ごしてきました
マッカーサーを頂点とする占領軍・GHQに依って勝者の威をもって敗者・日本は醜いまでに支配され統治されて戦後を過ごしてきました
空襲が激しくなり、日本国内の全ての都市が連日編隊で飛来するB29の焼夷弾投下により一夜にして燃え尽きて灰となり全面が焼土と化して行く日々でした
今、米国加州ロスアンゼルスやブラジルの原野で発生し、多数の死者も出ている山火事をTVで観ていると当時の日本での身の回りを思い出します
今、NHKで放映されている「エール」をみていると当時を身近に回想できます
エールでモデル古関雄二さん時に歌われる軍歌の作者古関雄二
ている山火事の映像をテレビで見ると敗戦間際の日本を回想する
先人から受け継ぎ今日まで大切に守ってきた日本の歴史・遺産が目の前の近くで全てが炎となり煙となり灰と化し何一つ残らない残骸になってしまうのです
日本の家屋は全てと云ってよいほど木造だったので敵にとっては焼夷弾さえ落とせば全てが成功する空襲だったのです
地上から飛び立つ帝国日本の戦闘機は一機もおらず、撃ち返す高射砲は弾もなく、探照灯の光線が地上のあちこちから照射されるだけでした
高空で飛来して気ままに爆撃できる彼らにとってはさぞかしほくそ笑むような時間だったろうと想像します

都市のほぼすべてが焼土と化してしまってからは誰の目にもはっきりと戦闘の行方が敗北だと目に見えていました
そうして日本は敗戦を迎えたのです

占領・上陸してきた敵米軍はチョコレートやチュウインガムを子供に分け配ったりしてくれてわれらの口にも入るようになりこんな相手と戦争して勝てる訳がないと納得していったのです
このような経験を経てきた日本人には現在のアフリカ難民を見過ごすべきではないと思います
我々がしてもらったようにそのお返しをすべきだと考えたのです
そこで私にできることは今正に飢えて死にそうなひとに直面している人に救助の手を差し伸べるべきと考えたからです
戦後、極度に困窮疲弊していた日本が世界から差しのべられた支援の手を今こそ我々がお返しするべきだと考えその力があるので思い立って私に可能な範囲で行動すべきだと考えたのです
そこで私にとっては想外の額の献金をする決心をして実施しました
結果、国から褒章を頂くことになり紺綬褒章を拝受しました
早速、頂いた褒章を額に入れて掲示し誇りにしたいと額縁を購入しました
そして居室に掲示してこれまで生きてきた人生の誇りの証にしているのです

606 -【 敗戦後の大学教育再開に際して、小泉信三慶応大学塾長の訓示 】(2020/09/10)

2020年09月10日 | [日記]

      

[小泉信三氏の訓示]
以下は戦後の大学再開(S20,09)に際し、慶応義塾大学へ入学された森口幸雄医学博士の手記から引用

『 東京帝大学長を筆頭に手の平を返したように戦場帰還学徒元士官に「戦争犠牲者」と断じた昭和20年秋にあって、小泉塾長だけは「君らを誇りに思う」「戦犯にかけられる学生がいれば私が処刑される」とこう発言されておられたのです。以下少し長くなりますが、森口医博の全文を紹介します(私のみが所蔵するのは勿体ないと思ったからです)。
「昭和20年9月から東大、京大、早稲田と各大学が再開、それぞれの学長のスピーチが新聞やラジオで紹介された。
何処の学長も手のひらを返したように生還復学した学生に、『諸君は気の毒だった。軍国主義の犠牲となった。早くそれを忘れて学業に精進するように』という趣旨だった。それならそうと何故あのとき(1943年10月21日、出陣学徒壮行会)そう言わなかったかと思った。
 そして慶応義塾が再開した。私は、小泉塾長も同様な発言をされるかと思いきや他の学長らとは真逆の話を始めた。以下3点である。
1.私は諸君に心から敬意を表します。2年前に私は『最高の価値は祖国のために命を捧げることだ』といった。その私の言葉に従って君たちは勇躍出征してくれた。これに対して賞賛し感謝する。
2.戦争に負けたことは問題ではない。ヨーロッパでは何度も戦争に勝ち負けしている。日本は負けた経験がないので大きなショックを受けているが(諸君らが)祖国の為に命を捧げる用意があったということを、一生の誇りとしてもらいたい。
こんな素晴らしい事実はない。
祖国とは何ですか、貴方たちの愛する両親、兄弟、友達が住んでいるところです。
それを守るために命を捧げることができた。この誇りは戦争に負けた事とは全然関係ない。
3.戦勝国はポツダム宣言に従って戦争犯罪者のための軍事裁判を開くだろう。そして君たちの部下の兵隊がやったことについて責任を取らされ終身刑になったり銃殺刑になるかも知れない。そのとき裁判官に次のように言ってもらいたい。「戦場に行けと小泉塾長に言われたので戦争にいった。責任は私たちにはない。責任は小泉塾長にあると言ってもらいたい。君たちの代わりに小泉は諸君のため諸君の代わりに銃殺刑のその場所に立つだろう。私は諸君の命の代わりになる準備がある」
その瞬間、みなわっと泣きました。私も声を出して泣きました。私的には戦争でひとり息子さんを24歳のわかさで亡くし(小泉信吉海軍大尉)、失意の下におありでしたが日本人としての誇りをうしなわず、私たちを抱き込んでくださったこの訓示を71年経た今も昨日のように思い出されます。この日以来、医師になるために慶応に入った私でしたが、慶応生である事に誇りを持ちました。』

 追記:私が昭和29年に防大(当時な保大)に入学した時は槙智雄校長でした
    戦後、時の吉田茂総理の発案で3軍統一の士官学校創立を創立することになり保安大学が久里浜に開校され、
    昭和28年3月、第1期生が迎え入れ、3期生から旧軍の首都防衛の要塞があった小原台に新校舎が建設され開校しましたん
    私は昭和29年に2期生として久里浜の保安隊通信学校の一部を校舎としていた保大に入校しました
    その間、新校舎の建設は小原台に進み昭和30年3月に移転して3期生を新校舎で迎え入れた訳です

    当初、初代学校長は吉田総理の意向で小泉信三氏に予定されましたが氏は当時「東宮御教育常時参与」として
    皇太子明仁親王(昭和天皇)関連の要職にあり、着任は不可能と判明、小泉博士の推薦で慶應義塾の法学部長の
    槙智雄氏が着任されたと聴きました
    昭和29年春入港間もない時、小泉信三氏が久里浜の学生食堂にご来場され学生一堂に訓示された時に聞いた話です

       

    そして、その時に頂いた訓示で
     『 男は40を過ぎると自分の顔に責任を 持たなければならない。』
    と話されたのです
    当時、壇上で訓示される氏は顔一面が火傷で酷いケロイド状になっておられたことが強い印章として残っています
    





605 -【 仁、義、礼、智、信 】(2020/08/14)

2020年08月17日 | [日記]
「仁、義、礼、智、信」とはどういう意味かをWikipediaから引くと
 仁 : 人を思い遣ること。
 義 : 利欲に囚われず、すべきことをすること。
 礼 : 仁を具体的な行動として、表したもの。
 智 : ただ学問に励むだけでなく、道徳的認識判断力であること。
 信 : 言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。



604 -【 終戦の日に思う 】 (2020/08/15)

2020年08月16日 | [日記]
日本が大東亜戦争に敗れて今年で早くも75年目を迎えました
昭和天皇の [終戦の詔勅] を石州・井原で傾聴したのは満9歳で国民小学校4年生の時でした
母親の生れ郷里の島根県邑智郡井原村天蔵寺原(現在の邑南町)の叔父母の家に戦争疎開して丁度2週間経ったばかりの事でした

井原に来るまでは郷里・山口県宇部市で連日、[警戒警報]、[空襲警報] のサイレンが街中に鳴り渡る日々の連続でした
そんな毎日でも警報が解除されるとランドセルを背負って小学校に向かうのです
私の通う学校は見初(ミゾメ)小学校と云い、自宅(宇部市の中通り6丁目)から1km余り離れた処にありました
校舎は[ヨ] の字に型どった木造総2階造りの広い校舎でした
今でも懐かしく想い出され懐かしい思い出です  でも決して現実には帰ってこない景色です

小学校の校庭にはその北端に [奉安殿] と [二宮尊徳像] がありました
今の世間には存在しない施設で、敗戦と同時に撤去されて [奉安殿] と云う小さな木造・校倉造りに似た建物はがありました
その建物の中には今上陛下(昭和天皇)ご一家のご真影(各家庭にも神間の上にあり)と[教育勅語]が安置奉納されていたいたのです
勿論、私など子供は目にすることはできず、内部を観たことなどありませんでした

昭和20年7月2日の夜、宇部市はB-29の大編隊の空襲で一夜にして市の全域が火の海になり、灰燼に帰してしまったのです
親父は当時住んでいた中通り6丁目の町内会長をしており、組員みんなの協力のお陰で1軒も消失することなく終わってくれました
これは町内会長で頑張っていた親父には戦中の空襲下での一つの自慢の種でした

この空襲は爆弾投下や機銃掃射は少なく多くは焼夷弾を投下しての木造住宅の消失を狙うものでした
 [焼夷弾は]:外形が六角形の直径ほぼ15cm、長さ約1mの鋼鉄板で作られた鉄の筒でその中に生ゴムをガソリンで溶した自転車チュウブの修理に遣うゴム糊と同じものです

市内の全てが木造住宅で火災を起こせば見る間に燃え広がり燃え尽きてしまうのです
1発の焼夷弾で一面が火の海になってしまうのを小学4年生の私は眼のあたりで観たのです  火災を消す人は誰一人おらず観るまに類焼してしまいその燃え広がり燃え尽きるまで燃え盛るのです
類焼の速さは驚くほどでその有様を目の前に観て機上の敵の搭乗員がほくそ笑んでいるだろう顔が想像できるのでした
1度燃え出すと風が強い風が起こり火は四方八方に広がっていき、誰も消す者があいないので、唯燃え広がるばかりで一面が火の海になり、あっという間に灰塵になるまで燃え尽きてしまうのです
機上の敵にしては全てが木造の家屋であり類焼の早い日本の家屋は意のままに成果を挙げて笑みして帰投していただろうと想像できます  今にしても残念で憎らしいことです

翌日、夜が明けてみると宇部市は見渡す限りの焼け野原になっておりました
そして、日が暮れて夜になる東の空が真っ赤に染まり近くにある見初炭鉱の山と積まれた貯炭場に火がついて燃え盛りその後何日も夜空を赤く染めて燃え続けたあのです
日本の戦力備蓄の石炭が燃え尽きてしまうまで燃え続けていたのを憶えています

空襲の翌日から我々学生は駐在の軍人や先生の指導の下、焼け跡の掃除(後片付け)に毎日精出す日々でした
焼け跡掃除で出てくるのは学生が習字に使っていた(鉄製の)文鎮が赤錆びて燃えかすとして集めたのを覚えております
この鉄製の文鎮と焼け錆びた五寸釘くらいでしたのを憶えています  これらは鉄物はアメリカを滅ぼすための戦車、弾丸など武器を造る材料として集め、
「兵隊さんの為に」と供出するのです
その他に目ぼしいものは何もなく基礎に残るコンクリート土台が残っているだけでした

1日の掃除が終わって帰る時に担任の先生からコッペパン1個が買える切符が貰えるのです
その切符を持って食料配給処に行くとコッペパン1個が買えるのです  いくらだったか記憶にありませんが最初の日はその切符で1個、買ってきてみたのですがとても食べられる味のパンではなかったことを子供心にも憶えています  両親は勿論私にも不味くて喉を通さず呑み込めないようなパンだったのです  贅沢に聞こえますが我が家の両親と私の3人の口には合わない不味い物で呑み込めなかったことを今も鮮明に憶えています  

焼け跡掃除の度に帰りにパン1個の購入券が貰えるのですがその切符は毎日貰って来ては斜め向かいの家のSさん家に持参すると喜ばれるので毎回譲ってあげていました  
それ程当時の内地はは食糧欠乏の時代だったのです (敗戦の半月前のことだったのです)

島根県・石見の国(石州)・井原で百姓をしている母方の叔父母からの食料の支援を受けてこんな欠食の時代でも満腹まで食べさせて貰い、人間らしい生活を送らせてもらいました
今でも叔父叔母ご両人のご恩を忘れることはできません

その後も日本各地への空襲は連日連夜続き、襲来するB-29の編隊に対し迎撃つ戦闘機はおらず地上から上空に向かって打ち上げる高射砲はなく
時に撃たれる弾は敵機のはるか下方で炸裂し敵機は悠々と攻撃を済ませて飛び去っていくのです  
歯がゆい限りですが何ともできないのです  戦力の大差によるものです
子供心にこんなに戦力差のある国を相手にして交戦すること自体が最初から間違いだったのです

明日の日の命も危ぶまれる当時の日本は、日本が全滅させられるまで空襲は続くことが予想されわれら国民は死なないこと殺されないことを祈るばかりの毎日でした
9歳の幼い少年だった私は当時の戦時中の親父にとっては足手まといで、母の妹の叔母が跡を継ぐ[新出屋]に疎開させることに決めたのです

7月2日の大空襲の戦禍で消失した母校の焼け跡掃除を終わってから、昭和20年7月30日の夜に母に連れられて宇部岬から国鉄の山口線、津和野、江津、三江線、因原を経て叔父母の住む石州井原に戦争疎開したのです  国民小学校4年の2学期、夏休み中だったのです

着いた処は母の故郷・生家の [新出屋(ニイデヤ)] は島根県邑智郡井原村天蔵寺原(現在:邑南町manaca)にあり、石州・石見の国で いつも [セキシュウ] と今も慣れ親しく呼んでいます
敗戦色の濃いい当時、叔母の家とは云え知らぬ土地への疎開ですから私にとってそれは心細い転地・転校の戦争疎開だったのです

直ぐに母と叔母に連れられて(村立井原)小学校への転校入学の手続きを済ませ心細い気持ちで夏休みを終わっての初登校日を不安な気持ちで待っていました
それから6日後の8月6日の朝、井原から北東の山越えにある広島市に世界初の [原子爆弾] が投下される
学校から帰ったらすぐに親の手伝いするのは当然であり、初めて体験する百姓です
予想もできないほどの肉体労働で、足腰の痛む日々でしたが負けず嫌いの私は最大限の努力で打ち込みましたる
遂には腰痛症が持病になり叔父や叔母に連れられて田所の鍼医者に月一くらいで歩いて通院したのを憶えかぎりっですがています
そして最初に迎えた夏、秋場には [ホビ] という蚊のようなノミのような小さな虫に素足をごりょうにんの
当時、学生疎開が大都市部を中心に流行っておりましたがそれは大集団での疎開で
私のように単独の疎開は友人から離れての単独の疎開なので寂しいものでした
言葉も風土も違う土地に単独で乗り込むのですから不安だらけです
私の疎開は叔母の家 [新出屋] への転居ですから別の意味で不安がありましたが
空襲が激しくなって生き延びるための疎開ですから異論を唱える余裕はなかったのです

空襲の隙間を縫って母に連れられ宇部岬駅から国鉄宇部線で小郡へ、
そして山口線、山陰線そして山江線を乗り継いでいる母の生家で妹夫婦の [新出屋] に向かったのです
話す言葉も違うし、四辺そこいらにホビと云う蚊より小さい刺す虫がいて最初の1年は膝から下は化膿して大変苦労しました

井原に着いて2週間目の8月15日に終戦を迎え、昭和天皇のあの
 『 耐え難きを耐え、忍び難きをしのび 』
の詔勅を拝聴した時の情景を昨日のようにありありと思い出し忘れる事が出来ません
空襲の体験をし、生き延びて84歳を元気に過ごし、日々を新型コロナ(こ)と戦いながら

603 -【 長兄が元気で満百歳 】(2020/07/14)

2020年07月14日 | [日記]
私の 実兄・賢策 は私と15歳違いで、1920年生れの兄です
そして今日、目出度く 満百歳の長寿

迎えたのです
[1920年(大正9年)07月14日が誕生日で、私より15歳年長です]

そうです
今日は実兄の満百歳の誕生日なのです

兄は私と15歳余り離れており、今日、実兄・賢策氏は故郷の長州・山口県宇部市で目出度くそれも驚くほどの健やかに『満百歳』を迎えたのです

 如何におめでたいことは云え、他人ごとなので忘れて通り過ぎないように
 日記帳に書き込んでおきました
 今日夕方、兄夫婦2人が夕膳を囲んでいるだろう時間を見計らって お祝いの電話 をしてみました
 電話の向こうから兄の元気な声が返ってきました

以前電話したときは、私の話す声が聴きとれず会話が連がらなかったのです
処が、今日は最初からスムーズに会話が連がり、百歳のお祝ひを伝えることができたのです

これからも元気に健やかに生活して更なる長寿を全うして欲しいとお祝いを交わしました
百歳の兄と85歳の私が元気で電話でお祝ひを交わせた事を喜び亡き両親に唯々感謝するばかりです

兄の連れ(妻)も昭和3年生まれで、満91歳の元気者なのです  先日白寿祝いに帰郷した時も
日々の買い物は、往路の片道約1km余のスーパーへの道も、健康の為に歩いて行き、
帰りは買った荷物もあり、タクシーを利用していると云っておりました  まさに元気そのものです

一昨年の暮れに兄の白寿を祝ってやろうと思い立ち1日泊りで宇部を訪ね、
私も高校まで過ごした両親が残した実家に何年振りかで訪ね一晩泊りで帰郷し
兄の次男らと一緒に祝って来たばかりです(参照:https://blog.goo.ne.jp/oldeeagle/583)

本当に理想的な老後の夫婦生活を実践し、エンジョイしている様子で、羨ましい限りです
 私は独り身の生活になってから既に8年が経ってしまいました

食事を終わって私が帰途につく時には二人して玄関前の道路まで出て見送ってくれました
夫婦揃ってこんなに元気で、病院通いをしている様子も全くなく
何不自由なく楽しく毎日を元気に過ごしている様を目の当たりにしてきたのです

私が最後に歩いた3回目の [四国歩きお遍路の納経帳『百八寺のお遍路(平成18年)』を
長兄に贈って手渡してきました
 尚
  最初に歩いた遍路『初めてのお遍路(平成12年)』の納経帳は 妻百合子(釈尼妙合)の旅立ち(平成24年)に
  2回目の歩き遍路『出会いのお遍路(平成14年)』の納経帳は次兄・懿雄の旅立ち(平成19年)(2007)の棺に納めました

私の慈母マツも平成5年(1993)に享年百歳で人生を全うするまで戦前戦中を通して苦労したでしょうが
達者で人生を過ごしてくれました 残念ながら満百歳を元気で迎えることはできませんでした
八十八歳を迎える時みんなで
 「母の米寿をお祝い しよう」と
末弟の私が提案したのですが、母と兄嫁さんとの間に日々の生活で生まれた些細ないざこざがあったのか
兄の一言で実現に至らず母の米寿の祝いをしてあげられなかったのが無念が今も心の中に消えずに残っております
亡き母に申し訳なかったと残念でならず、父母への謝罪の念が消えずに今も残っております

その母は満九十歳になってから独りで新幹線に乗り、郷里の宇部から私らが住む鳴海の三菱社宅を訪ねてくれ
ひと月を退屈しながらも過ごし、その後次兄の住む富山に送ったことが思い出され、母もそんな元気な過去でした

長寿社会になった今の日本では百歳以上の長生きできる人はこれからどんどん増えるでしょうが
目の前にいる兄夫婦のように日々を楽しく元気に過ごせる夫婦はそんなに多くはないと想像します
彼ら夫婦のように健康維持して楽しい余生を過ごせたら願うばかりです
私のように77歳から独り身で寂しく活きる人生はもうこりごりです
これも私に課せられた私の人生であり私の天命だと悟り、
塞翁が馬と念じ今日まで過ごし、またこれからの日々も過ごしていきます




602 -【 サラリーマン川柳ベスト10発表 】(2020/05/28)

2020年05月28日 | [案内]
601 -【 サラリーマン川柳ベスト10発表 】(2020/05/28)
今年も第一生命保険から例年のように
選別された川柳10首が発表されました
どれも微笑ましい出来栄えの銘首ばかりです

 1、我が家では 最強スクラム 妻・娘
 2、パプリカを 食べない我が子が 踊ってる
 3、話聞け! スマホいじるな! 「メモですが」
 4、おじさんは スマホ使えず キャッシュです
 5、たばこ辞め それでも妻に 煙たがれ
 6、足りないの? そもそも無いのよ 2000万
 7、登録が ストレスだらけの キャッシュレス
 8、ジジババも 子育て参加 ワンチーム
 9、ギガバイト 時給いくらか 孫に聞く
 10、「早よ、帰れ!」 言ってる上司が 帰らない


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601 -【 ひと際大きく見える満月:スーパームーン 】 2020,04,08

2020年04月09日 | [日記]
601 -【 ひと際大きく見える満月:スーパームーン 】 2020,04,08
日本では 4月7日夜から4月8日は 地球と月の距離 が1番近くなる日で、いつもより満月が大きく見える
「スーパームーン」が観測されました

全国的に好天にも恵まれ 地元小牧・篠岡でも丸く輝いた満月が
何時もより大きくきれいに観測できたので写真に収めました




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[自写のスーパームーン・満月の画像です]

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[webから引用したスーパームーンの画像]


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600 -【コロナウイルス警戒の中でコッソリお花見】 2020,04,04

2020年04月04日 | [日記]

   
     [新型コロネウイルス拡散警戒の中で静かに花見]

      今年もいつもどおり桜は枝いっぱいにきれいに咲き誇っています


    



                

               

    


            桜の基の野辺には可憐な花が咲き誇っていました

                   



      



                     








599 -【Tokyo 2020 の聖火採火式(オリンピア)】 2020,03,12 2020-03-13 15:13:49

2020年03月13日 | [日記]


 東京オリンピック2020(7月24日開幕)聖火の採火式がコロナウイルス厳戒の中、
 快晴で観衆なしのアテネのヘラクレス会場でバッハオリ会長臨席のもと実施され、
 凹面鏡を使って太陽光を集めて聖火をから成功裏に終わりました(日本時間3月12日夜)

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     クーベルタン男爵記念碑にランの無事を祈る

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 聖火の受け継ぎ

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     野口みずきさんが聖火を受け継いで第2走者として発走


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  [追記]:当初の計画では 3月18日までギリシャ国内をリレーランの予定でしたが観客が予想外に多く、
     コロナウイルスの関係で危険性が高く中止になったとの報せです

     国内への搬入は3月19日に松島基地(宮城県)まで空自機で搬ばれ福島の [Jビレッジ] を出発点として
     聖火リレーが進行計画に変更はないそうです

     3/20 午前 ANA機で空自松島基地に搬入されサンドウイッチマンの2人により東北の [Jビレッジ] に向けて移動

     
 (3/14追記)





598 -【 新型コロナウイルス(CVIC19)蔓延防止対策 】 2020,03,07

2020年03月12日 | [案内]
なぜWHOはパンデミックを宣言しないのか(2/3)

ペスト 黒死病 4億5000万人のうち 1億人死亡
中国モンゴル地方 毛皮のノミから ヨーロッパの1/3死亡 1348~、

コレラ(半分以上死亡)人から人へ 19世紀から毎年死亡

スペイン風邪 5億人、1/4が死亡 スペインで発生 アメリカで流行

SARS 中国から伝搬 規模が小さい 774人死亡 香港、広州

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  新型コロナウイルス(COVIC19)の顕微鏡写真     


昨年(2019)12月、中国河北省武漢市で最初の患者が報じられ、日本でも今年の令和02年1月になると
最初の患者の発生が報じられ、その後も日々その患者数は増加の一途を辿っています
安倍総理が先日、緊急事態対策として3月2日から小・中・高校等に一斉休校を命じ
発生のピークを2週間以内に抑え込む意気込みを国民に示しました
この指示により事前には予想もできなかったような多様な問題が派生的に発生しております
例えば児童の在宅で勤めに出る主婦も勤めに出られないなどの別途の大きな社会問題も起っております
学校の閉鎖で感染患者の発生の抑制に役立つ効果は期待された程ではないようです
何故なら子供への感染率は低くそれよりも大勢が密集して集まる 「ライブハウス」 の公演参加による
感染者の発生が多い事が次第に判ってきたのです
大阪のライブハウスの参加者をクラスターとして今月に入ってから
私には想像もできない多数の患者が出ているのです
このライブハウスの公演参加者をクラスターとして日本の南沖縄から東北、北海道まで
日本各地から想像も難しいような日本各地から患者が今も発生し続けているのです
これほど広く報道されると日本のどこでも同じ轍を踏むことはないだろうと思われるが
同じように多くに大人、特に老人が寄り集まる老人会、デイサービスなどは
暫く落ち着くまで開催しない対策をとるべきでしょう
行政の管轄下でこれらの会合を暫く間開催しないよう指導統制すべきと思います
 「遠慮してください」
と云った優しく生半可な表現ではなく
 「開催を中止する」
 「開催を認めない」
と云うような決定的、指示的な表現をして欲しいと思います
名古屋市長は早々に
「デイサービスを暫くの間中止させる。」 
と公言していましたが当を得た決断と指示だったと思います

今月初めの文科省の小中高特殊学校等の休日にするとの指示には依る効果は
期待される効果は逆効果で打ち消されるものが多く総体的に多くを期待できないと
思うがデイサービスや老人会の中止などは多くの効果が期待できると思われます




597 -【 前田陽一郎ピアノリサイタルを視聴 】 1920,02,01

2020年02月05日 | [日記]

ピアノリサイタル開催を報せるパンフ


町内会の会報で事前に報されてた今日のピアノリサイタルに意気揚々と出かけてきました
全席指定席と知らされていたので未入手の私には時間ぎりぎりで出かけた私には切符を未入手の私には一寸した不安もありましたが空席が目立つことだろうと高をくくっていましたがさにあらず長蛇とと云っても良いほどの長い列です
事務員に云われてセンター事務所で入場券を現金を出して購入しました  
入手した座席の番号は [て列 23番] でした
既に開場時間を過ぎており、約500席の会場はほぼ満席の盛況でした
私の [て列] は最後列から二列目にあり、その席からみて客席は前方に約20列在り
左右には8列が3列並ぶ合計24列あるようでした
その席がほぼ全て占めらていれる盛況でした  1人500円として総計 ???円 の収入だなと詰まらぬ他人の懐勘定をしてみる馬鹿な人間でした

 ☆ 演奏された曲は下記の通りでした (案内のパンフレットより)
  14:00 ~ 14:40
   シューベルト
     即興曲 変ホ長調 作品90-2
   シューベルト
     即興曲 変イ長調 作品90-4
     コラール前奏曲 目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえる (BWV645)
     
 

 [演奏の合間に額や掌の汗を拭きながら演奏に熱中する奏者]

 
   バッハ
     カンタータ 「主よ、人の望みの喜びよ」(BWV147)
   リスト
     リゴレット(演奏会用パラフレーズ) (S434)
   リスト
     3つの演奏会用練習曲カンタータ 「主よ、人の望みの喜びよ」(S144.3.)

    (休憩15分)  14:55 ~ 15:35

   ベートーベン
     ピアノソナタ第23番 ヘ短調 「熱情」(OP57)
   リスト
     愛の夢 第3番

  満衆のアンコールでリストのピアノ協奏曲が追加演奏されました


 私には高尚過ぎる分野のクラシック曲の演奏でしたがこれから機会をとらえて
 傾聴したいと思います
 妻の26年に及ぶ長期闘病の末、逝ってしまってからの孤独生活になって直ぐに急いで [パスポート] を手に入れ、
 海外の世界遺産を目星にして世界地図を俯瞰して多くの地点をくまなく旅することができ、
 その間に国内の多くの観光地を息抜き的に旅をしてきました
 今日、振り返ってみると一昨年(2018)2月の南極クルーズの旅、7月のアフリカ喜望峰とビクトリアの滝の
 見学旅行を最後にして何となく気力の衰えを感じ、昨年は一度も旅をせずに終わってしまいました
 何故かと聞かれると好ましくないのですが気力と体力に衰えを感じ始めているのです
 これを自分を認めることは自分の敗北に自ら道を開くことになるので最大の抵抗をしたいのです
 基礎体力の維持には気配りして日々のウオーキングを続け、趣味の方向を変えて音楽に、即ち自分の過去から見ると
 高尚な方向へ転換することです
 先日の多治見にコンサート傾聴からの先般のこれから趣味を広げる努力をしてみる心算です
 その第一歩としての参加が
 
  2019(R01)/11/03 「 桃花台音楽まつり プレコンサート」
     会場: 東部市民センター 講堂
         開場:13:15 開演:14:00
            入場無料 先着順

  でした