On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■「これは英語とは言えません!」ハーン先生の綴り方教室

2021-12-27 | ある日、ブラフで

 

エドワード・B・クラークは1874(明治7)年横浜に生まれた。

父ロバートはジャマイカ生まれの英国人で、30代半ばで来日し横浜でパン屋を営んでいた。

エドワードが生まれてほどなく妻が亡くなると日本人女性と再婚し、1男1女を設ける。

店は大いに繁盛し、ブラフ(山手町)42番地にプールとテニスコート付きの邸宅を構えていた。

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エドワードは早熟な子供だった。

4歳で早くも文字を覚えて本を読むようになり、6歳の頃には横浜で発行されていた英字新聞ジャパン・ガゼット紙の文芸欄の熱心な読者であった。

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5歳で教会学校に入学し、12歳でブラフの別の学校に転ずる。

14歳となる1888年、当時ブラフ179番地にあったヴィクトリア・パブリックスクールの生徒となった。

これは主に英国人子弟の少年たちに本国並みの中等教育を施すことを目的として設立された学校である。

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入学した年の7月、夏休み前の表彰式でエドワードは英語とフランス語の首席を取り表彰された。

ヒントン校長がスピーチの中で、ベイビューアカデミーとのクリケットの試合でエドワードがキャプテンとしてチームを率い、みごと勝利に導いたことを誇らしく語ると会場は拍手喝采に沸いた。

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同年12月の冬の表彰式でもまたエドワードは文法、書き取り、フランス語、歴史で首席として表彰された。

クリケットの最高平均得点賞の銀杯もエドワードに与えられた。

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翌年の夏の表彰式でもエドワードはフランス語と地理、歴史で首席として表彰され、クリケットの最高平均得点賞の銀杯も授与された。

(数学の首席は逃したが、これは低学年クラスにいた弟のピーターが取った)

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エドワードの文武両道の活躍ぶりは、クラーク家にとっては大いに喜ばしい事だったに違いないが、何の賞にも与れなかった生徒の母親たちは不満を鳴らしたようだ。

校長もこれを無視できなかったのか、夏休みの間に妙案をひねり出した。

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新学期の初めにエドワードはヒントン校長からある役目を与えられた。

低学年クラスの教師である。

日頃、級友たちから勉強のわからない点を聞かれると丁寧に答えていた彼の教え上手を逆手にとって、いわば「副業」にしようとしたのだ。

そしてそれは彼をあらゆる賞取り合戦から排除することを意味していた。

なぜなら彼は生徒とはいえ先生でもあるのだから。

§

実際、これは学校の経営面からも好都合であった。

主に英国人コミュニティからの寄付と学費のほかほとんど収入源のないこの学校は、財政的な理由から教師の数が不足気味であった。

エドワードは学校が無給で得た新たな教員助手といえなくもなかったのである。

(学校はエドワードの卒業時にそれまでの貢献に対する感謝のしるしとして多数の書籍をプレゼントした)

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さてこの学業優秀スポーツ万能かつ人望にも恵まれるという絵にかいたような優等生のエドワードも、かつて父親からこっぴどく叱られたことがあった。

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彼がまだ6、7歳の頃(とはいってもすでに新聞の文芸欄に目を通すほどの教養人だったわけだが)、ある米国人医師の頭部に注目してこう尋ねた。

「ねえ先生、先生の髪の毛はどうして白いの? それにあたまのてっぺんに毛が生えてないのはなぜ?」

§

 

ちなみにこの米国人医師とは、横浜開港間もなくキリスト教宣教のために来日し、施療院を営みつつ和英辞書を編纂し、ヘボン式ローマ字を考案して今に名を遺すジェイムズ・カーティス・ヘボン氏その人である。

観察眼に富んだ少年の率直な質問を受けた時すでに60代半ばであった。

§

エドワードの父ロバートは、息子のこの言動を子供らしい無邪気さとは見なさなかった。

それどころか、人の身体的欠点を見ても決して取り乱さず、何一つ気づかないかのようにふるまわねばならぬことを、打擲とともに息子に叩き込んだのである。

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だからその朝、学校の一室で引き合わされた紳士の片目が不自由であることに気づいた時も、エドワードは内心の狼狽をおくびにも出さず、平静な態度を保つことができた。

低学年クラスの「先生」に任命された翌年1890年の4月上旬のことである。

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ヒントン校長はエドワードにこの紳士「ハーン氏」が「文学者」であり、親切にもエドワードに作文の手ほどきをすることを申し出てくれたと説明した。

ハーン氏はこの年の4月4日に横浜に到着し、間もなくヒントン校長の知己を得て彼の家に滞在しているとのことであった。

§

後年記した‟A Japanese Miscellany”のなかでエドワードはハーンに初めて会った時の印象を次のように語っている。

§

椅子のひとつに、小柄で肩幅の広い男性が座っていた。

やや色黒で髪は整っており、黒っぽい色の毛髪に白髪が混じり、額のあたりではすでに銀色がかっていた。

口髭のほかはきれいに剃り上げられ、その時最も印象的だったのは彼の容姿の清潔さだった。

§

それから毎日30分間、土曜日は1時間、二人だけの授業が続けられた。

生徒が自由にテーマを選んで短い文章を書き、先生がそれを添削する。

エドワードは後年、その思い出を次にように書き記している。

§

オックスフォードとケンブリッジのボートレースを選んで想像で描いたことをよく覚えている。

私は大英帝国とその領土の男たちをぞくぞくさせるような素晴らしいレースどころか、この世のどんなレースも目の当たりにしたことはなかったのだから、それは全くの想像だった。

テムズ川もその地形も、活気ある光景も全く知らなかったので、私は隠喩や直喩のために想像力を駆使した。

タイトルは「オックスフォード・ケンブリッジ対抗ボートレース」で、最初の一文はこんな感じだった。

「明るい光を放つ川の広い水面に、タイタンのごとき巨人らの手から放たれんとする二つの槍が横たわっていた」

うんぬんかんぬん。

あとは忘れた。

 

ハーンは20分間、苦労してそのたわごとを何とか見苦しくないものに鋳なおそうとした。

彼は次のように指摘した。

槍は一般的に何かの表面に乱雑に置かれるものではなく、まして水の上ということはなく、タイタンはもちろん槍を使っていたかもしれないが、知る限り、彼らの好む飛び道具は巨岩や丸石であり、たまには山でさえ悪くないと思っていた。

さて、彼は第二の不完全なセンテンスに移り、わたしのノートに手直しを書き込もうと試みたが、満足せず、ポケットから中国製の黄色い紙のパッドを取り出した。

私が接していた間一度も彼が白い紙を使うところを見たことはない。(中略)

 

私はハーンと自分のつきあい―彼は校正者として、私は謙虚な不器用者として―がどれぐらい続いたのかもう覚えていない。

しかしわたしは彼の策略をありありと思いだすことができる。

時折彼は褒め言葉を唱え始めて私を喜ばせる。

しかし私が内心得意になると、一撃のもとに叩きのめすのだ。

こんな具合に。

「おお、これはとてもいい、とってもいいよ。実力以上のできばえだ! 言葉はよく吟味されているし、書き方もかなり優雅だ、文法も見事だ、だが(少し間を置いたのち)、これは英語とは言えない!」

§

ハーンはエドワード少年に文章を書く上での様々なアドバイスを与えた。

それはハーン自身の人生観にもつながるものであり、エドワードはそれらの言葉を深く胸に刻み、生涯忘れることがなかった。

§

私の記憶に残るハーンのいくつかの言葉は次のようなものだ。

いつもノートを手放さず、文や描写を思いついたらその時々に書き留めておきなさい。

記憶に頼ってはいけない。

それは最も危険な助手だ。

自分の考えをすぐに書き留めて、それを切り詰めて、切り詰め続けるのだ。

 

ロジェのシソーラス(類語辞典)を手に入れていつもそばに置きなさい。

それは無限の価値を持っている。

言葉の語源を勉強しなさい。

そうすれば言葉の根幹の意味を知ることができる。

そのうちに非凡な語彙力ばかりでなく、自分が用いることばの価値と意味について細やかな感覚を持つようになる。

そうすれば言葉は君に従い、考えの核心や、伝えたい考えのニュアンスを表現するのを手伝ってくれるようになる。(中略)

 

もう一つ、私の記憶の箱の中の最後の、そしておそらく最も私に大きく影響したものは「自分が成し遂げたことに満足することを自らに許してはならない。

必ずや君はさらに良いものを成し遂げられる。

満足は停滞を意味し、不満足は進歩を意味する」

文字通りであったかは請け合わないが、ハーンの教えをかなり正確に伝えていることはほぼ間違いない。

§

二人の個人授業は数週間しか続かなかった。

ある日、エドワードはハーンが学校を去ったことを知らされる。

その年のうちにエドワードもまたヴィクトリア・パブリックスクールを卒業し、間もなく日本を発った。

§

英国ケンブリッジ大学で学問を修めた後、1897年にエドワードは再び日本の地を踏む。

1899年に慶應義塾大学の講師に任ぜられ、英語と英文学の教鞭をとった。

ヴィクトリア・パブリックスクールで共に学び、ケンブリッジ大学の学友でもあった田中銀之助(田中銀行頭取、日本ラグビーフットボール協会初代名誉会長)とともに塾生にラグビーを指導し、日本初のラグビーチームを結成して「ラグビーの父」として知られるようになる。

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その後、第一高等学校、東京高等師範学校、第三高等学校を経て1921年からは京都帝国大学に移り主に英文学の講義を行った。

教え方は丁寧で学生から慕われ、4歳からの多読のおかげでその博覧強記ぶりはE. B. ClarkeをEdward Bramwell Clarkeの略ではなくEncyclopedia Britannica Clarke(ブリタニカ百科事典クラーク)ともじられるほどだった。

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あの時ハーンが突然エドワード少年の前から姿を消した理由は、ヒントン校長夫人が彼の容貌を嫌ったためと言われている。

その年の9月、彼は島根県尋常中学校の講師となった。

その後、日本に帰化し小泉八雲と名を変えたラフカディオ・ハーンの数々の功績については、広く世に知られるところである。

 

図版:
・クラーク肖像写真(京大英文學研究會『Albion』第二巻第一号 昭和9年)
・ヘボン肖像写真(筆者蔵)

参考資料:
・文部省公文書「京都帝国大学文学部傭教師英国人エドワード・クラーク叙勲ノ件」昭和6年7月23日
・E. B. Clarke “A Japanese Miscellany, My Shortlived Connection with Hearn”, 『大阪朝日新聞』大正7年3月25日~4月4日(本文に引用した文はすべてこの文献による。筆者訳)
・「エドワード・ブラムウェル・クラーク」(昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書 第37巻』昭和48年 所収)
The Japan Weekly Mail, July 21, 1888
The Japan Weekly Mail, July 2, 1889
The Japan Weekly Mail, July 8, 1890

 

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