On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■ユンケル四重奏楽団 ~プール嬢のアルバムから

2024-02-27 | ブラフ・アルバム

1888年に家族とともに来日し、横浜で青春を過ごしたアメリカ人女性エリノア・プールのアルバムから興味深い写真をご紹介するシリーズの第2回。

前回は彼女がアマチュア女優として活躍した山手ゲーテ座を取り上げましたが、今月は演奏会に関する写真をご覧いただきます。

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プール一家は音楽に造詣が深く、エリノアとその母はピアノを、兄ハーバートはヴァイオリンをたしなんでいました。

左より)シュミット夫人、プール夫人、カウフマン夫人、エリノア

1898年に世界的なヴァイオリン奏者であり、後に東京音楽学校の教授となるアウグスト・ユンケルが来日すると、ハーバートはユンケル管弦楽四重奏団の一員としてゲーテ座(パブリック・ホール)などで度々演奏するようになります。
(トップの写真 左より ユンケル、R. シュミット、F. シュミット、H. プール)

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ユンケルは1868年ドイツに生まれ、ケルン音楽院でヴァイオリンを学び首席で卒業。

16歳でデビューを飾りました。

アメリカに渡りシカゴ交響楽団に入団しますが、その後独立して世界各地のステージで活躍し、中国を経て横浜に現れます。

横浜での活躍の舞台となったゲーテ座に関する研究書『明治・大正の西洋劇場 横浜ゲーテ座 第二版』には次のように書かれています。

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さて、日本楽団育成の恩人と称されることもあるアウグスト・ユンケルも、ソーブレットやパットン、ブロックサムなどと同様、東京音楽学校の教師に就任するまでは、横浜が活動の中心舞台であった。

ユンケルの来日を1899年とする説は『音楽事典』を始めとして多くの書物に見られるのだが、彼が横浜に姿を現したのは1898年の初頭であって、パブリック・ホール初登場は3月10日の夜である。

その後、ユンケルの活躍はめざましく、その年の秋から翌年にかけて、彼は文字通り横浜の音楽シーズンの中心人物となった。

合唱団及び管弦楽団と弦楽四重奏団を組織し、それぞれ三回の演奏会をパブリック・ホールで開くに至ったからである。

合唱団及び管弦楽団は、アマチュアの団体であるヨコハマ合唱協会とフィルハーモニック協会のメンバーを中心に編成され百名を超す団員を擁していた。

(中略)一方、弦楽四重奏団は、ユンケルと三人のアマチュア音楽家(H. プール、F. シュミット、R. シュミット)がメンバーであった。

第一回と第三回の演奏会には、当時すでに東京音楽学校に出講していたラファエル・フォン・ケーベルが特別参加しているのが注目を引く。

ユンケルは1899年4月に東京音楽学校の教師となり、彼の活動の舞台は東京へ移るが、横浜との関係はその後も続いた。

特に、横浜のアマチュア音楽家を中心にして、ユンケルはベートーベン協会という音楽団体を組織し、およそ10年にわたって主宰していたからである。

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ユンケルが東京音楽学校に職を得た経緯について、弟子の一人である山田耕作は著書『耕筰楽話』に次のように書いています。

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先生が来朝されたのは先生の二十二の時であった*。

何の目的もなしに、アメリカのある金持ちが東洋見物の時に先生を同伴されてきたのであった。

そして横浜で外人達の為に演奏会を催したりしたのを幸田延子先生**が知られ、学校当局に、ユンケルという立派な音楽家が来朝中だが先生にしないか、と話され、始めは嘱託として関係されたのであった。

*ユンケルは1868年生まれで1898年に来日したため「二十二歳」は誤り。  
**幸田延(1870-1946、「延子」は山田の誤りか)は明治から昭和にかけて活動したピアニスト、ヴァイオリニスト、作曲家、音楽教育家。作家 幸田露伴は実兄。

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ユンケルは1912年まで東京音楽学校でヴァイオリンと管弦楽の指導にあたり、山田耕作のほか、瀧廉太郎、三浦環ら数々の音楽家を育てました。

日本人女性と結婚し、東京音楽学校を辞して後、いったん故国に戻るも妻の健康上の理由から1934年に再来日。

武蔵野音楽学校で再び教鞭をとり、1944年東京にて生涯を閉じます。

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音楽教授としての指導ぶりについて山田耕作は「ユンケル先生には何といつても熱があった。

音楽の技術だけでなく、芸術そのものを吹き込まうとする真剣さがあった。」と記しています。

(前列左より)ロバート・シュルツァ、アウグスト・ユンケル、ドーン
(後列左より)フリッツ・シュミット、ロドルフ・シュミット、ハーバート・プール、カウフマン、フリードランダー

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さて、『明治・対象の西洋劇場 横浜ゲーテ座 第二版』よると、ユンケルが東京に拠点を移す以前、ゲーテ座で弦楽四重奏の公演を行ったのは1898年12月21日、1899年2月22日、同年5月11日の3回です。

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第1回と第3回には、東京帝国大学教授であるロシア人ケーベルがピアノ奏者として参加しました。

ケーベルはロシアで音楽を学んだ後、父の母国であるドイツで哲学を修め、明治政府のお雇い外国人として1893年から1914年まで21年間にわたり東京帝国大学において哲学、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、ドイツ文学を講じたほか、東京音楽学校でピアノ教授も行った多才な人物です。

1898年12月の演奏会ではピアノ独奏のほか、ユンケルのヴァイオリンとの二重奏を披露し、喝采を浴びたことが新聞で報じられています。

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ケーベルが参加しなかったゲーテ座での第2回演奏会ではエリノアがピアノ奏者を務めました。

プール家の兄妹の晴れの舞台を伝えるこのときの新聞記事はいつになく相当に辛口ですが、ご参考までに紹介します。

(前列左より)カウフマン、プール夫人(エリノアの母)、シュミット夫人、フリードランダー
(後列左より)カウフマン夫人、R. シュミット、ユンケル、H. プール、シュルツァー、F. シュミット、ドーン、エリノア

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ユンケル弦楽四重奏団による第2回室内楽演奏会が、水曜日の夕方、パブリック・ホール(山手ゲーテ座)のロビーで大勢の聴衆を迎えて行われた。

残念ながら12月27日(12月21日の誤り)に行われた第1回演奏会のような高い芸術的レベルには達していなかった。

このような大きな違いが生じたのは、ケーベル教授が参加しなかったためである。

弦楽四重奏によるモーツァルト初期の変ホ長調と、ピアノ四重奏によるベートーベン変ホ長調が足かせとなった。

これらはまとまりに欠け、アンサンブルも完璧ではなかった。

他の演奏曲は、アレンジも含め、古今東西から集められたもので、聴衆は楽しんでいたようだ。

ユンケル氏は、ボームという無名作曲家による「カヴァティーナ」という作品で、素晴らしい音色とカンタービレ的なスタイルを披露したが、曲自体は面白みがなく、氏の能力にふさわしいものでなかったことが惜しまれる。

ペイン夫人、クラーク夫人、シュルツァー氏らが務めた独唱が救いとなった。

特にペイン夫人によるブラームスのコントラルト独唱は見事であった。

プール嬢は本演奏会初登場ながらベートーベン作品に堂々と挑戦して魅力を発揮した。

全体的に見ればとても楽しい一夜だったといえよう。

ただ、次回は更に良いものを期待したい。

本演奏会の最後の公演までに、四重奏か三重奏のどちらか1曲でもいいから、完璧なものを聴かせていただければ幸いである。

 

プログラム

第一部

1. 弦楽四重奏「変ホ長調」モーツァルト・・・ユンケル氏、R. シュミット氏、F. シュミット氏、プール氏

2. アルト独唱「鎮められた憧れ」ブラームス・・・ペイン夫人

3. 弦楽四重奏
(a)「メヌエット」ハイドン
(b)「ミニョン」トマ

4. テノール独唱「エレジー」マスネ・・・シュルツァー氏

第二部

1. ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための四重奏曲「変ホ長調」ベートーベン・・・プール嬢、ユンケル氏、R. シュミット氏、F. シュミット氏

2. ソプラノ独唱「アヴェ・マリア」マスカーニ・・・クラーク夫人

3. ヴァイオリン独奏「カヴァティーナ」 ボーム・・・ユンケル氏

4. 弦楽四重奏
(a) 「無言歌」 作品17 メンデルスゾーン
(b) 「アンダンテ・カンタービレ」チャイコフスキー(リクエスト曲)
(c) 「メヌエット」ボッケリーニ

人物と服装から察して上から3番目のの写真と同じときに撮影されたと思われる

 

図版:すべてアントニー・メイトランド氏所蔵。撮影日時不明。

参考資料:
・瀧井敬子「夏目漱石とクラシック音楽 第20回 ユンケル家と岩倉家の結婚」(『月刊 資本市場(No. 417)』2020年5月所収)
・山田耕作『耕筰楽話』(清和書店、昭和10年)
・升本匡彦『明治・大正の西洋劇場 横浜ゲーテ座 第二版』(岩崎博物館(ゲーテ座記念館)出版局、1986年)
・ベルリン日独センター編『Brückenbauer : 日独交流の架け橋を築いた人々』(ベルリン日独センター、2005年)
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)
The Japan Weekly Mail, Feb. 25, 1899.

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