汐汲坂付近を山手本通り側から撮影。ヴィクトリア・パブリックスクールは右側の道の右手奥にあたる山手町179番地にあった。(写真左側の建物はフェリス・ホール)
On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり」は2016年にスタートしました。
Bluff=山手町に住むようになってから、横浜開港資料館や横浜市中央図書館でぽちぽち調べてきた居留地時代のできごとをブログで紹介してみようと思ったのがきっかけです。
それから早や8年、おかげ様でこの度100回目の更新を迎えることとなりました。
これまでおつきあいいただいた読者の皆様に心より感謝いたします。
そしてまだまだ山手居留地の人々への興味は尽きませんので、引き続きごひいき賜りますようお願いする次第です。
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さて今回は100話を記念して、新聞記事を中心としたいつものスタイルとは趣向を変えて、これまで何度か取り上げてきたヴィクトリア・パブリックスクールの特集をお届けします。
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横浜市山手町は、横浜雙葉、フェリス、共立といった有名女子校やインターナショナルスクールが点在する文教地区として知られていますが、後者については現在サン・モール(Saint Maul International School)のみになってしまいました。
しかしかつてはYIS(Yokohama International School、2022年に小湊町に移転)、セントジョセフ(Saint Joseph College、2000年閉校)を含めて3校あり、生徒が登下校する時刻、山手本通りの歩道は国際色豊かな少年少女の姿でにぎわい、車道には彼らの親たちが運転する送迎の車が列をなしていました。
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居留地時代に開校したヴィクトリア・パブリックスクールはいわばこれらのインターナショナルスクールの草分けともいうべき存在ですが、その実像はあまり知られていません。
そこで今回はこの学校について私たちが調べた範囲でなるべく詳しくご紹介したいと思います。
ただ、1887年から1894年までのわずか8年間に過ぎない学校史においてさえ生徒はもちろん教師の顔ぶれや、授業の教科も変わっているため、この記事では開校から3年目となる1889年の夏学期のヴィクトリア・パブリックールに皆様をご案内します。
当ブログの過去のエピソードのなかでは<「第一等の金製賞牌を得たるは・・・」ヴィクトリア・パブリックスクール1889年夏の表彰式>の時期にあたります。
既存の記事と重複する部分もありますが、どうぞお付き合いください。
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さて学校のあった場所は、ブラフ179番地、汐汲坂の登り切ったあたり、現在のフェリス女学院の施設の向かいにあたります。
ブラフ・アーカイブス(https://www.bluff.yokohama/)によると1870年以降、その地所は個人宅のほか、ドイツ公使館やベルギー公使館、領事館として使われていたようですが、学校となる直前にはホールという人物が住んでおり、その屋敷をそのまま校舎としました。
建物の一部が2階建てで10部屋ほどあり、平屋部分が大教室、2階を校長、助教の宿舎になっていました。
その隣には開校の翌年に建てられた二階建ての新校舎があり、1階には教室が3室、2階は寄宿舎として利用されていました。
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1年はイースター学期、夏学期、冬学期と3学期に分かれていました。
いまは夏学期、期末の表彰式が終わればお待ちかねの夏休みです。
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校長先生はオクスフォード大学出身でイギリス本国で教鞭をとった経験もあるというエリート数学者チャールズ・ハワード・ヒントン。
初歩的な教科を教えるのは初めてで最初は戸惑ったようですが、上級生のクラスでは大学生並みのハイレベルな数学の授業を行っていました。
そんな優秀な人物が最果ての島国に流れ着いたのかというと、実は女性関係のスキャンダルで職を追われ、やむなく一家そろって自費で日本にやってきたのです。
校長先生の奥さんメアリー夫人も教師として未就学児のための準備クラスを受け持っていました。
ヒントン一家(ancestry.com)
この二人のほかにスイス人のファーデル副校長と日本人の河島敬蔵先生を加えた4名体制で全生徒を教えていました。
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学校の一日はイギリス国教会式のお祈りから始まります。
とはいえこれは強制ではなく、他の宗教の生徒は出席しなくても構いませんでした。
教科は英文法と英文レター ライティング、歴史、地理、数学。
英語以外の語学ではフランス語と、欧米の学校への進学を希望する生徒のためにラテン語のクラスが設けられていました。
開校当初は日本語の授業も行われていましたが、あまり人気がなかったらしくすぐになくなったようです。
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当時のイギリスのパブリックスクールに倣ってスポーツも大いに奨励されていました。
生徒たちは、現在の横浜公園にあたる場所にあったヨコハマ・クリケット・アンド・アスレチック・クラブ(YC&AC)のグランドを借りてクリケットの試合を楽しみました。
学期末の表彰式では、学科の優秀者だけでなく、クリケットの高得点取得者にも賞品が贈られました。
ヴィクトリア・パブリックスクールでは、文武両道が尊ばれていたようです。
ヨコハマ・クリケット・アンド・アスレチック・クラブ 手彩色絵葉書(筆者蔵)
さてそれでは生徒の顔ぶれを見てみましょう。
1889年の夏学期、ヴィクトリア・パブリックスクールの生徒数は48名であったことがわかっています。
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国籍が明らかな生徒はイギリス22名、日本8名、アメリカ6名、オランダ2名、ドイツ1名の39名。
残り9名については不明ですが、イギリス人が約半数を占めていたことがわかります。
元々この学校はイギリス女王ヴィクトリアの即位50年を記念してイギリス人居留民が設立した学校ですから、当然と言えば当然のことでしょう。
校舎には女王の肖像画が恭しく飾られていたということです。
イギリス人以外の生徒たちがどのような思いでその絵を見ていたのかちょっと気になりますね。
ヴィクトリア女王肖像画(ハインリヒ・フォン・アンゲリ画、1885)
さて在校生48名のうち年齢が明らかな生徒は27名。
内訳は7歳3名、8歳2名、9歳4名、10歳3名、11歳4名、12歳2名、13歳4名、14歳1名、15歳3名、16歳1名で、平均年齢は11歳です。
これらの生徒の多くが居留民の第二世代、すなわち横浜生まれのヨコハマ・ボーイでした。
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名前のわかっている生徒たちについて詳しく見てみましょう。
括弧は年齢を示します。
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まず最も人数の多いイギリス人のなかで、兄弟で通っている生徒たちから。
ちなみに同じ家庭から複数の生徒が通っている場合は学費を割り引く制度がありました。
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ヘンリー君(14)とジョージ君(12)のオルコック兄弟。
二人とも卒業後は貿易関係の職に就いたようです。
父親は横浜港の主要輸出品である生糸の検査人でした。
エドワード君(15)とピーター君(13)のクラーク兄弟は、ヨコハマ・ベーカリーというパン屋さんを営むロバート・クラーク氏の息子たちです。
本国の大学で学んだのち横浜に戻り、それぞれ教育関係、医療関係の専門職に就きました。
エドワード・クラーク(京大英文學研究會『Albion』第二巻第一号 昭和9年)
ジェームス君(8)とケネス君(7)のドッズ兄弟。
彼らの父親はバターフィールド&スワイヤ社という個人商会の経営者です。
兄については不明ですが、弟は貿易関係の仕事に従事していたようです。
ウィリアム君(11)、ジョアン君の(9)ドルモンド兄弟は、日本郵船に勤務するジェイムズ・ドルモンド船長の息子たち。
卒業後はそれぞれ銀行、保険会社に就職しました。
ロバート君 (11)、ヴィヴィアン君(7)のセール兄弟の父は後にセール商会を起こすジョージ・セール氏です。
息子たちも卒業後は貿易関係の職に就きました。
シドニー君(11)とジョージ君(9)のウィーラー兄弟は、横浜居留地で親しまれていた医師エドウィン・ウィーラー先生の息子たちです。
ウィーラー先生は特に産婦人科医として活躍していたので、生徒たちの中にも彼の手でこの世にお目見えした子が大勢いたことでしょう。
二人の兄弟はともに卒業後本国で教育を受けた後、シドニー君は香港・上海銀行に就職、ジョージ君は職業軍人になりました。
シドニー・ウィーラー(Peter Dobbs氏所蔵)
ジョージ・ウィーラー (The Japan Gazette, April 24, 1919)
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イギリス人生徒の残り10名のうち7名の父親は商業関係者でした。
アルバート・バード君(10)とレナード・イートン君(13)の父親はそれぞれバード商会、イートン&ブレット商会の経営者または共同経営者。
レナード・イートン君は卒業後、父の会社に就職しています。
アーサー・ブレント君(15)とエドワード・ポーイ君(10) 、ヘンリー・ウォーホップ君(12) の父親はそれぞれフリント・キルビー商会、レーン・クロフォード商会、E. B. ワトソン社勤務に勤務していました。
アーサー・ブレント君は後に競売関係の職に就いています。
ライオネル・アンダーソン君(13)はいイギリス系貿易商社ジャーディン・マセソン商会の従業員の息子。
卒業後は保険代理店に就職したようです。
ジョージ・ブレークウェイ君(15)はバンド(山下)にある有名なホテル、クラブ・ホテルの共同経営者でしたが、本人の進路はわかっていません。
クラブ・ホテル外観写真絵葉書(筆者蔵)
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父親が商業以外の仕事についていたのは3名。
宣教師の息子、ハーバート・ゴダード君(7)は卒業後アーサー&ボンド商会という横浜の美術品輸出商社に勤務します。
アーサー・ロイド君(10) の父は慶應義塾の教師でしたが、本人の進路は不明です。
モス君は、横浜イギリス領事館裁判所書記の息子ということはわかっているものの、兄弟が多いためファーストネーム、年齢、卒業後の足取りも特定できていません。
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アメリカ人生徒6名の中にも二組の兄弟がいました。
ヘンリー君(13)とエヴァーツ(9)のルーミス兄弟は宣教師の息子です。
兄ヘンリー君は卒業後アメリカに帰国し、マサチューセッツ工科大学に進学。
弟の進路はわかっていません。
ハーバート君(11)とチェスター君(8)のプール兄弟の父親は、生糸に並ぶ横浜の主要輸出品である茶の貿易商でした。
卒業後は二人とも貿易関係の職に就きました。
弟のチェスター君は後に関東大震災被災記「古き横浜の崩壊」の著者として知られることになります。
プール兄弟。左よりハーバート、エリノア、チェスター(Poole FAMILY Genealogy, http://www.antonymaitland.com/poole001f.htm)
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残り二人のアメリカ人生徒のうち、モリス・メンデルソン君(9)は生糸貿易を営むメンデルソン&ブラザーズ商会経営者の息子で、卒業後は父の会社に就職しました。
もう一人の生徒は、マンリー君という名字しかわかっていません。
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イギリス人、アメリカ人以外の外国人で国籍が明らかな生徒は3名です。
まずドイツ人のカール・ヘルム君(10)。
彼は横浜の実業ユリウス・ヘルム氏の息子で、卒業後はヘルム・ブラザース社に入社しました。(多角的に事業を展開して成功を収めたヘルム一家の歴史についてはその末裔であるレスリー・ヘルム氏の著書「横浜ヤンキー」(明石書店 、2015)をご参照ください)
オランダ人医師ハイデン氏の息子も在籍していましたが、名字以外はわかっていません。
同じくオランダ人を父に持つコジロウ・ピティト・ショイテン・ヨコヤマは、名前から推して日本人の母をもつ国際児だったようです。
卒業後の進路は不明です。
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さて国籍がわかっている生徒の中で、イギリス人に次いで多いのが日本人でした。
1889年当時は8名が在籍していました。
彼等の多くは官僚や実業家の息子で、海外留学に備えて英語を学ぶためにヴィクトリア・パブリックスクールに入学したようです。
そのため籍を置いていた期間は1、2年間程度とごく短いものでした。
田中銀之助君(16)は卒業後イギリスに渡り、ケンブリッジ大学に入学。
その後帰国して実業家の道を歩みました。
田中銀之助(Wikipedia)
残念ながら、彼以外の日本人生徒の年齢や身元は未だ調べがついておらず、わずかに松田信敬君の父が内務官僚や東京府知事などを歴任した松田道之氏だということがわかっているだけです。
残り6名の名前は次の通りです。
アリイズミ君、井上伊六君、U. ノダ君、タケノウチ君、K. タナカ君、ヨシカワ君。
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横浜初の外国人生徒のための中等教育機関ヴィクトリア・パブリックスクールの1889年当時のようすは、調べがついた範囲ではおおよそ以上のようなものでした。
ただ残念なことに、校舎や在校当時の生徒たちの写真はまったく見つかっていませんし、生徒名簿すら完全なものは残っていません。
On the Bluffでは今後もヴィクトリア・パブリックスクールに関するリサーチを継続していきますので、何か情報をお持ちの方はぜひご一報ください。
どんな些細なものでも大歓迎です。
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ヴィクトリア・パブリックスクールの生徒やその父兄にまつわる過去記事は索引からご参照いただけます。
この機会にご一読いただければ幸いです。
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