玖波 大歳神社

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三 中世における変化  六 正統

2012-01-25 21:04:04 | 日記・エッセイ・コラム

 六 正統
 「神皇正統記」は北畠親房によって皇位が神代からの正しい皇統、また道理によって受け伝えられてきたことを明らかにしようとするもので、北畠親房の国体論を表す一方で後村上天皇の参考に資する目的で著されている。度会家行と親交の深かった親房は、伊勢神道を基盤に(特に「類聚神祇本源」を参考に)して、「元元集」を表し、伊勢神道の「正直」という徳目を中心に神道説を述べ、同時期の「二十一社記」では神明奉仕の心得として「身正しく心明なれば我身即神也…」と述べている。南北朝時代は、後嵯峨天皇が二人の皇子(後深草天皇・亀山天皇)に対する愛情の違いで正統を逸脱したことから生じたといえる。後深草上皇に同情した幕府が間に入り、後深草上皇の子を亀山天皇の養子とし、次の天皇とする案を示し、両者これに合意した。そして、後深草上皇の系統を持明院統、亀山天皇の系統を大覚寺統と呼び、ほぼ交互に皇位を譲り合っていたが、誰にでも想像できるように問題が生じ、後醍醐天皇の頃が互いのフラストレーションを解消すべき時期にきていた様に思われる。後醍醐天皇は朱子学(宋学)に力を注ぎ正統意識と大義名分の依代にしていた。朱子学に基づくものなのか朱子学の理念を利用したのかは定かではないものの、天皇の地位が幕府によって決められることを認めず、ひいては幕府に従う必要はないとし、更に自分が正統であるから持明院統を否定する立場と信念を持っていた。また後醍醐天皇は、密教に傾倒し、「聖天供」を自ら行うほどで、倒幕の祈祷を別の祈願の名を借りて行っていた。加えて、比叡山や東大寺興福寺などを引き込むために大日如来修復など様々な画策を行っていた。寺社の力を後醍醐天皇が重く見ていた表れであろう。親房自体は、検非違使庁の別当に任ぜられ、正中の変・元弘の変の後長子顕家は後陸奥守に任ぜられた。元弘の変の後、北条の残党によって各地で反乱が起き、中先代の乱で北条時行が鎌倉を奪還した。足利尊氏は独断で鎌倉を奪回し、天皇の帰京命令にも従わなかった為に、天皇は新田義貞に尊氏征伐をさせた。尊氏は、義貞勢を破ったが、北畠顕家勢に追われて九州に逃げた。尊氏が志気を上げるために考えたのが「錦の御旗」である。備後の鞆に着いたとき醍醐寺三宝院賢俊から持明院統の光厳上皇の院宣を受けた。これにより尊氏勢は朝敵から正統になり、楠木勢は破れ、比叡山で抵抗を続けていた後醍醐天皇は光明天皇に三種神器を授けた。暦応元年・延元三年(一三三八)顕家・義貞が相次いで戦死し、翌年、後醍醐天皇が崩御された。親房はその訃報を常陸国の筑波山南禄の小田城で聞き、自らが南朝を支えなければならない覚悟をする。尊氏と弟直義は後醍醐天皇の怨霊を恐れ夢窓疎石の勧めに従い禅宗の天龍寺を建立した。親房は関城に移り結城一族に協力を求めたが、逆に陥落させられ吉野に戻ることになった。尊氏と直義の兄弟対決が表面化し親房は偽りの和議で直義の帰順を許し、兄弟対決となり尊氏勢は総崩れとなり直義との和議となったが、執事高兄弟が戦死し、天下三分の形成(京に尊氏・義詮、吉野に親房、越前に直義)になった。しかし、尊氏は直義を討つための大義名分を得るために親房と和睦し、直義追討の綸旨と「公家のことは南朝方の沙汰、武家のことは尊氏方の管領」との勅許を受け、北朝を見捨て、元号を正平に統一(正平一統)した。正平七年(一三五二)相模早河尻で尊氏が勝利し、直義と和睦したが間もなく直義は毒殺された。正平九年(一三五四)親房も世を去った。その頃(一三五五)南朝方は各地で蜂起し、南朝は尊氏の実子で直義の養子直冬を大将として京・鎌倉を制圧した。尊氏・義詮は勢力を立て直し奪還したが、京に天皇はなく、光厳院の第三皇子弥仁を擁立して、後光厳天皇とした。しかし、三種の神器が足らない践祚であったために権威は低下していった。八幡に落ちた直冬は更に戦うか否かに群議で決せず八幡の託宣を求めたが「垂乳根の親を護る神がこの願いに応えることは出来ない」とのことで直冬勢は分解してしまった。尊氏の死(一三五八)後、義詮は九州以外のほぼ全域を勢力圏とし、幕府は安定し始めた。
 この時代で見るべきものは、第一に、承久の変の時上皇等が流刑された状況と違い、後醍醐天皇が何度破れても立ち上がり信念を貫き通した姿勢である。多くの人は世間体や人の目を気にしてその場を取り繕い済ますであろうが、危機を迎えた時代こそその姿勢を見倣わなければならない。第二には、リーダーに現実的な力が無くても、「三種神器」・「錦の御旗(綸旨・院宣)」・「託宣」と言った「正統」を手に入れることにより実力以上の力を示すことが出来たことである。今の時代でも、伝統の中にある力を信じることが大切である。第三には、自分で望みを達成することが出来なくても、全身全霊をかけて努力をしていれば、後に続く誰かが成し遂げてくれるだろうという楠木正成の「七生報国」的な考え方である。自分一代で事を成就すると考えるのではなく長いスパンの上に立った行動が大切であることを示している。法治社会では法こそが正統であるが時代の歯車が少し歪めば法が絶対ではない。そうなった時に神代から繋がる正統が復活しなければならなくなるであろう。このような生き方・考え方を日々に生かしたいものである。
 その後、義満の時代になると武士の棟梁として武力で山名氏、大内氏を征伐したが、宗教を原理にしていた勢力には別の方法を採った。伊勢の北畠親能に対しては、伊勢神宮に参拝し、莫大な寄付を行った。大和では、春日大社・東大寺・興福寺に、比叡山では、延暦寺・日吉神社に、紀州では、高野山・粉河寺などに参拝巡礼し、同じく莫大な寄付をやってのけた。公家たちに対してはアメと鞭を使い分けることを毅然とやってのけた。このことで南朝方は義満に敬服し、幕府は安泰な状態になった。日本において、力によって相手を打ちのめすだけでは、安定を得ることが出来ない、相手の弱みを利用したり、相手の欲しているものを相手が感服するぐらいに与えることで初めてリーダーになれるのではないだろうか。


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