玖波 大歳神社

神社の豆知識

三 中世における変化  七 吉田神道(元本宗源神道)

2012-01-25 21:15:47 | 日記・エッセイ・コラム

 七 吉田神道(元本宗源神道)
 室町後期、吉田兼倶によって大成されたが、これは兼倶以前の吉田家の家学としての古典研究や慈遍等の業績の積み上げである。吉田家は卜部氏の末裔で亀卜を司る家柄であり、吉田神社の世襲神主であり、卜部兼方、卜部兼好、慈遍などの学者が出ている。吉田神社は、平安中期に藤原氏が春日大社の氏神を京都の神楽岡西麓の吉田山に勧請したのが始まりであり繁栄したが、兼倶の頃になるとすっかり荒廃していた(吉田神社だけでなく応仁の乱などの動乱期に多くの神社は衰退し、重要な国家的祭祀も中絶していった。)。兼倶の宗教・政治の卓越した才能(戦火で外宮が焼け御神体紛失の噂が流れた時、戦乱を嫌って吉田神社に神器と共に移られたので調査して貰いたいと朝廷に願ったことなど)により一挙に総本山的地位の基礎を築きあげた。更に、兼倶は大元尊神(国常立尊=天御中主神)を祀るために大元宮を建てその周囲に日本国中の神々を祀り、神祇伯を世襲してきた白川家に対抗して、「神祇官領長上」を僭称し、それを幕府に承認させたのであった。
吉田家は中世末期から宗源宣旨・狩衣許状・継目許状(神道裁許状)などを出して支配力を拡大していたが、家元的地位は寛文五年(一六六五)の「諸社禰宜神主法度」第三条で吉田家の許可による装束の着用との明記により、確立し、幕末まで続く。
 思想面から見ていくと、神とはすべてを超越した存在であり、神は霊的存在にして万物(善悪、邪正を問わず)に宿り、物心すべての存在は神と共にあるとし、すべての現象は神明によるものと考え、その根元が神道であるとしている。また、辺土思想や本地垂迹説に対抗すべく、根本枝葉花実説(日本から種子を生じ、中国で枝葉を現し、印度にて花実を開く。仏教は万法の花実で、儒教は万法の枝葉で、神道は万法の根元であるとし、仏教も儒教も神道から分かれたもので、神道が根本であることを明らかにするために日本にやって来たものであるとする説)により神主仏従論を展開している。更に、元本宗源神道は顕露教と穏幽教に大別され、顕露教とは先代旧事本記・古事記・日本書紀の研究や各種祭祀を延喜式祝詞を持って行うもので、穏幽教とは顕露教に無い神秘的な奥義で万宗・諸源の両壇を設けて、神道三元三妙三行という加持を行った。

関連サイト http://www.geocities.jp/miniuzi0502/jinjadistant/kyoto/daigenkyu.html


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